ガイド : 柳ヶ瀬栄三郎
JR立川駅北口デッキ → (バス) → 砂川四番 → 砂川学習館(豊泉喜一さんのお話) → 昭和記念公園砂川口 → こもれびの里 → みんなの原っぱ → 立川ゲート → みどり橋 → あけぼの口 → グリーンスプリングス → ファーレ立川 → 立川市制50周年記念憩いの場(旧立川基地正門付近)
昭和58年(1983)の国営昭和記念公園開園以来、平成6年(1994)ファーレ立川街開き、4年後の多摩モノレール開業、さらに令和2年(2020)4月にグリーンスプリングスがオープンと目まぐるしく変貌した立川駅北口界隈に焦点を当てた26回目の多摩めぐり。テーマを「砂川闘争と北口開発」とした。開発の端緒は昭和52年(1977)に米軍立川基地が全面返還されたことだった。その基地の存在は大正10年(1921)まで遡る。陸軍を中心とする民間共用の立川飛行場が開設されることで土地を買収された立川市北方域の砂川住民。その後の日米開戦に向けた飛行場の大規模拡張で度重なる苦汁をなめさせられた思いに耳を傾け、変貌を遂げた今日の姿を改めて肌で知りたいと立川に転居して10年という柳ヶ瀬栄三郎さんが5月15日、参加者20人を案内した。米軍駐留時代に勃発した基地拡張計画反対の激しい闘争が残したもの、基地北側のフェンス沿いを歩き、初夏の花々が咲き誇る昭和記念公園を歩き、駅北口の賑わいぶりを見た。歩き終えて胸に残るのは砂川住民らが基地に隣接していたこと故に関わらざるを得なかったその事実こそが、立川の、多摩地域中核都市への道のりの重さだった。
広域防災基地の拠点
立川基地東側に並行する格好の南北道路を走るバス車中は、すでに学習の時間だった。車窓から見る施設が基地返還後に出来たエリアで、この道路部分も元は基地の中だった。沿道東側には災害医療センター、東京医療保健大学、立川警察署、自治大学校、国立国語研究所、統計数理研究所、国立極地研究所、立川市役所、東京地方裁判所立川支部、多摩都市モノレール基地が点在し、西側は警視庁多摩総合庁舎・第四機動隊、立川防災合同庁舎、海上保安試験研究所、東京消防庁航空隊多摩航空センター・消防救助機動部隊・立川防災館、立川消防署といった立川広域防災基地の拠点だ。こうした施設の奥にある自衛隊立川駐屯地の建物などは車窓から見えないので多摩めぐり参加者一行が滑走路北側に移動してから見よう。
境内埋めた基地拡張反対集会
降車した砂川四番バス停向かいは阿豆佐味天神社(あずさみてん神社)。江戸時代初期に拓いた新田開発を機に生まれた砂川村の鎮守として寛永6年(1629)ごろ、村山郷殿ヶ谷(現瑞穂町)の阿豆佐味天神社を勧請した。本殿は立川市内最古の木造建築で一間社流造正面軒破風付きこけら葺き。
この境内を狭しというほど住民で埋まったのは昭和30年(1955)5月。東京調達局(後の防衛施設庁)が砂川町長に伝えた立川基地拡張計画を聞いた住民らが反対同盟を結成して集会を開いた拠点だった。地域の公会堂でも何度も住民集会を行った。
「二度と土地を渡さない」
拡張案は、滑走路を倍以上の3千mに延長すると同時に、滑走路延長線上の砂川四番、五番地区の約15ha(約4.55万坪)が対象だった。住民にとっては「またか」「先祖伝来の土地をまた取り上げるのか」という怒りが渦巻いた。大正10年(1921)当時の立川村と砂川村にまたがる150ha(45万坪)の土地を100人ほどの地主から時価の半値ほどの坪2円60銭で買われて立川基地ができたいきさつがあり、日米開戦を計画した陸軍は昭和16年(1941)に大規模拡張を地主に迫った。この時、砂川だけでも120ha(約36万坪)の農地を接収されて家屋を移転せざるを得なかった。そんな経緯を住民は忘れていなかった。基地拡張反対運動の激しさを物語る「砂川闘争」が始まった。
そうした住民の思いや当時の争乱状況を聞きたいと、当時の砂川町基地拡張反対同盟青年団副団長だった豊泉喜一さん(立川市柏町)91歳をお招きしていた砂川学習館へ向かった。
立川基地拡張反対同盟青年団副団長・豊泉喜一さん
豊泉さんは旧砂川町に生まれて、農家を継いで9代目。立川市議を5期20年務めたほか、市史編纂委員や立川民俗の会会長であり、昭和記念公園内の「こもれびの里」ボランティアリーダーである指導員も務めている。
「砂川が二分されてはならない」
豊泉さんは「基地闘争が、なぜ町ぐるみになったのかというと、砂川は東の端が国分寺、西の端が横田基地。五日市街道のヘリに玉川上水から引いた砂川分水があり、五日市街道沿いにしか人がいなかった。砂川は『2里8丁の鰻の寝床』と言われていた。9㎞ぐらいですね。町ぐるみになったというのは2里8丁のど真ん中に滑走路ができて、砂川が西と東に2つに割かれてしまう、それは困るということで町ぐるみの反対になったのが一番大きな原因です。基地が反対だから反対ではなく、町が分断されること」と力説した。
地縁の強い土地柄であり、選挙の時に地域は二分されることもあったから、例えば、砂川闘争が始まった8年後の砂川と立川が合併することで住民の一体感を図ろうとしたものだろうか、と豊泉さんは、いまも推測の域を出ないという。
砂川闘争では「これ以上の土地の取り上げは死を意味するから拡張絶対反対」と強硬な姿勢を住民同士が確認し合った。
4ヶ月で住民が引いた反対闘争
豊泉さんは、いう。「結局、町ぐるみの砂川闘争は、わずか4ヶ月で崩れた。私も青年団副団長で最初に決意表明もしたが、4ヶ月たったら該当する区域と一部の人が応援しただけで、あとは誰も戦闘争議に関わりを持たなかった。実際に戦ったのは総評と全学連の皆さん」
昭和31年(1956)10月、「流血の衝突」と言われた直後、測量中止の報を待ち受けていた「団結爺さん」の愛称で慕われた住民の馬場源八さんが74歳で亡くなった。自宅敷地内に団結小屋を建てて絶対反対を貫いた。
翌年、基地内の測量阻止闘争に入った。一方で12年前に地主に無断で測量、接収された土地の開け渡しを求める訴訟を反対同盟行動隊長だった青木市五郎さんが起こした。現場では連日、警察隊と反対派の小競り合いが起きていた。逮捕者も出た。
スローガンはなぜ必要だったか
豊泉さんは、続ける。「砂川は長年、飛行機の爆音で多くの人が迷惑を受けたといわれる。爆音で迷惑を受けたのは立川の、今の柴崎町。そこには小学校があり、中学校があり、氏神様があり、家がいっぱいあったところで飛行機が頭の上を飛んでいた。砂川で実際に爆音被害を受けるのは何軒もない。道路の縁にしか家ないですから。よそから来た方は砂川が爆音で大変な迷惑を受けたようにいい、小中学校の授業が中断されたと新聞などで書かれたけれど、滑走路の延長上に小中学校はないです。特に立川基地は輸送基地なので、音が大きい爆撃機とか、戦闘機は飛ばない。すぐ隣に立川基地の倍以上も滑走路が長い横田基地があるから。砂川の基地拡張と同じ日に横田基地は砂川の何倍かの拡張が発表されて、あっちこそ危険。我々は当時、毎日のように反対闘争に動員されて『立川を原爆基地にするな』と一番大きなスローガンを掲げていた。だけど、輸送基地なので原爆基地になるわけがないが、反対するにはそういう大きな目標がないと駄目だから。ところが、隣の横田基地で拡張が進んでいるから『立川を原爆基地にするな』と言ってもあまり意味がない。ただ闘争というのは何か目標がないとできないから、そういうスローガンがあったんです。私のうちなんかにも全学連の学生が随分泊まったりしていた」。
基地返還後、売るに売れない土地
昭和43年(1968)12月19日、米軍司令官は立川基地滑走路拡張計画の中止を発表した。さらに昭和52年11月30日、米軍立川基地は32年ぶりに返還された。
豊泉さんの熱のこもった話は続く。「それともう1つ、砂川闘争は、砂川の農民が苦労して開拓した先祖伝来の土地を守るのが定義でしたけれど、ここで戦った男は、いま私ぐらいしかいなくなってしまった。今になってみると、ここで先祖伝来の土地を守って農家を続けている人が、基地の拡張予定地では誰もいない。ところが、先祖代々の土地を売って他所へ行った人は、この周辺にいらっしゃって、ちゃんと子供も孫も農業をやっている。ここに長年住んで見ていると、いろいろ矛盾が出てくる。今、ここで皆さんが大変困っているのは、この広い土地にグラウンドとか、国が買ったところは有効利用しているけれど、反対して所々に残っている畑があっても相続で売りたい、マンションを建てたいと言っても、道路はない、水道はない、下水路や排水路がないので畑が使えないのが現状です。20年以上前から、ここを区画整理しませんかと立川市が随分呼びかけているが、強硬な方たちは『私の親たちが一生懸命耕したこの土地を今更、他の目的に使わせない』と頑張っている。そう言われると、他の人もそんなこと言わないでやりたいというのは難しい。個人的に道路を入れたりして開発している人がいますが、今一番困っているのは反対してきた皆さん。基地反対闘争は約2年間続いて、その後十何年も裁判闘争が続いた。これからどうするのか、難しい問題を抱えています」。
基地機能の移行を振り返れば…
「朝鮮戦争が終わり、ベトナム戦争も終わり、輸送基地の仕事もなくなってきたという意味でも返還が決まったのかなと思う。立川基地にあった機能を横田基地に移行したことなどから横田が重要視されてきた。戦争中、この辺は日本中の村の中では砂川村が村としては一番大きな被害を受けたと言われるが、立川飛行場があり、立川飛行機など軍事企業があり、陸軍航空工廠があった立川市は、あまり爆撃されていない。立川飛行場も横田飛行場も滑走路はほとんど爆撃されていない。だから米軍は占領したら使おうという意図があって爆撃しなかったのかなと思う」
空襲で弟を背負って防空壕へ
豊泉さんの話は米軍による空襲体験に及んだ。「立川も砂川も空襲を受けました。その被害は、実際には砂川の方が本当に酷かった。立川で一番被害が大きかったのが昭和20年(1945)4月4日の山中坂という立川崖線の横穴の大きな防空壕があって、大勢の人が逃げ込んでいた。四十何人が亡くなった。今、そこにお地蔵さんを建てたお堂ができています(戦災供養地蔵尊:空襲犠牲者を弔う地蔵尊と歌碑がある)。昭和20年2月17日、艦載機170機が砂川六番・原島家、砂川七番・中野家が被弾しましたが、この時は私の家も泥だらけ。2軒隣の原島家に爆弾が落ちて土煙が私の家までやって来たから。艦載機は爆弾が1発しか積めないが、1回落とすと、かなり広い範囲に影響があり、私の畑も被害を受けた。私が通っていた小学校も日立製作所を狙った弾が落ちて全壊した。8月2日の焼夷弾爆撃で私の家の5、6軒先まで燃えてきた。焼夷弾はガソリンをゼリー状にしたようなものが筒に入って、それが何百本も束になったのを上から落とす。落ちると火がついて花火のしだれ柳みたいに上から火のついた塊が無数に落ちてきて怖かった。夜だったので家の防空壕は危ないから畑の防空壕まで弟をおんぶして逃げた。自分の家も焼け落ちると思ったけれど5、6軒先で止まって私の家は被災しなかった」。
被弾した二宮金次郎像を復元
「私が通っていた学校(現立川市立第八小学校)の校庭にあった御影石の二宮金次郎(尊徳)像が被弾して膝から下が失くなりました。薪を担いで歩きながら読んでいる本もすっ飛んでしまった。昭和20年4月24日のB29による空爆で学校が全壊したときの出来事です。学校がないので農家の養蚕室とか、地域の公会堂で授業をした。戦争が終わったら立川飛行機の少年工養成所が近くの雑木林にあったのでそこを借りて授業を始めた」
そんな戦争体験を語り伝えようと、二宮金次郎像を復元した。「八小の創立100周年を記念して平成27年(2015)に近所の人が保管していた石像と設置費用を寄付して建て直してくれた。子供たちを前に爆弾でこういう風に壊れるし、学校が戦争でやられた証拠だから皆さんも戦争が起きないように頑張りましょうと話したことがある」。
畑にそそり立つ「平和の礎」碑
砂川闘争の裏面史も交え、いまもその余波があることなどを語り終えた豊泉さんは、一行がこれから向かう行程の途中まで案内してくださった。「団結爺さん」と慕われた馬場源八さんの墓前に立ち、明け渡さなかった畑に囲まれた中にある高さ3mもある「平和の礎」碑に刻まれた闘争の歩みを改めて見て、闘争のシンボルとしての像への思いや当時の住民の張り詰めた思いを推し量った。
距離長く滑走路南端が見えない
「平和の礎」碑の南側は滑走路北端だ。滑走路は、返還後に西へ200mほど移設して昭和57年(1982)から東部方面隊の自衛隊が運用し始めた。長さ900mだが、北端に300mの過走帯(離発着の滑走に利用できる)がある。普段、眼前にビルを見ている眼には1200m先に焦点が合わないほど真っ平だ。常駐機はないが、自衛隊や海上保安庁のヘリが飛来する。この日は、機影を見なかった。
緑の回復と人間性の向上うたう
基地のフェンスに沿って歩くこと15分ほど。昭和記念公園砂川口から公園に入った。昭和天皇在位50年記念で昭和58年(1983)に開園した。計画面積の94%に当たる約170haに「緑の回復と人間性の向上」を歌い、緑に包まれた広い公共空間と文化的な内容を盛り込んでいる。開園以来、今年4月に延べ1億人が入園した。
立川基地だったころは、軍事施設のほかに住居や娯楽施設などがあり、植物も豊かだった。公園計画段階で基地内にあった約1万8千本の樹木から約1万4千本を選んで樹木の特性や公園計画に合ったものを植栽した。使わずに残した木もあったそうだ。新たに植栽した樹木を含めて園内には高木だけでも2万本あるという。開園して39年目にしては森の景観が深いのは、元々、基地にあった樹木を生かしたからだ。
ボランティアで武蔵野の暮らし再現
砂川口に近い「こもれびの里」エリアは、基地時代の建物を撤去したときに出たコンクリートなどを含む残土を盛り土して、平坦だった土地に30mほどの丘を作った。昭和30年代の武蔵野の農村風景を再現している。講演者である豊泉さんをリーダーにガイドの柳ヶ瀬さんら一般市民がボランティアで作業をしている。この日は畑に二番耕しを終えた麦が伸びており、ジャガイモが花を咲かせていた。落花生は種を植えたばかりだ。ボランティアは、こうした‟農家の一年仕事”を続け、市民の農業体験の立役者になっている。
移築された古民家は元々、江戸中期(18世紀後半)に建てられた和泉村(現狛江市)の石井家のもので名主の屋敷だった。長屋門、内蔵を構えている。武蔵野にあった民家に欠かせない水は「こもれびの里」では屋敷の裏山から流れ出る方式にした水で水車を回し、釜場(池)で温めた水を田や畑に取り込んでいる。代掻きを終えた水田には水が満たされ、田植えの準備万端だった。
公園を基本設計した当時、建設省の半田真理子さんは、生前にあるシンポジウムで「歴史が感じられる公園って、人と人を結び、コミュニケーションが生まれて素敵な空間です」と言っていた。それを「こもれびの里」で結実させたか。
樹齢100年のケヤキがシンボル
この公園のメインエリアの「みんなの原っぱ」は、一面に芝が広がり、週末を過ごす人たちでにぎやかだった。我ら一行もここで昼食をいただくことにした。
公園のシンボルツリーである「みんなの原っぱ」中央にすっくと立つケヤキの大木は元々、基地にあり、開園当時は幹回りが2.4mだったのが、いま4m余りに育った。樹齢100年ともいわれる。公園を基本設計した半田さんは、初めてこのケヤキを見たときに「大ケヤキを中心にした原っぱを作ろうと思った」と言っていた。その思いのまま、10ha以上もある広大な原っぱの中央に植栽した。丸くこんもりしている樹形は見る人の心を穏やかにする。
園内には、ほかに水鳥の池、日本庭園、トンボの湿地などがあり、春から秋に花の開花のリレーとなり、年間を通して楽しめる。
空と大地つながる新スポット
公園の立川ゲートを出て、あけぼの口を出た一行が立ったのは、いま人気一番のグリーンスプリングス。3.9万㎡の敷地も立川基地の一角だった。米軍に接収されていた土地で、現在の立飛HDに返還され、令和2年4月にオープンした最新スポットだ。「空と大地と人がつながるウエル・ビーイング・タウン」と称して都市と自然の境界をなくした街区だ。4階建てながら建物の高さを感じさせないばかりか、水が流れる階段を多くして上階へと誘われる。上り詰めたエリアでは南方から北西に広がる山並みが見えるのが立川の地の利だ。
全体を30以上の店舗やオフィスで構成しており、ショッピングもコンサート(2500席のホール)も楽しめる。温泉付きのホテルにも泊まってみたい。
グリーンスプリングスの北側にある商業施設のIKEAや、ららぽーと立川立飛、さらにアリーナ立川立飛も現在の立飛HDに返還された土地だ。
109点のパブリックアート
グリーンスプリングスの東隣の一画はファーレ立川。基地返還後の平成6年(1994)の北口開発第1期に誕生したエリアだ。5.9万㎡にホテル、デパート、映画館、図書館などオフィスビル11棟が立ち並ぶ。いわばオフィス街だが、路肩や壁面などに36ヶ国92人のアート作品109点のパブリックアートがある。歩いている一行の足下に次々に展開するアート作品の中で参加者が目をとめたのは、ビルの壁面に「私は太陽を待つ」と告知したプレートだった。カナダ先住民の女性作家の作品で夏至(令和4年は6月21日)の正午に路肩に設置した反射板に太陽光が当たると、壁面上段にあるプレートに光が重なり合うという仕掛けだ。「異なった世界のつながりを示そうとした」作品だという。
立川の誇りを絵や歌に
元の立川基地正門があった地点に近づいた。旧多摩信用金庫本店があったあたりだ。立川駅から北へ300m区間の北口大通りに面している。ここに立川市制50周年を記念した「憩いの場」を設け、甲武鉄道(現JR中央線)が敷かれた明治時代の立川駅周辺の情景を馬場吉蔵さん(曙町。昭和49年逝去、享年78)が水彩で描いた「立川村十二景」があった。駅前に茶屋があり、桜が咲き、馬車も行く。「所沢街道八店」の絵の片隅に描き込んだ用水は砂川分水から引き込んだ蒸気機関車に給水するための用水だったという。当時の風景ばかりでなく、生活感が滲む一コマもあって時代を彷彿とさせている。
「立川小唄」の碑も建つ。昭和5年(1930)に発表された大関五郎作詞、町田嘉章作曲の作品だ。汽車が走り、飛行連隊や格納庫があり、高い技術を誇って空の都・立川を歌い上げたものだ。ビル群の底を緑で埋ったこの一画は1世紀ほど前の香りで一杯だった。
建物疎開で作り出した道路
北口大通りは、なぜ、幅30mもあるのか? 駅前再開発の結果か? 第二次大戦による空襲が激しくなるにつれて、被害の拡大を抑える対策がとられた。その一つの結果だった。一帯に密集していた住宅を取り壊して空き地を確保する「建物疎開」が行われた地域だった。昭和20年(1945)7月22日に住民に告知されて1ヶ月半ほどで約400戸が移転した。北口ロータリーが生まれたのは、その時だ。2次疎開も8月に始まったが、敗戦で中止された。
浸水防ぐ排水路に架けた橋
この北口大通りの中間点にある「曙橋交差点」にも曰く因縁がある。一見して橋があった気配はない。現在に至るまで数回の工事が行われた。
立川駅前周辺は、西砂川町周辺の標高より40mほど低い80mだったことから大正11年(1922)に立川飛行場の南端に地下浸透設備や貯水溜などを造ったが、駅周辺では再三、増水に見舞われた。このため昭和19年(1944)3月、川幅12m、側道両側各9mの30mの排水路を北口大通りと交わる東西方向に掘った。ここに架けられたのが曙橋で、交差点の名前になった。
建物疎開と同時に人力で排水路の工事を進めていたが、未完成のまま終戦になった。戦後、進駐した米軍の重機を投入して昭和22年4月30日に素掘りの排水路、緑川と名付けられて通水できた。昭和25年と27年には立川基地から油が流出して火災が発生、‟燃える川”ともいわれた。その後、護岸工事をしたが、人が転落する事故や交通渋滞などを解消するために緑川を暗渠に、さらに駐車場に、その後、今日のように道路になった変遷がある。緑川は、いまも国立市の多摩川に注いでいる。
立川飛行場が出来て100年。民間共用の飛行場から軍事機能を高めた基地に移行、この間、米軍が駐留した立川基地。この基地の存在は、これからも立川市民に、周辺市民に関わり続けて、さらに立川はどのように変わるのだろうか。
参加者みなさんのアンケートで、それぞれの思いで受け止めていただけたのを読んで、企画して良かったと思いました。私自身は豊泉さんという素晴らしい方にお近づきになれたことは考えてもみなかったことでした。これから、さらに立川を深掘りしていきたいと思っています。
私が砂川闘争を取り上げたことは、自分の関心からでしたが、「砂川闘争という言葉は知っていたが、過去の地域的紛争で令和の時代に取り上げるものではないと認識していた」方もいらっしゃったことも知りました。このようにいろんな考え方があることも知っておく必要を再認識しました。
【集合:JR立川駅北口デッキ 5月15日(日)午前9時30分/解散:立川市制50周年記念憩いの場(旧立川基地正門付近) 午後3時半頃】