ガイド:菊池 等さん
JR青梅線河辺駅 → (バス) → 今井城跡 → 薬王寺 → 霞川調節池 → 藤橋城跡 → 常盤樹神社(神明社)・報恩寺 → 今寺榎 → (バス) → 妙光院・おしゃもじ様 → 勝沼城跡 → 天寧寺 → 虎柏神社 → (バス)→ JR東青梅駅
青梅市北部域の加治(霞)丘陵にある中世の城跡では木々が新緑の若芽色、黄浅緑、若葉色などいくつもの緑が重なって、まさに山が笑っていた。そこに射す陽の光は、本丸や曲輪、空堀、馬場を浮き立たせて、数百年前の姿を現していた。4月23日に行った25回目の多摩めぐりの主な舞台は今井城跡、藤橋城跡、勝沼城跡。いずれも一帯の山域である杣保(そまほ)を長年支配した今井氏、平山氏、三田氏の居城だった。菊池等さんが案内した25人の多くは「今日までよくぞ残ったものだ」と感嘆。城跡は、いまでこそ山林の様相だが、攻守共に一気呵成、勇猛果敢に戦った軍場に立った参加者は感慨を新たにし、支配者が周辺の寺社を整備・保護することで地域支配を強めようとした姿勢も見えた。
城にまつわる地名に気はやる
参加者一行は、青梅市今井の原今井バス停から今井城跡へ向かった。今井城跡は加治丘陵の南端にあり、東400mほどの地点は埼玉県入間市だ。城跡の形状を早く見たいと思ったのは歩く途中にあった「城の腰公園」だ。公園北側にこんもりした小丘の今井城跡周辺には城ノ腰のほか、いまも鍛冶屋、馬場崎、城ヶ崎、大橋など城に関わりが深い地名が使われており、城下であったことを強く感じたからだ。
今井城本丸守る二重の空堀
今井城跡は、真新しい住宅地に接していた。一見して木々が生い茂る緑地のようだ。東西約115m、南北約95m。面積は約8500㎡。三つの曲輪で構成された連郭式の城跡だ。中でも本丸は土塁や二重の空堀がある堅固な構えだった。東側半分には西北に延びる深い空堀と三方を土塁で囲った曲輪があるが、西側半分には土塁がない。比高10mほどしかない平山城とはいえ、空堀の底を歩く一行の姿を上の曲輪から見て、矢で一撃されれば一巻の終わりだと感じた。
今井城の築城年は不明だ。平安後期の11世紀、武蔵国に本拠を置く中小武士団だった武蔵七党の一つ児玉党に属した今井四朗左衛門家の流れをくむ今井氏代々の居城だった。これまでの発掘調査で正和元年(1312)から大永2年(1522)までの板碑が37基、開元通宝など古銭が出土したほか、宝篋印塔、骨壺なども見つかって遺構の保存状態が良かったことと、中世城郭の貴重な遺構と明らかになっている。今井氏は安土桃山時代の天正年間(1573~1593)に北条氏と共に小田原合戦で豊臣秀吉勢に滅ぼされた。
城外を睥睨して守り固める
城跡の高所から南側を覗いた。直下にある川越方面への街道につながる山根通りを監視する好適地だ。さらに山根通りの南を流れる霞川が防御の役目をした堀となっていただろう。緊張感が湧く城郭ながら、いま、民家や畑が隣接しているが、「once upon a time(ワンス アポン ア タイム。昔、むかしのこと)」と言い捨てる気持ちにはなれなかった。
今井城跡から住宅街を抜けると、南の丹沢山系から西へ山並みが横たわっていた。冬季には中央に富士山が腰を据えるように悠然と広がるポイントだ。見通しが効くことは守備貫徹につながる。
足利尊氏開基説の薬王寺
坂道を下り、再び登り切ると、そこは足利尊氏が開基したという説がある真言宗豊山派の医王山薬王寺だ。開山は暦応2年(1339)に亡くなった良誓和尚だという。建立当時、法相宗の僧だった良誓が奈良から聖徳太子の作と伝えられる薬師像を携えて来て本尊にしたという。慶安2年(1649)には徳川家光から薬師堂領として10石の朱印状を拝受した。
地域支配強化のパトロン
鎌倉時代から室町時代にかけて貨幣経済が発展し、交通網が各地で整備されるに従って人々の交流が深化した。信仰文化も盛んで青梅でも多くの寺院が建立された。地域の支配強化を狙った領主は寺院の修復・再建、仏像の修理や新造などに力を入れて、パトロン活動をし、文化への造詣を深めることにもつながった。
薬王寺で、一門一戸の青梅市内唯一の重装な鐘楼門をくぐった。吊るしてある鐘は寛政6年(1794)に青梅裏宿(現青梅市青梅)の鋳物師・島村照思(しょうし)が鋳造した。市内の鋳物師が製作した唯一のものだそうだ。地元産業の栄えある仕事の表れだ。
境内は本堂を中心に扇状に囲まれ、そのひな壇にツツジが広がっていた。赤、白、ピンク、オレンジ、黄、紫など万葉の世界を魅せるパレットだった。
暴れ川を逆手に取った?
薬王寺から南下して今井城の防御線の一つだった霞川沿いを下った。霞川は古多摩川の名残川であり、埼玉県入間市、狭山市で入間川に合流する荒川水系の1級河川。延長15.8㎞。青梅は多摩川と入間川の分水嶺だ。
穏やかな水の流れの中で1mもあろうかという魚影に親水感が増したが、流域開発によって長年、降雨期には下流部住民に氾濫被害を及ぼしていた。東京都は平成18年(2006)まで12年がかりで霞川調節池を建設した。施設は地下に埋め込んだ2階建ての貯留槽。地下箱式の調節池を設けたことで1時間50㎜の降雨量に対応できるそうだ。
一皮むけば“暴れ川”となる霞川を逆手に取っていたのは今井氏の今井城だけではなかった。霞川の南側に築城した平山越前守重吉(武蔵七党の西党、平山季重の後裔)の居城だった藤橋城もそうだ。東にある鎌倉街道ともいう岩蔵街道の往来を監視できる好立地だ。
古墳時代の好立地に藤橋城
藤橋城の遺構は、霞川が流れる所より約3mの高台にある。城郭は東西70m、南北60mの曲輪と、付属する腰曲輪や土塁、空堀などから成る。中世城郭の旧態が見られる。これまでの発掘調査で土橋や堀の跡、門址、等間隔で掘られた柱穴や陶磁器などが多数見つかっている。これらから13世紀後半から14世紀前半の遺構であり、出土品の瀬戸など陶磁器は15世紀の特徴が見られるという。城跡の下層から古墳時代の住居跡も確認されている。
平山氏の居城跡、水田臨む
藤橋城跡入口に掲げられていた解説板に武蔵名所図会(文政3年=1820)から引用した平山氏にまつわる説明があった。それによると「平山越前守虎吉という人の住居の地なり。この平山氏は北条氏照に仕えたる人なり。平山右衛門大夫・同伊賀守などは檜原村に城跡あり。又、平井村、大久野村(現日の出町)あたりは平山氏が旧跡なれば、この越前守もその一族なるべし。ここは土居を廻らし、城跡もありて、その内の広さ東西二十間余、南北凡そ五十間程、入口の城戸門跡と覚しきところは南向きにて、すべて平地なり。西より北へ廻らして今井村の水田に臨み、霞川の流れを帯たり。この辺は崖にして高さ二丈あまりなり」。
城跡の西側にはいまも今寺天皇塚水田が広がり、レンゲソウが1反分ほど咲き広がっていた。親子稲刈り体験が行われることでも知られる。また、関東富士見百景(国交省選定)のビューポイントにも挙げられている。
国有地に驚嘆、神明社境内
一行が昼食を採った神明社(今寺1丁目)は地元の人の悲哀の舞台だった。天照大御神を祀る神明社の鎮座は不明だが、往時は浅葉神明といった。文政11年(1828)に編纂された新編武蔵風土記稿に「村社の常盤樹神社(今寺1丁目)が創建される193年前の寛永12年(1635)すでに(神明社は)今寺村の厚い信仰を受けていた」とある。江戸幕府からの朱印地だが、昭和年代にすでに大蔵省登記になっていることが令和2年(2020)10月に判明した。社地の払い下げもかなわず、喪失していたことを知った氏子ら住民が話し合い、常盤樹神社境内に遷座することになった、因縁の社だった。
武将ら報恩寺再興、鐘寄進
隣に青梅市内唯一の天台宗の古刹、報恩寺があった。弘仁13年(822)延暦寺の僧・亮海が開創したと伝わる。本尊は阿弥陀如来。元亨2年(1322)源頼朝の御家人・平清綱が再興し、同じ年に三田氏の三田清綱が鐘を寄進している。
その後、報恩寺は廃れ、藤橋城主・平山越前守重吉が天正年間(1573~1591)に再々興。古くは山号を東暁山としていたが、再々興した時に藤橋山と改めた。寺領10石の朱印状を得ていた。文禄5年(1596)にも行われた諸堂の整備に当時の地元の要人らの名が挙がる。
「たのむぞよ ながく命を」
山門を入った脇の水琴窟から水が滴る軟らかく澄んだ音が響いていた。玉石が敷かれた境内にある地蔵堂は茅葺きだったが、昭和47年(1972)の解体復元修理した折に茅葺き型銅板屋根に吹き替えた。桃山時代の建築様式の特徴があることから青梅市有形文化財に指定されている。
堂内に安置されている木像の延命地蔵は、永正9年(1512)勝沼城の三田氏宗と子・政定と顕昌が寄進したもので、ここでも武将らの姿が見える。城主だった政定が胎内に納めた和歌で、こう願った。「たのむぞよ ながく命をのぶゐてふ 仏の御名を身にしたくへて」。生き長らえるための戦いか、勢力拡大のための戦いか。生きる緊張感が滲む詩歌だ。
縄文の遺物をご神体に
背後の勝沼城(師岡城)の麓で城を守るようにあったのは妙光院(師岡1丁目)だ。勝沼城主・師岡将影の姉が天正2年(1574)に開基したと伝わる。地久山と号し、千手観音菩薩像を祀る。
静かな境内奥の勝沼城跡登り口に「石神(いしがみ)ノ井」の湧泉があった。年中涸れることがなく、城兵たちの飲料水だったのだろう。井戸を掘ったときに現れた長さ89㎝、最大部分の直径約14㎝の石の棒を「おしゃもじ様」として祀る。おしゃもじ様は縄文時代の遺物で、男根に似た形の磨製の石棒。「おしゃもじ」と呼ばれるようになったのは石神(しゃくじ)が杓子(しゃくし)と訛って伝えられるようになったとか。石神神社のご神体としている。
舌状台地に構える勝沼城
「おしゃもじ様」から城壁の土塁跡と思いたいほどの急坂を登った。いよいよ一行は勝沼城跡に入り込んだ。築城年代は不詳だが、鎌倉時代後期といわれる。室町時代の関東管領だった山内上杉氏に被官した豪族の三田氏が築城した。三田氏は羽村以西の杣保と呼ばれる奥多摩まで支配し、北は埼玉・入間方面まで勢力を伸ばした多摩の有力領主の一人で、勝沼(師岡)の地を拠点にしていた。
城跡は、加治(霞)丘陵南端に屈曲する舌状台地の標高215mにある。東西400m、南北150mの中規模な中世の丘陵城郭だ。比高30mに主郭を置き、北と東に3つの曲輪を連ねている。北は台地の急崖と湿地の谷、南は平野部を望む崖を抱えて防御に生かしている。曲輪から見える霞川も要害の一つとして取り込んでいる。東は台地を下げた地点に堀切を入れて外郭とし、一方の西側に入り込んだ自然の谷を防御線とした。
崖上の馬出し跡に立つ
曲輪の1つは、西北の尾根伝いの曲輪で、北西の長軸が83m、北東の長軸が53mと細長い。2つ目は台形に近い形で、南北約90m、東西約79m。現在墓地になっている北面と西面にも曲輪があった。辛うじて馬出しが残っている。騎馬武者や兵士らが足早に行き来しただろう。青梅市内にほかに7ヶ所(西から御嶽城、浜竹の柵、辛垣城、枡形山城、楯の館、藤橋城、今井城)ある城跡に馬出しがあるのは唯一だ。この地に立った一行は「崖上のここまで馬を上げるとは」と感慨深げだった。
寺社支える三田氏の経済力
三田氏は、領地の各所にあった寺院に大きく関わった。応永2年(1395)以降では羽村・一峰院、青梅市下長淵・宝林庵の創建、同長淵・永福庵の本尊造立、同友田・御嶽神社の鰐口寄進。さらに御岳山の御嶽神社の社殿造営や塩船観音寺の諸仏像修理、住吉神社の社殿造営、天寧寺銅鐘の鋳造など多方面を支援して地域と親交していた。こうした背景には領地である杣保の木材や漆、産物を支配して得た豊かな経済力があったからだろう。
一方で文化人とも付き合っていた。永正6年(1509)三田氏宗・正定は京の連歌師・宗長を勝沼に招き交流した。宗長は「東路乃津登(あずまじのつと)」にそのことを書き記している。
攻防の末、軍門に下る
三田氏は、小田原北条氏が武蔵南部へ進出したことで北条氏の配下に置かれたが、永禄3年(1560)上杉謙信の関東進出に出陣し、謙信の小田原城包囲に加わった。しかし、北条氏の長期籠城戦に耐えられなかった謙信は、包囲を解き、越後に戻ってしまう。これを機に再び力を得て進攻した北条氏に武蔵国の豪族は再び軍門に下った。
だが、三田氏は北条氏の支配を嫌って交戦。滝山城主・北条氏照勢の攻撃に備え、勝沼城の西方、辛垣山に籠城できる辛垣城を築いたものの、北条勢の攻勢に持ちこたえられなかった。永禄5年、勝沼城を放棄して、その後、各地を転々。太田氏の岩槻城に落ち延びたが、永禄6年ごろ、自刃して三田氏は滅びた。
三田氏滅亡後、氏照の命を受けた師岡政影が城代として勝沼城に入って師岡城と改めたが、天正18年(1590)豊臣秀吉に小田原城を攻め落とされて廃城になった。
ハーフパイプの底へ矢の嵐
勝沼城跡を歩いた。山深い林相に覆われた空堀は、スノーボードのハープパイプの底だった。身の丈以上の空堀の上から攻められれば、引き返す以外に手はなさそうで一溜まりもない。
南方が開けた見晴らしが効く地点に立った。足下に東青梅駅界隈の建物が積み木のように並ぶ。正面にあきる野市と日の出町の丘陵が横たわる。やや左手の高層ビルは横浜か、川崎エリアか。見飽きることがなかった。兵士たちは、こうして監視の手を緩めなかったのだろう。
天守閣なく防御の見張り櫓
本丸跡は広々としていた。本丸といえば、姫路城や松本城、江戸城のような天守閣や堅牢な石垣を思い起こすが、そうした城は近世になって軍事的機能を求めなくなり、恒久性や外観が重要視された。中世の城の本丸は、天守閣がなく、見張り櫓がある程度だった。
中世の城の役目は武家の平時の居住地であり、ここを防御し、戦時に備えて険阻な山に籠って守りを固めていた。そのために堀や掻盾(かいだて)、逆茂木(さかもぎ)など敵の進路を遮断するバリケード機能を高めた。
勝沼城跡の一帯は東京都の勝沼歴史環境保全地域(12ha)であり、スギやヒノキの植林地とコナラやクリの雑木林、アカマツ、モウソウチクの林、ススキの草原もある。歩いた山道脇でホウチャクソウやチゴユリの可憐な花に目を落とした。近くではウグイスの囀りが響いてハイキング気分も高めた。
三田氏が再興した天寧寺
雑木林を抜けると、曹洞宗の名刹、釈迦如来坐像を本尊とする天寧寺の高台に出た。平将門が平安時代の天慶年間(938~948)に高峯寺として創建したと伝わる。その後、兵火で堂宇は焼き尽くされて、一旦は廃寺になっていたが、文亀年間(1501~1504)に勝沼城主だった三田氏宗が再興した。伽藍配置は曹洞宗禅宗七堂伽藍で東京都史跡に指定されている。
将門の子孫名乗る位牌安置
江戸時代に建てられた二層式の山門をくぐる。左右には二天像の多聞天と増長天が気を払っていた。山門の右手に東司、左手に鐘楼。さらに中雀門を中心に左側には僧堂。右側には庫裡から法堂へと続く廊下がある。僧堂には34世天庵宏道和尚をモデルにした僧形文殊菩薩像を安置。
本堂には三田氏が滅亡してから約60年後の寛永4年(1627)に野口秀房が納めた三田氏の位牌が安置されている。位牌は全高約62㎝で「将門平親王王朝臣三田氏代々尊霊」と記してある。
鐘楼の鐘は大永元年(1521)三田政定が寄進した大梵鐘だ。鐘の銘文には三田氏が平将門の子孫であることを刻んでいる。国重要美術品で同市内最古の鐘だ。
寺域を囲んでいる流水は、今井城や藤橋城、さらに勝沼城も自然の防御堀としていた霞川の源流水で参加者一行の目が注がれた。
武蔵野新田開発の魁だった元家臣
墓地には武蔵野を開発したゆかりの人が眠っている。戦国期の武蔵国忍(おし)城主・成田氏の家臣だった吉野織部之介だ。吉野氏は天正18年(1590)豊臣秀吉の関東攻略で成田氏が没落して多摩郡師岡村(現青梅市師岡町)に移り住んで農民になった。だが、静かな余生ではなかった。
武蔵野台地の新田開発に寄与した玉川上水通水(1654年11月)よりも40年以上前に代官・大久保長安の許可を受けて慶長16年(1611)から武蔵野初の青梅・新町村の開拓に着手した。いわゆる武蔵野新田開発の魁だ。原野に道路を7筋入れ、江戸道の両側に33屋敷ずつ平均2町歩(約2ha)を区画した。深井戸も5本掘削した。元和3年(1617)には月2回の市立ても行った。この経緯を綴った「仁君開村記」を著わした。
源経基の普請、地元棟梁が建築
最後に訪ねた虎柏(とらかしわ)神社も勝沼城主・三田氏宗が永正年間(1504~1521)に再興した社だ。天正18年(1590)に豊臣五奉行の浅田長政が社殿を修理した際、小曽木郷(現青梅市小曽木)の総社とされ、江戸時代には諏訪明神社と呼ばれていた。
祭神は大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)のほか4柱。そのうちの諏訪上下神は天慶3年(940)に源経基が普請したと伝えられ、神社は平安時代中期に編まれた「延喜式」神名帳の論社に挙げられている。
建築形式や構造は三間社、切妻造りの茅葺きで、身舎(もや)の規模は間口約4.9m、奥行き約2.9m。都内では数少ない三間社の遺構で建築年代が古く、装飾も控えめで、古式を伝える貴重な神社建築だという。
この社を建築したのは江戸時代中期の享保19年(1734)青梅村大柳(現青梅市大柳町)の棟梁・張海次郎兵衛が陣頭指揮し大工の宮川善右衛門らが当たった。多摩地域の神社建築の技術的レベルの高さを象徴している。
地形をわが手に生かした多摩西部域の領主であり城主たちは、地域住民が心を寄せた神社や寺をどれほど重んじていたか。この面持ちこそが住民にとっての領主さまであり、住民を束ねる結果につながっていたと実感した多摩めぐりだった。
薬王寺のツツジ開花に合わせた開催としていたため、新型コロナ感染の影響で2年遅れの催行でした。当日は、晴天に恵まれて気温が27度にもなる中で古城跡を訪ねた歩行でバテ気味だったでしょうか。
今井城の空堀を歩く体験では、堀の上から弓矢で攻撃されたら「ひとたまりもないね」などと参加者からの声もあり良い体験でした。
次に訪れた薬王寺は、境内のツツジ満開を狙って開催した甲斐があり、参加者皆さんに喜んで頂けました。
今井城の空堀体験、薬王寺のツツジ満開で予定時間を大幅にオーバーしたことを今後のコース設定の時間配分に活かしたいと思います。
勝沼城でも空堀の中を歩き、当時の城の防御の凄さを参加者皆さんが感じておられた。また、勝沼城からの眺めの良さにも感動され、勝沼城が今井城や藤橋城の何倍もの広さがあったことにも驚かれていました。
天寧寺では鐘楼に上がり、大永元年(1521)に勝沼城主・三田政定が寄進した銘を実際に見て頂いた。三田氏の財力のほどにうなずかれていたことが印象的でした。
【集合:4月23日(土)午前9時45分 JR青梅線河辺駅/解散:JR東青梅駅 午後3時45分ごろ】