「第32回多摩めぐり 八王子駅から西八王子駅(八王子旧市内)へ 七福神+一を巡りながら、
多摩地区最大市八王子市中心街の文化と歴史を探る 」を 12月17日(土)に開催します

第24回多摩めぐり 仙川・野川・喜多見~芸術文化と学生の町仙川から春の野川を散策して喜多見江戸氏を探る

華やぐ桜のトンネル。軽やかに野川沿いを下る多摩めぐりの参加者たち
(世田谷区喜多見で)

ガイド:須永俊夫さん

主なコース

京王線仙川駅 → 昌翁寺 → 仙川一里塚 → ハーモニー通り → せんがわ劇場・東京アートミュージアム → 桐朋学園 → 寺町 → 実篤公園 → 大坂 → 入間川 →糟嶺(かすみね)神社・明照(みょうしょう)院 → 入間川・野川合流地 → 野川 → 野川緑地広場・世田谷トラストまちづくりビジターセンター → 神明の森みつ池入口 → 次大夫堀公園・民家園 → 知行院 → 稲荷塚古墳緑地 → 須賀神社 → 第六天塚古墳 → 慶元寺 → 氷川神社 → 筏道・念仏車 → 小田急線喜多見駅

新型コロナウイルス感染拡大を防ぐためにとられていた18都道府県の蔓延防止等重点措置が3月21日に解除された6日後の26日、今年初めての多摩めぐりを開いた。通算で24回目になるこの日の場所は、芸術文化の香りが漂い、学生が多い調布市仙川(せんがわ)から桜並木の野川を下り、都内唯一の藩庁・喜多見藩を構えていた世田谷区喜多見までの9㎞余りのロングコースだ。ガイドの須永俊夫さんが参加者25人を案内して古墳や農地が広がるなど世田谷区の意外な一面を堪能した。この企画は、コロナ感染拡大で度々延期して3年越しで実現したものだ。

開基400年余りの昌翁寺

厳かな山門が建つ昌翁寺。奥が本堂

集合地の仙川駅前で出迎えくれたのは満開に近い桜だった。ミツバツツジとのコントラストが際立ち、華やいだ春の光景が広がっていた。駅前開発で地元の人々が桜の木の伐採反対を訴えた成果の木だ。

最初に訪れたのは駅北側の甲州街道に面した天台宗の大慈山永久院昌翁寺。戦国武将・今川義元に仕えた飯高主水貞政は天正8年(1590)に徳川家康に召されて関東に入国した折に随った。武蔵国仙川村に封ぜられた後、家督を譲り、慶長12年(1607)四恩報謝のため開基、師の快要法印が開山した。境内に聳え立つケヤキやクスノキの大木が往時を忍ばせていた。威風を放つ本堂は昭和60年(1985)に再建された。

塚と親しまれる一里塚

日本橋から5里に位置する甲州街道
仙川一里塚碑を囲む参加者たち
(調布市仙川町で)
仙川一里塚碑

車列が切れない甲州街道ならではのシンボルが近くにあった。「仙川一里塚」碑だ。甲州街道は江戸幕府直轄の五街道の一つで、仙川は江戸・日本橋から5里(約20㎞)。金山奉行だった大久保長安の指揮で1里ごとに塚を築き、エノキを植えた。いま、仙川一里塚の跡地である街道脇のコンビニエンスストア角に標柱を建てている。見過ごされそうな場所だが、地元の人々は、この地を今も「塚」と呼んでいる。

400m区間に200店連なる

仙川は都心に近く閑静で若いファミリーには住みやすく人気の町だ。仙川駅周辺の賑わいは際立つ。412mに及ぶ商店街「ハーモニータウンせんがわ」を構成する200店以上は、ブロックごとに「トランペットタウン」や「バイオリンタウン」「ピアノタウン」「ハープタウン」といった名付けをしてアピールしている。

文化芸術の創造・発信拠点

清楚な佇まいを感じる一流建築家が設計した建物群(調布市仙川町で)

駅南側の松原通りに出ると、一転して閑静な建物が出現する。建築家・安藤忠雄さんによるコンクリート打ち放しの建物が500mに渡って立ち並ぶ。調布市がいう文化芸術の創造・発信拠点だ。平成4年(1992)に認可された都道によって切れ切れの細長い三角形の土地が出来てしまった。利用価値の低い土地を何とか生かしたいと土地所有者は安藤さんに相談。特異な地形を生かして統一感がある街並みに出来ると安藤さんが手掛けた。

ここに誕生したのが6つの施設だ。3階建ての調布市せんがわ劇場(121席)は舞台芸術のホール。保育園なども併設した。東京アートミュージアムは美術館。前面ガラス張り3階建てのオフィスと住居が入る仙川デジタルスタジオ。マンションも3棟ある。中地正隆さんの設計によるマンションも2棟ある。どれも統一感を出し、一帯には気色ばんだ看板などがなく清潔感があふれていた。

震災移転の6ヶ寺で寺町

開けられた明西寺本堂で手を合わせる参加者たち(調布市若葉町で)

東の若葉町に移動した。通称寺町といわれる。昭和2年(1927)から4年にかけて中央区築地からこの地に移ってきた明西寺、正善寺、西照寺、光西寺、光徳寺、安養寺の浄土真宗本願寺派の6ヶ寺がある。大正12年(1923)の関東大震災で被災したものだ。

明西寺境内前でガイドの須永さんが説明していると、庫裏から出てきたお寺の関係者が「説明書をどうぞ」と。さらに佐々木了宣住職が本堂の扉を開けてくれた。明西寺は元和8年(1622)、佐々木了頓が信州松本から出府して江戸佐久間町(神田)で創建。本堂に安置されていた木造の阿弥陀如来像(高さ65㎝)は350年以上前の作だそうだ。光彩を放つ流麗な姿だった。今年開基400年にあたる。

国内外で活躍する卒業生

世界に名だたるアーチストを輩出している桐朋学園キャンパス前で説明を聞く
(調布市若葉町で)

寺町に隣接していたのは桐朋学園のキャンパスだ。今年創立80年になる。伝統的にピアノ専攻、弦楽器専攻、指揮専攻、作曲専攻が知られる。少数精鋭の実践教育を行い、子供から大人の一貫した体系で毎年600人余りが学んでいる。

卒業生には多くの著名人がいる。指揮者・小澤征爾、演出家・仙田是也、作家・安部公房、劇作家・田中千禾夫、演出家・蜷川幸雄、劇作家・鴻上尚史、俳優では真野響子、高畑淳子、中村梅雀、大竹しのぶ、南果歩……。

水を求めて20年住んだ実篤

武者小路実篤さんの自宅兼書斎を囲む庭を訪ねる(調布市若葉町で)
書斎の庭に咲いていたヒトリシズカ

桐朋学園西の住宅街を南下した先にあった森は、武者小路実篤さん(明治18年~昭和51年)が晩年の20年余りに渡って住んだ屋敷跡だった。その活動の幅は広く、小説に詩に、さらに演劇、絵もしたためた。小説「お目出たき人」「世間知らず」「友情」などの人生論は世代を問わず読まれ、読者への応援歌だった。絵に短文を添えた「仲良きことは美しき哉」「君は君 我は我なり されど仲良き」の言葉は多くの人々を励ました。

武者小路さんが70歳の時、子供のころからあこがれていた水のある所に住むことを実現した。それがここ「仙川の家」だった。崖線から湧く水は池となり、5千㎡の敷地の庭にはサクラ、ツバキ、スミレなどの草木を慈しみ四季を楽しんだ。野鳥の声も響く。5月ごろから秋口まで見られるというヒカリモ(淡水系の藻)の、黄金色に輝く藻を見るのも楽しみの一つだった。

敷地内に自宅・書斎と実篤公園、武者小路実篤記念館を併設して調布市が運営している。

難儀して大坂登り、東京へ

一行は、さらに南下する。住宅街を抜け、小学校、団地もやり過ごした。その先のこんもりした森の入り口で足を止めた。クヌギやスギで覆われていた丘陵の坂は緩めに見えたが、「大坂」と呼ばれる。その昔、地元の農家の人々が東京中心地へ野菜を山と積んだ荷車を進めるために押したり引いたりした山坂だ。いまのように緩い坂になったのは昭和初期に道路が拡幅されてからだという。一大消費地を抱えた近郊農業の強みの裏に動力がない時代の、隠れた労苦の一端を見る思いだ。

丘上に寺と神社

段丘に広がる明照院境内(調布市入間町で)

松原通りを南下して入間町(いりまちょう)に入った。野川支流の一級河川である入間川(いりまがわ)に沿って小さく蛇行する道を進み、20~30段もあろうかという階段を登り切ると、明照院の本堂が胸を開くように大きな屋根を広げていた。天台宗で深大寺の末寺だ。大悲山観音寺と号する。観音堂の十一面観音は、隣接する糟嶺神社の本地仏といわれる。

明照院に隣接した陵山に建つ糟嶺神社

この丘は陵山(みささぎやま)といわれ、さらに一段高いところにあるのが糟嶺神社で、農業の神糟嶺大神(神体は木の立像で束帯)を祀る。かつての村社であり、社殿は多摩郡に4つある墳陵の一つで、墳陵の規模は高さ5m、直径40m。境内からは周囲の住宅地が一望できた。

両岸の高さ違う野川

直線的な野川(左)に北側から入間川が合流する地点は
調布市入間町と狛江市東野川の市境だった

さらに南下する。そこは野川で、小足立橋に出た。ゆったりした流水にしばし見とれた。のどかな光景を突き破るように甲高い鳥の囀りが響く。「キョキョキョキョキョ……」。息継ぎなしに長く囀り続けるウグイスの姿を探すが、見えない。今年初鳴きの声だ。

野川は、国分寺市恋ヶ窪にある日立製作所中央研究所を源にして小金井、三鷹、調布の市境を何度も縫ってきた。ここは中流域にあたり、さらに東南に流れて世田谷区玉川で多摩川に合流する。全長20.5㎞。流域の南岸が平坦で、北岸が急斜面になっていて両岸の高さが違うのが野川の特徴だ。北の崖は、武蔵野段丘面で、多摩川が削り込んで生まれた国分寺崖線であり、この崖線斜面からの水の湧出量が多く、都内でも自然が多く残っている個所だ。

「暴れ川」封じ込めたか

武蔵野段丘面より一段低い立川段丘面に野川が流れている。3万年前~2万年前の更新世に古多摩川が削った部分だが、絶えず流れを変える多摩川ほどの流量がなかった野川は、礫層を川底にして谷を作った格好だ。旧石器時代の遺構が野川の上流部北側にあることから流域は古くから人が住みやすいエリアだった。

この日、見ごろを迎えていた桜並木を散策する人々など穏やかな光景が見られたが、昭和半ばまで流域一帯を象徴して「暴れ川」と言われていた。小田急線が冠水したり、住宅浸水などで住民避難を繰り返したりした結果、野川改修期成同盟を結成するなどして東京都は昭和44年(1969)調布と狛江市境の西へ流路を変更した。

こうした対応策にもこのところ警鐘が鳴らされている。平成27年(2015)3月30日、国は野川・仙川を洪水予報河川に指定した。大雨で急激な水位上昇による氾濫の恐れがあるというのだ。いわば薄氷を踏むような野川だが、世田谷トラストまちづくりビジターセンターの広場で採った昼食のご馳走は、のびやかな野川の光景と咲き誇るサクラだった。

150両収容の検車区

ビジターセンターの対岸に延びていたのは「きたみふれあい広場」と一体になった小田急喜多見検車区だ。敷地6万8300㎡で電車150両ほどが収容できる。平成6年(1994)小田急線の複々線化に伴い検車区を新設した。この屋上をふれあい広場として開放している。

歓声上がる湧水路

スズランも引き立つ、神明の森みつ池から流れ出た湧水路(世田谷区成城で)

野川に架かる神明橋を過ぎると、民家脇に細い水路があった。澄んだ水を見て参加者は歓声を上げた。この水は民家裏手の国分寺崖線上にある「神明の森みつ池」から流れ出ている。縄文人が好んで住んだほどの一等地であり、春にカタクリが花を広げ、夏にはホタルが舞うサンクチュアリとして世田谷区が特別保護地区に指定している。

水と農のある風景に

野川に架かる雁追橋を渡って野川の右岸を下る(世田谷区喜多見で)

野川の左岸を下り、小田急小田原線をくぐって、世田谷通りを渡り、さらに野川の雁追橋で右岸を下ること200m弱。江戸時代から明治時代の雰囲気があふれる次大夫堀公園と古民家を訪ねた。

この日のコースの世田谷区喜多見一帯は区内の中で農地が多く残る地域で、農業振興を行い、農地保全に力を入れている。地域資産として風景の継承にも繋げている。そんな象徴的な風景を復元しているのが次大夫堀公園の民家園だ。公園内や民家園を取り囲むように水路を巡らしている。次大夫堀だ。野川から汲み上げて浄化した水を巡らしている。

元は天正18年(1590)関東に入封した徳川家康に5万石相当の土地を預かる代官職に抜擢された小泉次大夫(1539~1624)が多摩川から農業用水を引くことを進言して実現したのが六郷用水だ。これ以降、小泉は稲毛・川崎領(現川崎市)に移り住み、用水奉行を務めた。慶長2年(1597)に二ヶ領用水、六郷用水を建設した。着工から14年後の慶長16年(1611)に完成した。

14ヶ村潤した六郷用水

中でも六郷用水は多摩郡和泉村(現狛江市元和泉)の多摩川を取水口とし、世田谷領と六郷領(現在の狛江市から世田谷区・大田区)に水路を張り巡らした。全長約23.2㎞。沿岸の14ヶ村の水田を潤した。通水100年ほど後に改修したが、享保10年(1725)代官だった田中丘隅(休隅)の指揮で再改修され、廃止される昭和20年(1945)まで350年余り、周辺住民の農業・生活用水として欠かせない水だった。その後、流域の宅地化が進み、1970年代までに埋め立てられ、あるいは雨水用の下水路化した。

元々、世田谷・喜多見村に張り巡らしていた六郷用水を復元した次大夫堀公園
(世田谷区喜多見で)

8間取りの元名主家役宅

江戸時代末に建てられた旧安藤家住宅主屋と内倉
(世田谷区喜多見の次大夫堀公園民家園で)

次大夫堀民家園に入ると、4棟の茅葺き屋根の住居と住宅の表門や蔵が重々しく建っていた。その中の旧安藤家住宅主屋は桁行13.5間(24.5m)、梁行5間(9.1m)、床面積は90.8坪(300.4㎡)と大きい。江戸時代後期の建築で旧大蔵村(現世田谷区大蔵)名主家だった。家が繁盛していた明治中期の姿に復元したものだが、式台をはじめ、役宅を兼ね備えた8間取りだ。室内では小型の機織りを動かしているボランティアがいた。主屋の外にある内倉も復元している。

早立ち、夜なべ仕事の土間

世田谷の旧大蔵村名主・旧安藤家の囲炉裏の間

いろりが掘られ、家の造りや土間などに昔の暮らしがのぞく。半農半商だったという旧城田家住宅主屋は、喜多見の登戸道にあって、多摩川の六郷から引き揚げてくる筏乗りたちの帰り道だった。家の土間は広く、ここで出荷する野菜などを夜通し選別作業に追われていただろうか。

この周辺の江戸時代の生業はほどんどが農業であり、市場に出す農産物は神田、京橋、青山へ荷車で運んだ。前夜11時ごろに家を出て翌朝、市場に着くようにするのが喜多見界隈の農家の人たちの一般的な動きだった。

その流れは長く続き、相変わらず道は、砂利やぬかるみでデコボコ。大正10年(1921)ごろからは牛車を使って運んだが、行きは提灯の明かりを頼りに、帰りは町場の下肥を積んできたから荷はさらに重くなる。途中には国分寺崖線や立川崖線などの坂があり難儀した。そんな往時の働きなどを思っていると土間から動けなかった。

民家園の玄関口にある旧城田家住宅主屋で集合した参加者。
城田家は農業の傍ら、町場で見られる家の造りを取り入れていた

喜多見家、鬼門除け祈願所

喜多見家の鬼門除け祈願所だった知行院。明治初年に砧小学校を置いた
(世田谷区喜多見で)

次太夫堀公園民家園で江戸中期の時代に浸った気持ちを、さらに200年以上も前の室町時代中期に遡らせてくれたのは天台宗の龍寶山常楽寺と号す知行院だった。草創期は文明年間(1469-87)と伝えられ、天正16年(1588)喜多見若狭守勝忠が館の鬼門除けの祈願所として開基し、慶安2年(1649)には江戸幕府から寺領8石2斗の御朱印を拝領した。薬師如来坐像を本尊にしている。明治初年に立ち上げた砧小学校仮校舎があった地の境内につながる広場は、いま子供たちの野球場だった。

周溝巡る横穴式石室古墳

7世紀ごろの有力族長が埋葬されたといわれる稲荷塚古墳(世田谷区喜多見で)

訪ねる先へ歩を進めるごとに時代が遡る。古墳時代後期の世界が漂うのは7世紀ごろの有力族長の墓とみられる稲荷塚古墳だ。墳丘は直径13m、高さ2.5mの円墳だ。昭和期に行われた2回の発掘調査で周溝や泥岩切石積横穴式石室が確認された。石室には葬られた人の身分を示す圭頭大刀、耳環、土師器があった。

近くの北側にも稲荷塚古墳よりも古い古墳時代中期の円墳、第六天塚古墳がある。竹林に囲まれた小丘は直径29m、高さ2.7m。深さ50~80㎝の周溝を巡らしており、全体で直径33mにも及ぶ立派な墓所だ。江戸時代後期には丘上に第六天が祀られ松の大木が生えていたという。

喜多見一帯は、いまも平坦な地が広がることや古墳も目に付くなど奈良時代以前から人が住み、江戸時代初期には江戸氏の後裔喜多見氏が藩庁を設けた歴史ある地域だ。

塚の上の天神様で湯花神事

地元の人々がいまも天神様と親しんでいる須賀神社。
拝殿前のムクノキの太さが歴史を物語る(世田谷区喜多見で)

第六天塚古墳の脇には樹齢400年といわれるムクノキの大木を前にした須賀神社がある。天神塚の上に鎮座しており地元では「天神様」と呼ばれて親しまれている。須賀神社は承応年間(1652~54)に喜多見重勝が喜多見館内の庭園に勧請したもので、毎年8月2日、社殿前に大釜を据えて湯を沸かしてササの葉で振りかける湯花神事が行われる。湯にかかると、1年間病気をしないという習わしがある。このような神事を今に伝えるのは区内唯一だという。

江戸氏ゆかりの慶元寺

世田谷区内の寺院建築で最古の山門をくぐると、広大な境内が広がっていた慶元寺
(世田谷区喜多見で)

須賀神社西方の杜にあったのは浄土宗の慶元寺だ。参道奥の山門前に泰然と腰かけている江戸太郎重長の像があった。慶元寺は重長によって江戸城の紅葉山に創建された江戸氏の氏寺で、当初、岩戸山大沢院東福寺(天台宗)だった。江戸氏が室町時代の応仁2年(1468)にこの喜多見に転居したのを機に寺も現在地に移した。その後、天文19年(1540)に真蓮社空誉上人によって浄土宗に改宗され、寺院名も永劫山華林院慶元寺とした。京都・知恩院の末寺だ。墓所に江戸氏が眠る。

慶元寺山門前に立つ江戸太郎重長像
(世田谷区喜多見で)
慶元寺墓所に眠る江戸氏の墓地

慶元寺の本堂は正徳6年(1716)の建築で世田谷区にある寺院建築物の中で最古で、山門は宝暦5年(1755)の建立。鐘楼も江戸時代に造られたもので、いずれも重装感にあふれていた。山域には喜多見古墳群の中の慶元寺3~6号の4つの古墳がある。

「入り江の戸」が江戸

地名の江戸を称したのは? 江戸氏が出現したのは、いつごろだ? 

江戸の地名の由来は定かではないが、鎌倉、平安時代にすでに存在していたようだ。現在の千代田区日比谷あたりまで海が迫り、入江だった。「入り江の戸」にあたることから江戸と呼ばれるようになったという説が有力だという。

武蔵国発祥の江戸氏

その江戸の地に出現した江戸氏とは? 武蔵国を発祥とする武家だ。桓武天皇系の血を引く秩父平氏の一族であり、後三年の役(永保3年=1083~賢治元年=1087)で先陣を務めた平武綱の子・秩父重綱の四男・江戸重継は平安時代末(12世紀半ば)に武蔵江戸郷を領して「江戸四郎」を名乗り、江戸氏を興し、多数の支流一族を支配して武蔵国の広範囲に勢力を拡大した。江戸氏は、後の江戸城の本丸、二の丸周辺の台地上に居館(江戸館)を構えたと考えられる。源頼朝と石橋山で戦うが、その後帰服し、隅田川の渡河には大いに支援をしたという。室町時代には鎌倉公方に仕えたが、一族の功績は覚束なく、大田道灌の進出を許した。

江戸を下がり喜多見へ

室町期に江戸重広の代で総領家が世田谷木田見(喜多見)へ移ったことで大田道灌が進出。庶流の木田見家が江戸家名取を継承したとも伝えられる。喜多見に退いた江戸氏は、後北条氏に属して世田谷城主吉良氏に仕え、家名を維持した。豊臣秀吉の小田原攻めの余波を受けて世田谷城を攻撃されて城主吉良氏朝は下総(現千葉県)へ逃れた。江戸氏も同様の運命をたどったらしい。

徳川家康が江戸入府して江戸時代に入って江戸氏23代目の勝忠は家康の家臣となり、世田谷区喜多見に所領を安堵され、姓を喜多見氏に改めた。その後、喜多見勝忠は、関ヶ原の戦い、大坂夏の陣に従軍した功績から元和元年(1615)に近江国郡代、翌年、堺奉行になり、後陽成天皇(107代天皇)の葬礼を務めた。子に旗本で茶人の喜多見流喜多見重勝がいる。

区内唯一の藩庁構える

勝忠から3代後の喜多見重政は、徳川綱吉の御側小姓に出世して2千石、後に6800石余りを加増され、合計1万石の所領を有し、諸侯に名を連ねた。さらに2万石の大名に列し、喜多見藩を立藩、喜多見村慶元寺前に陣屋を構えた。現在の東京23区内に藩庁を置いた唯一の藩として注目される。

江戸時代前期の貞享4年(1687)10月に徳川綱吉が出した「生類憐みの令」のお触れによって、側用人だった喜多見重政が犬支配役になり、陣屋敷地に犬の介抱所、看病所、寝所のほか、陣屋役所、門番所、鶏部屋、鶏遊び所などを設けて犬小屋を造った。多い時で1万3878匹を預かり、中間を20人弱、養育の世話係約5700人を充てたという。集まった犬を収容しきれず、幕府は後に大久保、四谷、中野に収容施設を拡大した。

刃傷沙汰が元で廃藩

元禄2年(1689)、順風満帆に見えた喜多見家だが、溜まりに溜まった遺恨が噴出した。喜多見重政の弟と妹婿が対立、屋敷内で刃傷沙汰に及んだことで幕府から突然改易、廃藩されて藩主家の喜多見家は滅びた。重政の嫡男忠政は、後に松前藩に仕えた。

江戸氏が再興、喜多見氏が礎築く

喜多見村の鎮守で郷社だった氷川神社(世田谷区喜多見で)

多摩めぐりの参加者一行は、旧喜多見村の鎮守で郷社だった氷川神社へも足を延ばした。素戔嗚尊(須佐之男命・すさのおのみこと)を祀る。天平12年(740)の創建と伝わる。室町時代に洪水などで神社にまつわる古文書などが消失しており詳細は不明だ。

氷川神社二の鳥居で台石上部の根巻に注目する参加者

永禄13年(1570)江戸城からこの地に移り住んだ江戸氏当主・江戸刑部頼忠が荒廃していた氷川神社を修復して祈願所とした。天和2年(1682)喜多見氏の初代・喜多見若狭守勝忠から神領5石が寄進されるなど、いまの神社の礎になった。承応3年(1654)に喜多見重恒・重勝兄弟が寄進した石の、二の鳥居は、白雲母花崗岩の明神鳥居で台石上部の根巻が太い特徴があり、いまも参道に重みを加えている。世田谷区最古で有形文化財に指定されている。

氷川神社は大正時代に改築されたが、焼失し、平成2年(1990)現在の社殿に再建した。

筏乗りたちも願ったか、念仏車

氷川神社からさらに北上すると、この日の終幕ポイントである旧岩戸村(狛江市岩戸)の境界域にある念仏車に寄った。念仏車は、石造四角柱の上部に六角形の車輪が挟み込まれて入り、各面に六字名号(南無阿弥陀仏)が刻まれている。車輪を回しながら、念仏を唱えると、1回まわすごとにお経を1回読んだと同じ功徳があるとされている。念仏車は、文政4年(1822)喜多見郷の女念仏講中が建てたという。これまでどれほど多くの人たちがそれぞれの願いを寄せたことか、六角形の車輪は円みを帯びていた。傍らの小祠(元禄5年=1692)に安置されていた地蔵(享保4年=1719)の顔が優しかった。

念仏車を回して手を合わせる人が多かった
(世田谷区喜多見で)
念仏車の前の通りは筏乗りたちが
家路を急いだ古道の「筏道」だった

念仏車の前の道路は筏道ともいわれる古道だ。多摩川を下る筏流しは、江戸時代初期から始まり、幕末から明治30年代にかけて最盛期だった。青梅や五日市などで組まれた筏は、木材や薪炭を乗せて多摩川の六郷(大田区)や羽田のあたりで木場の商人に引き渡していた。この古道に商いの家や旅館もできたという。下げ終えた筏乗りたちは、帰路を急いだ途中にある念仏車で休憩がてら往来の安全を祈願しただろうと想像した。

多摩地域から都内へ踏み込んだ今回の多摩めぐり。都内唯一の藩庁があったことや、多摩の農産物、木材などを江戸市中に送り込んだだけではなく、農業者や筏乗りたちは市中の人々を虜にしていた話題も持ち帰った文化の伝達者でもあったことに思いが及んだ。

須永さん
須永さん

コロナ感染防御対処で、2020年3月の桜満開を期待した「仙川・野川・喜多見」コース散策は、漸く翌々年の今年に開催が実現した。気にかかった天候もまずまずで、桜も数日前の好天を受けてほぼ満開状況にあり、長年の宿題を完了した安堵感を感じさせていただいた。

徳川前の大田道灌、その前は?と、歴史の教科書にも触れられていない、江戸氏の歴史に興味を持った。多摩めぐりとはいえ、調布市仙川から野川の桜を見て、国分寺崖線上の世田谷区成城の高級住宅地を眺めながら、同じ世田谷区の崖下の平地の農村風景が世田谷区地域風景資産に選ばれている喜多見に、大田道灌前の江戸城主江戸氏を訪ねるコースを設定して、殆どアップダウンのない10km近い長丁場を歩いていただいた。歩行距離が長いとのご批判は覚悟のうえであったが、無事に解散地まで参加者全員に歩いていただけてホッと安心した。

仙川の賑やかな商店街から、整備された近代的ビル街を通り、多摩川北にあるコンクリート河岸ではない野川に親しみを感じていただき、23区内とはいえ農の風景を味わえる喜多見に繋いで、散策コースとして殆ど紹介されもしない地区をご案内したつもりでいる、いかがでしたでしょうか?

【集合:3月26日(土)午前9時30分 京王線仙川駅/解散:小田急線喜多見駅 午後3時30分ごろ】