「日本信託の車ですね。支店長の自宅が爆破され、この車にも爆弾が仕掛けられているとの緊急連絡が入っています。車を調べさせてください」――。昭和43年(1968)12月10日午前9時21分ごろ、府中市晴見町4丁目、府中刑務所北側の学園通りの路上で、白バイ警察官を装った犯人は、銀行員と運転手が乗って現金を運んでいた乗用車の前に出て車を停止させて第一声を放った。これが事の起こりだった。20世紀最大の3億円、現在の価値では20億円とも30億円ともいわれる多額な現金強奪事件が勃発した。行員らは車から降りて一目散に退避。その隙に警察官は、現金輸送車に乗り込み逃走した。東芝府中工場従業員のボーナスを奪われた。犯行は、わずか3、4分だった。誰一人けがを負わせることもなく、現場から消え去った。計画のち密さの裏に120点以上の遺留品を残しており、粗っぽさも見えて早期に事件が解決するように思われたが、7年後の昭和50年12月10日午前0時、犯人が特定できないまま公訴時効になった。
この事件の関連現場を半世紀後の12月7日、24人の参加者を得た多摩めぐりでは当時の警視庁の調べや遺留品、目撃情報を組み立てて現場に立った。当時小学生から20代だった参加者は、犯人逮捕に至らなかったミステリアスな事件に新たな好奇心を湧かせて「今日の多摩めぐりは、老年探偵団の推理が面白かった」「友人、兄弟など、50年前を思い出し、語り合い、大いに盛り上がった。想像以上に興味深かった」「今日のことを家族にも説明する」と感想を述べていた。
目次
爆破予告で事件刷り込む
多摩めぐり一行の集合地だったJR武蔵野線北府中駅から徒歩10分ほどの府中刑務所北側の学園通りの路上が事件発生現場だった。当時、黒っぽい刑務所の塀は、いまは白く、開放感を漂わせていた。見通しが効く学園通りを挟んだ向かい側には高校や小学校、住宅が連なっている。いわば、何ら変哲もない町並みだ。
事件勃発の経緯は、こうだ。
半年前の昭和43年4月25日以降、5回に渡って給料日と夏のボーナス支給日に府中・多磨農協に脅迫状が届いていた。指定した場所に脅迫状を取りに行けという指示だ。12月6日、今度は東芝府中工場へ冬のボーナスを輸送する日本信託国分寺支店長宛に巣鴨の自宅を爆破するという脅迫状が届いた。銀行内には爆発物に注意する空気が流れていた。
現金輸送車追い抜いて止める
午前9時15分、現金を積んだ乗用車(黒いセドリック)は、国分寺支店を出発。指定された学園通りを走っていた。すでに犯人は、緑色のカローラに乗ってセドリックの動きを偵察しており、国分寺街道に近いどこかで、現金輸送車を追い抜き、おそらく府中市栄町の空き地にあらかじめ用意していた偽白バイに乗り換えて、さらに近道を通って現金輸送車を追尾したに違いない。
現金輸送車は、東芝府中工場まであと数百メートルという府中市晴見町の府中刑務所北側の学園通りで、後方から追い抜いてきた偽白バイ警察官の指示で停車した。
爆破物移動する勇敢な警察官
午前9時21分ごろ、偽白バイ警察官は、黒いセドリックの運転手に近づき、「車を調べさせてください」と告げた。運転手と行員3人は、車から降りた。偽警察官は、ボンネットの下に仰向けになって潜り込んだ。突然、立ち上がって叫んだ。「あったぞ、ダイナマイトだ。逃げろ、爆発するぞ!」。同時に車の下から白煙が上がった。4人は、咄嗟に車の後方に逃げた。
午前9時25分頃、偽警察官は、輸送車に乗り込み、急発進して逃走した。残された4人は、何が起きたのか、呆然としている。行員らは、後に「勇敢な警察官が爆発物を積んだ車を危険でない場所に移動したと思った」と述懐している。偽警察官だとは思いもしていなかった。
黒いセドリックが消えた路上には白い煙を上げるダイナマイトと、白バイが残っていた。ダイナマイトは発炎筒だった。白バイは、ヤマハのオートバイで本物の白バイ(ホンダ製)ではなかった。
時間かかった110番への通報
午前9時31分、行員は、200mほど東のガソリンスタンドに飛び込んで支店に「110番通報」を要請したが、爆発騒ぎがあって警察官の検問を受けていることが印象強く伝わり、電話を取り次いだ支店長代理は、110番への電話で「検問を受けているようだが、事故でも起こしたか」と問い合わせをしたにすぎなかった。事件に巻き込まれた当の行員らは、偽警察官だったことに気づくのに時間がかかった。
午前9時35分頃、110番通報ができた。たまたま現場をマイカーで通りかかった警察官が行員から事情を聞いて通報したものだ。
午前9時41分頃、府中署のパトカーが現場に着いた。
駐在所勤務の巡査長、輸送車発見
午前9時45分頃、警視庁は全署に緊急配備を指令、都内900ヶ所余りに検問を敷いた。小金井署本村駐在所の巡査長も目を光らせ、勘を研ぎ澄ませた一人だ。持ち場の東元町三丁目交差点で見張りながら考えた。犯人の立ち寄りそうな場所が数ヶ所思い当たった。自ら自転車で向かった。
これより前の午前7時40分頃、近くの高校生が、この場に濃紺の1968年型カローラ・デラックスの「多摩5 ろ 3519」(略称「多摩五郎」)が止まっていたのを見ていた。後に日野市多摩平団地で12月5日から6日にかけて盗まれた車だとわかった。
武蔵国分寺跡へ入る市道をフルスピードで走るセドリックが泥水をはねてびしょ濡れになった園児の母親は、車のナンバーを警察に通報している。
武蔵国分寺跡は、史跡公園化の環境整備第1期工事の始まる前で事件当時の一帯には草が生い茂り、犯人のように車を乗り入れることもできた。
空き地に偵察車を置いていた?
犯人の逃走経路は明確ではないが、府中市栄町2丁目の空き地に事前に偵察車や偽白バイを置いていた形跡が強い。国分寺街道から細い路地を西に入った空き地だ。今は周辺が開発されて跡形がない。路地は、幅2mほどで車がすれ違えない。対向車がなかったことは奇跡だ。参加者は、改めて住宅街を見回していた。
この空き地にエンジンをかけたままのオートバイと路上に黒っぽいレインコートを着た男がいたことや猛スピードで乗用車が空き地に入ったり、急発進したりして行くのを住民らが目撃している。足跡が正規の白バイ隊員の靴底と極似していた。だが、いずれも犯人と特定できる決め手がなかった。
多い遺留品に振り回される捜査
遺留品は124点と多かった。指紋は30個が採取されていた。警視庁では犯罪歴がある600万人の中からの指紋照合に手間取っていた。事実、時効成立までに照合できたのは157万人だった。偽白バイは、ヤマハスポーツ350R1の車体に白いスプレーをかけたもの、偽白バイのスピカ―は盗品、赤色灯は赤色ランプなど、ほとんどは簡易に取り付けたものだった。強奪現場に残った偽白バイが引きずってきたカバーシート、それに巻き込まれていたハンチング帽、発炎筒も雑誌を巻いて作ったものだった。
警視庁が作った犯人のモンタージュ写真も効果がなかったばかりか、かえって捜査現場を混乱させたという向きもある。モンタージュ写真を持って取材に回る新聞記者が通報されたこともあった。
空のジュラルミンケースと逃走車
捜査は年を越し、警視庁は翌年3月に捜査員をさらに増やして197人にした。
4月9日、犯人が逃走用に使った「多摩五郎」が小金井市本町の本町住宅駐車場で見つかった。ディーラーの営業マンが団地に住む会社員と新車の売買契約を交わして下取り車を査定しているとき、脇に止めてあったカローラのシートの切れ目からジュラルミンケースが見えた。最寄りの貫井北町交番に走って届けた。車は「多摩五郎」だった。ほかに何台もの盗難車が放置されていたことも分かった。多くの人が住む場であったことが逆に死角になっていた。
見つかったジュラルミンケースは3個。その中にあった土1.5gは、国分寺市恋ヶ窪の土壌に近いものだった。白バイ警察官に似せるために使った白いペンキ片も車内から出た。
進展なく捜査本部縮小化へ
事件から丸1年が過ぎた12月12日、別件で逮捕した臨時ニュースが流れた。だが、アリバイがあることが分かった。容疑者は、ヤマほど出た。だが、進展がないまま、昭和44年6月10日、府中・小金井市の一部を残し、地どり捜査は終了した。運転免許取得者の捜査対象は21万4000人に絞り込んだ段階でもあった。
この間も有力容疑者が浮上という誤報も生まれた。45年7月、捜査本部は、さらに縮小されて106人体制になった。46年には46人と捜査員がどんどん少なくなっていく。3億円展示会を開いて遺留品などを公開して必死に捜査を行ったが、有力情報はなかった。
警視総監「残念の一言」残して
捜査員17人の捜査本部になり、聞き込み捜査を終了としたのは昭和50年12月8日、時効成立2日前だった。土田國保警視総監は記者会見で「残念の一言に尽きる」と唇をかんで公訴時効となった。
この事件を振り返れば、多磨農協への脅迫事件が相次いだことから小金井署は、3億円事件発生の2週間ほど前に管内の金融機関支店長を前に「金額の多少にかかわらず、必ず警察署に連絡するように」と通達していたが、守られなかった。
- 捜査費 9億7200万円
- 延べ捜査員 17万1346人
- 捜査員が歩いた距離 76万8150㎞(地球約20周)
- 目撃者 42人
- 寄せられた情報 2万7783件
- 捜査対象者 11万7950人(うち退職警察官2000人)
3億円事件が残したもの
事件発生前の12月6日には日本信託国分寺支店長宛に脅迫状が届いており、警察官のパトロールを増やすなどの警備強化のさなかで起きた3億円事件で、日本信託は警察に現金輸送日を連絡していなかったことが悔やまれる。
しかも現金輸送車にはジュラルミンケースを固定するなどの措置もなく、ジュラルミンケース自体にも施錠していなかった。
東芝府中工場従業員へは、事件翌日にボーナスが支払われた。日本火災保険は海外の再保険会社へ再保険をかけていたことから日本火災自体も補償を受けた。いわば、国内では、だれもどの企業も傷まなかったというが……。
この事件以来、現金輸送は防犯体制を整えた警備会社が行うようになったほか、自動車には盗難防止装置が備えられ、会社員の給料は銀行振り込みになって安全策が強化された。ただ、給料振り込みになったことで夫たちの威厳だけが下がったという声も高い。
- 三鷹市野崎の自動車会社に勤務していたころ、刑事2人が聞き込みに来た。あと数年で時効になる事件を地道に捜査している現実を知り、社内で相当話題になった。事件現場の府中刑務所脇を何度も通り、その都度、不可解な事件であることを強く思った。(立川市・Kさん)
- 事件の4、5日後、府中、国分寺、小金井地区で男子がいる家庭を警察官が一軒一軒聞き込み調査をしていた。私の家には中学生の弟がいたので来た。警察官が足で調べるという大変な努力がいる仕事だと近所の人と話した。(府中市・Kさん)
- 当時19歳だった私の勤め先である自動車関係会社(相模原市)にも事件数日後、警察官が12月10日に会社を休んだ人がないか調べに来たと上司から聞いた。私は、自動二輪車の免許を持っていたので、そのことも調べられたのだと思う。(青梅市・Kさん)
- 当時小学生だった私の友達のお父さんは刑事で3億円事件の捜査に当たっていた。過酷な捜査だったのか、そのお父さんは体重が十数キロ落ちたそうだ。(八王子市・Sさん)
- 事件が起きて半年ほどたった頃、刑事が家に聞き込みに来たと弟に聞いた。すでに弟の学歴を調べており、事件当日は、授業に出ていたから、その後の聞き込みはなかった。(武蔵野市・Yさん)
- 当時、高2で中部地方にいた。平成になって関東地方に転勤して、府中刑務所の脇を通った時、「おっ、ここかー」と既視感に襲われたことを思い出した。(武蔵野市・Mさん)
ガイド:味藤さん
「3億円事件」が発生したのは約半世紀前。多摩めぐりに参加される皆さんには「ああ、あれか」といろいろ記憶の糸を手繰り寄せることのできる事件ではなかったでしょうか。
犯人しか答えることができないような質問が出て、私は回答に何回も窮しました。参加の皆さんは事件究明にかなりのめり込んでいらっしゃったようでした。
皆さんの人気に応え、興味深い現代の出来事をテーマにした多摩めぐりで、次に何をやるか探さなければならないな、と思った次第です。
【集合:12月7日午前9時30分 JR武蔵野線北府中駅/解散:JR武蔵小金井駅 午後3時】