「第44回多摩めぐり 南町田にできた新しい街グランベリーパークを訪ね多摩最南端の地に足跡を残す」を5月18日(土)に開催します

第16回多摩めぐり~多摩を深める 玉川上水緑道歩きラスト
太宰の三鷹を経て高井戸浅間橋まで、更に四谷大木戸へ至る

上水堀の水が見えないくらいに木々が密集している三鷹市牟礼の若草橋付近

ガイド:須永俊夫さん

 365年前の6月、多摩川の羽村堰から取水した玉川上水の水は、約43㎞東の四谷大木戸に届き、さらに江戸城をはじめ、町の南西部に行き渡った。以来、昭和40年(1965)に淀橋浄水場が廃止になるまで311年間、新宿まで飲料水を流し続けた。その長きにわたる役目を担った玉川上水沿いを歩き、時代の変遷と昔の上水道事情を体感しようと多摩めぐりの会は、昨年12月からこの10月26日まで4回に渡って羽村堰から開渠部分の杉並区の浅間橋まで約30㎞を歩き、さらに新宿の四谷大木戸跡へも足を延ばした。歩いて感じたことは、開幕当初の徳川家康の計画と英断が希代の政治力によって開削されこと。その結果、江戸市中の民を救っただけではなく、その後の武蔵野台地の繁栄をもたらした。いま、小平監視所から下流域では、その役目を完全に終えたが、上水沿いは東京最大のグリーンベルトとして残り、樹木の癒しという自然志向に応えた「木育(もくいく)」機能を発揮していることを確認した。

主なコース
JR武蔵境駅 桜橋・品川分水口跡 ぎんなん橋・いちょう橋 欅橋 三鷹橋 太宰治碑・玉鹿石 山本有三記念館 万助橋・都立井の頭公園 ほたる橋・牟礼分水跡 井の頭橋 宮下橋 牟礼橋 久我山水衛所跡 岩崎橋・烏山分水跡 北沢分水跡 浅間橋 神田川(旧神田上水) 富士見ヶ丘駅 ―[ 井の頭線] → 明大前駅 ―[ 京王線] → 新宿駅 天龍寺 玉川上水・内藤新宿分水散歩道 水道碑記・四谷大木戸碑 四谷大木戸 東京メトロ丸の内線新宿御苑前駅

風格滲む橋に歴史感際立つ

 玉川上水を歩く最終回となった10月26日朝、参加者23人の期待の顔は、上流から80本目ぐらいの桜橋にそろった。この北側に境浄水場があるのだが、背丈以上の盛り土で仕切られていて貯水槽などは見えない。境浄水場の水は、多摩川の水を貯めた村山貯水池をはじめ、利根川水系の朝霞浄水場(埼玉県)の水も取り込んだ東村山浄水場から送られたもので、東京都の水道施設の要だ。ここから和田堀給水所(世田谷区)へ送水して都区内へ送られている。
 しばらく東に行くと品川用水の取水口跡があった。玉川上水の分水は、右岸に20本、左岸に13本あった。その中で品川用水は約30㎞と最長で、天水や湧水に頼るしかなかった江戸時代の品川一帯の田畑を潤したという。
 立ち止まって、その新しさに微笑ましさを感じたのは松美橋だ。親柱と欄干が擬木だからだ。昭和54年(1979)に架けられた橋で、歴史がある玉川上水から比べれば“昨日できた橋”に思えてしまう。この辺りにあった赤松に由来する名前だそうだ。
 これに比べれば、その先にある大橋には風格が滲む。平成29年にかけ替えられたというものの、玉川上水に通水されて承応3年(1654)以降に武蔵野市内で最初に架けられた橋の一つだ。深大寺参りへの大師道であり、橋の名の由来にもなった。西北の所沢、青梅に通じ、南の調布五宿を結び、開港後は横浜街道といわれた。往来の人々は、橋から水かさの多い上水路を見て一息入れただろう。
 玉川上水は、線を引くように一直線に南東へと下る。自然流下をもとめた結果、武蔵野台地の高地を掘り続けて江戸市中を目指したことを実感するラインだ。緑道をイロハモミジやヤマザクラ、ムクノキなどの枝や葉が覆うだけでなく、堀の中にもケヤキやクヌギ、マツなどの大木や古木が根を張り巡らしている。堀の内部があらわになった色違いの地層にも目が行き、台地を構成する地層を見る思いだ。

上水沿いの緑道を東へ向かう参加者たち

大橋のたもとで説明に耳を傾ける参加者たち

戦禍の後に野球場や支線も

 境浄水場の東端で東京都が整備を進めている環状道路の都道12号・新武蔵境通りと交差した。ぎんなん橋、いちょう橋の2本の橋が寄り添うように玉川上水をまたいでいる。この近くに軍需工場の中島飛行機武蔵製作所があった。昭和13~20年、戦闘機の零戦や隼のエンジンを生産していた。その資材を運ぶために武蔵境駅から引き込み線が敷かれ、その時、玉川上水に架けられた小さな鉄橋を歩道に架け直したのがいまのぎんなん橋だ。当時の橋台を生かしている。
 中島飛行機を中心とした周辺は、昭和19年(1944)11月24日、アメリカ軍による本土への最初の本格的な空襲を受けた。その後、日本の戦況が悪化して敗戦。戦後の昭和26年、工場跡地には東京スタジアム・グリーンパーク野球場が開設され、プロ野球や学生野球が行われた。敷き直された引き込み線は武蔵野競技場線として三鷹駅を発着したが、野球場の閉鎖に伴い、競技場線も昭和34年に廃線になった。その廃線跡地はいま、玉川上水の北側をグリーンパーク遊歩道に、南側を堀合(ほりあわい)遊歩道になり、市民の憩いのルートになっている。

三鷹駅前に武蔵野風情刻む

 市街地が迫ってきた。安政年間(1854-59)にケヤキの橋が架けられたといわれる欅橋を過ぎると、玉川上水は、いったん暗渠になった。ほどなくして三鷹駅北口に出た。交番脇のひときわ緑が濃い一角に国木田独歩の一節を刻んだ碑がある。「山林に自由存す」。武蔵野をこよなく愛した独歩ならではの吟で、武者小路実篤が書にしたためて刻んだ。碑に嵌め込まれてある独歩の胸像レリーフは、独歩の二男で彫刻家の佐土哲二の作だ。文士や文豪らを虜にした玉川上水をはじめとする周辺の武蔵野風情を想像させる一言だ。
 三鷹駅南口に回ると、玉川上水をJR中央線と総武・東西線がまたいでいる様子が分かる。堀の深さは2mほどあるだろうか。これまで見て来たよりは浅く感じる。駅のホームを潜り抜けた玉川上水は、すぐに三鷹橋に覆われる。駅前広場だ。その一角に旧三鷹橋の親柱と高欄が残されている。昭和32年(1957)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道のレールが使われていた。広場を整備した平成17年(2005)3月に取り壊した際にモニュメントにしたという。

三鷹駅南口の広場は三鷹橋が架かり、駅のホーム下を流れる玉川上水が見える

 ここが事件現場になったのは、昭和24年(1949)7月15日夜に起きた三鷹事件だ。駅構内の無人列車が暴走し、周辺の建物に衝突して6人が死亡、20人が重軽傷を負った。戦後の社会不安な時期に起きた事件で、下山事件、松川事件と並んで国鉄三大ミステリーと語り継がれている。

太宰治も暮らした上水べり

 この朝、歩き始めて間もなく見た品川用水も駅南口近くの下連雀を流れていた。この地を拓いたのは神田連雀町から移り住んだ江戸町民たちだ。明暦3年1月18日~20日(1657年3月2日~4日)の明暦の大火とか、振袖火事といわれる大火災は、本郷丸山の本妙寺で法会をしていた3人の女性の振袖にろうそくの火が引火したのが元で燃え広がり、500~800の町に延焼、旗本屋敷、神社仏閣など多数が類焼。さらに江戸城天守も焼失し、江戸の大半を焼き尽くした。焼死者は10万人にも及んだといわれる。その被災町民が移り住んだ下連雀で品川用水の水を畑作などに使って暮らした。
 玉川上水は、三鷹駅南口の駅前広場から南東方向に延びる。これに並行している愛称「風の散歩道」を歩く。右手の歩道に小説家の太宰治(本名津島修治)を偲ぶ「玉鹿石(ぎょっかせき)」があった。石は太宰の故郷、青森県五所川原市金木町特産だという。太宰は昭和23年(1948)6月13日、山崎富栄を道連れに玉川上水に入水、38歳で亡くなった。その現場は分からず、「むらさき橋」に近い左岸の大ケヤキの根元に履物がそろえて置いてあったことから向かいの右岸に「玉鹿石」を置いたという。

 太宰は下連雀あたりで昭和14年(1939)9月から亡くなるまでの9年余り暮らした。この間、「駆込み訴へ」「女の決闘」「走れメロス」のほか、戦後には「斜陽」なども発表して織田作之助、坂口安吾らと共に無頼派として注目された。「桜桃」や「家庭の幸福」など三鷹での生活を素材にした作品も書き綴っていた。上水に身を投じて「人間失格」の刊行を見ないまま逝った。

太宰治入水現場が近いといわれる玉鹿石

 太宰ファンの市民らが平成20年(2008)、太宰没後60年と翌年の生誕100年を記念して、太宰が通った酒店「伊勢元」跡地に「太宰治文学サロン」を開設した。ここを太宰ゆかりの中心施設と位置付けて資料の展示をはじめ、情報発信と交流の拠点にしている。

閑静さが好きだった山本有三

 この東側の玉川上水に面してあるのが瀟洒な洋館の山本有三記念館だ。大正末期に建てられた本格的な洋館。石を自然に積み上げたようなデザインの煙突や当時の流行を取り入れた様々なデザインが融合した希少な建物だ。庭にも静かさがこもる。
 山本有三は昭和49年(1974)1月11日逝去、享年86だった。小説家であり、劇作家で、さらに政治家であり、幅広く活躍した。日本芸術院会員に推され、文化勲章を受章した。元々住んでいた武蔵野村(現武蔵野市)吉祥寺の家が手狭になったことから、静かだった下連雀の環境が気に入り、この洋館に母と妻、4人の子供と昭和11年(1936)に移り住んだ。
 菊池寛や芥川龍之介らと文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判する一方、著作権の確立にも奔走した。「女の一生」や「真実一路」など売れっ子作家で朝日新聞に連載中だった「路傍の石」が中止に追い込まれるなど、日増しに軍部の圧力を受けるようになった。

 戦後、自宅はGHQに接収されて米軍高級将校宅になり、転居に追い込まれた。接収解除後、国立国語研究所三鷹分室となり、山本有三は土地と建物を東京都に寄贈、都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」として長く運営された。その後、三鷹市に移管されて平成8年から三鷹市山本有三記念館として一般公開されている。

瀟洒な山本有三記念館

“人食い川”に飲まれた先生

  山本有三記念館を出ると、東側の行く手にこんもりとした樹林が広がっていた。井の頭恩賜公園の森だ。これまで帯だった木々の世界が沿道の四方が森を作り出していた。ウォーキングする人、ジョガー、サイクリストも行き交う。今日の玉川上水を象徴するのびやかで癒される世界の一幕に安ど感も沸く。
 公園西端の一角に巨石の碑があった。玉川上水は人食い川だった時代を象徴する出来事を刻む碑だ。大正8年(1919)11月20日、痛ましい事故が起きた。麴町区(現千代田区)永田小学校児童約500人が遠足にやってきて、児童の一人が誤って上水に落ちた。この日は水量が多く、流れが早かった。

引率の松本虎雄訓導(教諭)は、すかさず飛び込んで助けようとしたものの、急流に押し流されて水に飲まれた。落ちた児童はススキにしがみ付いているところを通りがかりの人に助け上げられて無事だった。松本訓導は、2日後に遺体で発見された。33歳だった。松本訓導の使命あふれた勇敢な行動は、教科書に載り、映画にもなった。1年後、区民有志の手で碑が建てられた。樹間から射していた陽が目に強かった。

木陰に立つ松本訓導の碑

台地の凸凹を体感する上水堀

 ほたる橋下流約200m地点の左岸から上水堀を見下ろすと、織りなす木々の枝先に小さめの口を開けている牟礼分水の取水口跡があった。牟礼の村一帯の田畑の灌漑用水の分水口だったという。この分水は延享2年(1745)に開削された。上水流域に30本以上の分水がある中で一村専用分水は異色だ。昭和34年(1959)に埋め立てられてから60年になるが、その存在を今も示している。
 新橋を過ぎたあたりで玉川上水は、東方向に大きくカーブした。左岸左手の住宅地が下り斜面に連なる。三鷹市井の頭5丁目だ。玉川上水は、昭島から東部域ではほとんど武蔵野台地の平たん部を貫いていたのと違って、改めて高い地点を掘ったものだと実感する。この斜面も束の間、上水路は東橋まで下りながら「平地」に戻った。羽村堰と四谷大木戸間の標高差は約92mだから、歩いていると平たんにしか感じないが、堀が深くなったり、浅くなったりすることで武蔵野台地の凸凹を実感できる。地形を遊ぶとは、このことかと一人合点した。
 宮下橋、東橋が過ぎてもひたすら歩く。流水を見ようにも堀が深く、樹間越しに辛うじて少ない流量が見えるだけだ。原水の通水が停止されたのは新宿の淀橋浄水場が廃止された昭和40年(1965)だ。その後になって小平監視所から下流に昭島市宮沢町の多摩川上流水再生センターで高度処理された水が流されるようになった昭和61年(1986)までの21年間、空堀だった。当時から木々は伸び放題で枝葉が濃くなるばかり。管理が行き届き、水が手に取れる近さで流れていた立川市砂川あたりとは大きく様相が違う。

午後のスタート前に牟礼の里公園で

グリーン-ベルトが切れて青天上

 牟礼村の村長だった長兵衛さんが自費で架けたという長兵衛橋で目に飛び込んできたのが上水路を覆っている木々が行く手でぷっつりと切れている光景だ。「どんどんと水音を響かせていた」ことから名前がついたという「どんどん橋」の脇には放射5号線が横たわっていた。東八道路に繋がる幹線道路だ。その交差点脇に一本のケヤキの大木があった。周辺に大きな木や建物がない分、すっくと立ち、巨樹に見えた。ここから先の玉川上水沿いは都立玉川上水緑道として整備された遊歩道になっていた。沿道にはヤマザクラ、コナラ、ヤマブキ、コゴメウツギ、マユミなどこの地に慕われた植物を植栽していた。

武蔵野・三鷹・杉並の市区境付近の「どんどん橋」の東の空が広かった

 整備されて間もない緑道を歩き、牟礼橋から300mも下ったろうか。上水堀に塵芥除去の鉄柵が設えてあった。江戸時代にあった水番所で、その後、久我山水衛所となり、水量監視や塵芥除去などをしていた見回り個所だ。この鉄柵には木くずなどがなく、数日前の台風19号や大雨の影響がなかったようだ。流域からの流入水がなく、流量を管理して送水している人工用水だからか。
 岩崎橋が近づくにしたがって両岸の光景が民家から企業群に変わってきた。岩崎通信が眼前に建つ岩崎橋近くにも分水口跡があった。烏山分水跡と北沢分水跡で、世田谷の烏山川と北沢川流域へそれぞれ明治初期に水を引き込んだものだ。

姿消す水路の上に高速道路

 高速道が見えてきた。玉川上水の開渠が終わり、その先の暗渠を告げるシグナルでもある。浅間橋に近いのだ。浅間橋の名は、中央道と都道が重なった間に架けた歩道橋にあるのみだった。ここから先は玉川上水が暗渠になり姿を隠す。堀が覆われた玉川上水は、北側を通る甲州街道に触れながら住宅街を縫う格好で、点在する緑地帯や公園を繋いで新宿へと向かう。

 われら一行は、井の頭線富士見台駅から京王線を乗り継いで新宿へ向かった。その途中、玉川上水の北側を東流していた神田川を渡った。井の頭池を源にした川で、江戸市中の上水であったことから玉川上水の‟兄貴分”でもある。墨田区両国の墨田川に注ぐまでの24.6㎞は、すべて開渠だ。

一行は江戸市中の上水を賄っていた
神田川に沿って井の頭線富士見ヶ丘駅へ

 玉川上水の形跡は、新宿駅構内の地中にいまも560mほど残っており、JRや小田急線などの開発を免れているという。往時の新宿界わいでもホタルが飛び交い、桜の名所だったという。

駅に近い天龍寺の鐘楼は、上野・寛永寺、市谷・亀岡八幡宮の鐘と並んで江戸三名鐘とうたわれた「時の鐘」だったことから相当なる町並みだった。甲州街道の実質的な起点であり、元禄12年(1699)には内藤新宿が開かれ、旅籠や茶屋などが軒を連ねた。水需要も高かったろう。

ビルに囲まれた天龍寺の「時の鐘」の下で

ミニ版玉川上水の散策路

 新宿に入った玉川上水は、角筈村(現西新宿)や内藤新宿の南端を流れて、内藤家新宿屋敷(現新宿御苑)の中を流れた後、江戸の入り口で甲州街道の関所だった四谷大木戸近くに置かれた四谷水番所でゴミや異物、水質や水量を監視して市中へ送水するための地下に埋め込んだ木樋へ送り込んだ。
 明治32年(1899)に淀橋浄水場ができると、玉川上水の水量は減り、新宿駅周辺は大正14年(1925)から昭和10年(1935)ごろにかけて暗渠になり、玉川上水による市内への送水が廃止された。
 新宿御苑新宿門から四谷大木戸跡までは「玉川上水・内藤新宿散歩道」が整備されていた。人の手によって造られた玉川上水や分水であることをイメージした水路は細いながらも直線的で水路底に粘土を貼り、現存の玉川上水を箱庭的に再現していた。所々に設えた石積み護岸は福生市の福生分水や熊川分水を参考にした。他の法面でもコンクリートを使わず、土を盛り、四季折々の草花が育ちやすくしている。流れている水は、新宿御苑の下を通る国道20号新宿御苑トンネルから湧出したものを生かしている。
 四谷4丁目交差点近くに明治28年(1895)に建てられた「水道碑記(すいどうのいしぶみのき)」がある。高さ4.6m、幅2.3m。玉川上水開渠の由来を刻み、篆字などは徳川家達らが編んだ。碑の横にある「四谷大木戸碑」は、昭和34年(1959)11月、東京メトロ丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を生かした石柱だが、排ガスによるものだろうか、黒ずんでいた。

大木のイチョウ並木もある玉川上水・内藤新宿
分水散歩道を歩いて四谷大木戸跡へ

ビル群に埋もれそうにある「四谷大木戸碑」

 羽村堰から四谷大木戸まで、一部を除いて歩き通して思うことは、玉川上水は往時の役目を終えたとはいえ、江戸を拓き、今日の東京への道筋をつけた水路だからこそ次なる時代にも担える役割がめぐってくるはずだ。

ガイド:須永さん

 大雨が続き、開催日の予報も雨天で、降水確率が日を追うにつれ下がるものの、雨天決行で募集したとはいえ、はてさて?!と悩んでいましたが、24日には25日夕刻から雨があがるとの予報に変わりました。当日は、風もなく太陽も時々覗いて、歩くには好適な天気に恵まれました。
 コースは、玉川上水緑道の最後として、高井戸・浅間橋から四谷大木戸までをも繋いだかなりの長距離・長時間でしたが、前日の雨による水たまりもさほどのものでもなく、途中の退出者もなく安堵しました。2万歩大幅越え確実の距離でした。
 三鷹まではまだしも、途中は説明するほどのモノも少なく、コースのテーマは、後半の神田上水=神田川と、内藤新宿になりました。玉川上水の流路環境と異なる神田上水や、江戸城を巡る市街の発展と人口増加により玉川上水が求められた状況をご説明し、また内藤新宿が何故に他の三宿(品川宿、板橋宿、千住宿)よりも設立が100年近く遅れた事情もお話したつもりですが、いかがだったでしょうか?「四谷大木戸」という現存しない地点への興味関心は満たされたでしょうか?コースラスト近くの天龍寺で「今日初めてのお寺だ」とのお声あり、苦笑しました。

【集合:JR中央線武蔵境駅 午前9時30分/解散:東京メトロ丸の内線新宿御苑前駅 午後4時】