「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第5回多摩めぐり~多摩を深める 古墳!!?
多摩川中下流に集積・築造された、その謎と歴史を探る

古墳のすそ野から見た野毛大塚古墳の墳丘に立つ人たち

ガイド:須永俊夫さん、吉田敏夫さん

 東京の多摩地域を中心に芽生え、息づいた文化や歴史に触れて郷土を見直そうと始めた「多摩めぐり」が5回目を迎えて、多摩地域との関連を求めて初めて23区内に足を踏み入れた。テーマは「古墳」。葬られた首長は、誰なのか。この時代は大和政権に認められなければ首長の権威と地位を固められなかったことから、大和政権とどのような関係を保ったのか。多くのなぞの解明が待たれる古墳だからこそ魅力も深まる。
 9月22日、総勢28人は、多摩川に迫る大田区田園調布や世田谷区野毛といった緩やかにうねる国分寺崖線上を中心に歩いた。多摩川流域の中でも早くから古墳が造られた地域だ。東京都最大規模の墳丘も目にした。流域の古墳を通して、農耕中心時代から政治的支配方式に移り変わる変遷と地元有力者と中央政権の関係に思いを馳せた。参加者の好奇心は、大いに膨らみ、ガイドが何度も口にした「あるだけの想像力を掻き立てて古墳の現場に立って」という言葉に足取りが軽かった。

大和政権と結びついた流域の首長たち

 東京都にある古墳は、関東地方(1都6県)でも最少の703例(平成24年度、文化庁調べ)だといわれる。その多くは多摩川の中・下流域の左岸に集積している。全国的に古墳が現れ始めたのは、大和政権が国家統一を目指し始めた3世紀後半。これらは各地の首長や有力者の墳墓だった。4世紀には古墳が次第に大型化して前方後円墳が登場し、政権との結びつきを強く表すものになった。多摩川下流域の大田区や世田谷区にあたる古代の南武蔵地域に前方後円墳や円墳が50基もある。時代が下るにしたがって多摩川を遡り、5~6世紀になると府中市周辺に円墳が造られた。
 こうした背景には多摩川の水が生んだ肥沃な流域で弥生時代以来、生産性が高い農耕地を治めた首長を中心とする政治集団があったと考えられている。

1.浅間神社・古墳

好適地に権威の象徴を築く

 東急東横線多摩川駅南側の小高い森に囲まれている浅間神社。文治年間(1185-90)に北条政子が源頼朝の滝野川松崎出陣の折に近くの亀甲山(かめのこやま)で富士山を仰ぎ、富士吉田の浅間神社に武運を祈り、創建したという。境内は舌状台地の先端にあり、西側には遮るものがない。足下で多摩川が大きく蛇行し、南西に丹沢山系、北西に奥多摩の連山が富士山の配下にあるように展開する。
 実は、この高台そのものが浅間神社古墳だった。元は全長60mに及び、5世紀末~6世紀初めに造られた前方後円墳だったという。古墳時代を象徴する人型(男性)、鹿型、馬型、円筒形といった埴輪が見つかっている。景観を生かして権威を鼓舞するために墳墓を造って一族結束の象徴とした。

2.亀甲山古墳

4世紀後半の原形保つ前方部

 亀甲山古墳は、東京都を代表する前方後円墳の一つであり、多摩川流域最大の前方後円墳だ。4世紀後半の首長の墓だと考えられている。山容がカメに似ていることから亀子山とか、亀塚、亀の甲山、亀山と呼ばれている。
 築造当時の規模は、墳丘の長さが107mほど、前方部の幅が約50m、後円部の直径が66mと大きい。高さは前方部が約8m、後円部が約12m。墳形は前方部がやや広い柄鏡形。後円部南端は削られているが、他はほぼ原形を保っているという。この辺りの地形は、周辺部よりも比較的高いことから築造当時は、周辺のどこからでも眺められただろう。だが、今は深い樹林の森だ。

3.多摩川台古墳群・古墳展示室

埼玉や大阪と交流していた

 亀甲山古墳を東端にして多摩川に沿って西側へ8つの古墳が続く。多摩川台古墳群だ。6世紀後期から7世紀中期の古墳時代後期に築造された。前方後円墳1基と円墳6基で構成していた。この中の最大規模は前方後円墳(1号墳)で全長39m。最初に造られた円墳の2号墳を前方に利用したものだった。
すべて横穴式石室がある。直刀や鉄鏃などの武器、耳飾り、管玉などの装身具、馬具の轡、須恵器、土師器といった埋葬品が出土した。これらは古墳展示室で年代順にそれぞれの古墳の史料を展示している。
 なかでも1号墳から出土した埴輪は埼玉県鴻巣市の生出塚埴輪窯産(東日本最大級の埴輪生産遺跡)で、須恵器は大阪府南部の堺市、和泉市などの丘陵地にある陶邑(すえむら)古窯で生産されていたことから、当時、すでに交流・流通があったことを証明している。

一帯は多摩川台公園であり、アカマツやケヤキ、ナラ、クヌギなど武蔵野を代表する樹木が園路沿いに続く。樹間から多摩川の流れも散見できる。一般的に築造時の墳丘にはほとんど木々が植えられず、一面を石で覆い、土砂の流出を防ぐために埴輪や焼き物を並べたという。築造後1300年の今、自然公園として区民の憩いの場となっていることに悠久な営みを感じる。

自然公園の趣がたっぷりの多摩川台古墳

4.宝莱山古墳

流域で最初に築造した前方後円墳

 多摩川台公園の西端にあるのが宝莱山古墳。4世紀前半に造られた、関東地方でも最古級の前方後円墳だとされる。前方後円墳として多摩川流域で最初に出現した首長墓だ。昭和9年(1934)に宅地造成されて後円部の3分の1を残すだけだが、残存部が良好な形を留めているという。
 築造当時の墳長は約98m(前方部幅37m、前方部高8m、後円部径52m、後円部高11m)で、前方部が2段、後円部が3段から成っていた。発掘された四獣鏡は、中国製の獣帯鏡を模倣した日本製だという。中国との文化交流があったことや日本の生産技術も伺える遺品だ。

5.狐塚古墳

田園調布の高台は古墳の一等地

 大正7年(1918)、渋沢栄一が提唱した「理想の田園都市」を形にした日本最初の計画的住宅専用市街地となった“田園調布”に端を発して周辺開発が進んだ。この地も国分寺崖線であり、住宅街の道路は坂の連続だ。

 住宅密集地の高台には古墳時代前期のものに比べて、比較的小ぶりで首長の権限が弱まった時代に造られたと思われる観音塚古墳があり、さらに世田谷区に入って狐塚古墳が続く。狐塚古墳は野毛古墳群の一つで、5世紀末に築造された帆立貝式古墳。長さ41m、高さ6m。首長墓では後期のもので、副葬品には円筒形埴輪があった。

狐塚の墳丘からは武蔵小杉のビル街が一望だった

6.御岳山(みたけやま)古墳

出土した七鈴鏡が示す北関東との友好

 世田谷区内の主要道路の一本である目黒通りに面した等々力不動尊正面の雑木林は、御岳山古墳だった。5世紀後半から6世紀中ごろの帆立貝式古墳で、全長57m、円墳部径40m。「かなりな勢力を持った豪族」の墓だという。副葬品には七つの鈴がついた七鈴鏡があった。七鈴鏡の出土は、群馬県を中心とする北関東に多く、上毛野国(のちの上野国)と南武蔵が盛んに交流していたことを示す逸品のようだ。鉄製の短甲や武器、埴輪も見つかっている。

7.等々力不動尊・等々力渓谷

開析谷に露出する武蔵野台地の地層

 朝の雨がすっかり上がり、強まった日差しで汗ばんだ体には等々力不動尊の境内から等々力渓谷に続く葉陰や水辺の風が心地よかった。境内を敷き詰めていたのは、秋の風物詩、落下した銀杏。
この寺の名は致航山感應院満願寺。平安時代末に創建され、室町時代の文明2年(1470)に吉良氏の祈願所として世田谷城の出城だった兎々呂城(とどろき)に再興。現在地に天文年間(1532-55)に移った。
 等々力不動尊の名で知られるのは、別院の滝轟山(りゅうごうさん)明王院。豊富な水が流れ落ちる滝を霊地とし、不動堂を建てたという。滝の轟く音が「とどろき(等々力)」の由来になったとか。
 滝の水は、国分寺崖線が地中に貯めこんだ湧き水だ。不動尊北側を流れる谷沢川が侵食してできた約1㎞区間は、23区内唯一の渓谷。30カ所以上から水が湧き出ている。湿地もある。秋の日差しは、群生するケヤキやシラカシなどの葉を透かして水面を輝かせていた。
 水源は世田谷区上用賀。渓谷で湧水を加えて、一部が六郷用水(丸子川)へ入り、ほとんどが多摩川に注ぐ。一帯は東京都の名勝であり、「東京の名湧水57選」に選定されている。

 渓谷は、谷沢川が武蔵野台地をV字型に侵食した開析谷だ。「ゴルフ橋」下流の右岸では武蔵野台地の成り立ちが分かる地層が露出している。植物に覆われた表土から6層を数え、武蔵野礫層や渋谷粘土層、台地の基盤である上総層群の高津互層(泥岩層)が水平に重なり、鮮やかに地層の違いが見分けられる。湧水は、武蔵野礫層と渋谷粘土層の間から多く見られる。

喧噪がない都区内唯一の渓谷・等々力渓谷

 参加者たちは「あめ色だ」「バームクーヘンみたい」と形容して声をオクターブ上げた。「多摩川が10万年以上の歳月をかけて武蔵野台地を削り取って国分寺崖線が生まれたといわれるから、この渓谷は、それより少し若いってことか?」と、なぞかけのような、壮大な時空を楽しむ人もいた。

8.等々力渓谷3号横穴

水辺に眠った荏原の首長

 古墳時代の人々は権威を示し、同族の結束・団結のシンボルとして古墳を築造した。氏神信仰を通じて罪や穢れを清めた。祓いをし、水の浄化力を信じて禊もした。そんな生活習慣に思いを馳せたのは等々力渓谷3号横穴だった。谷沢川の水辺から数メートル奥まった斜面に首長を埋葬したのは、そんな信仰の表れでもあったのだろうか。横穴墓の前で手を合わせた参加者が多かった。

 3号横穴は、古墳時代末期から奈良時代にかけて造られた墓で、周辺に6基以上発見されているという。3号横穴は奥行き約13m、内部は徳利を半分に割った形。遺体を安置した玄室と羨道から成る墓室、ここに至る墓道に分かれており、典型的な横穴墓と評価が高い。出土した人骨や須恵器の平瓶(ひらべ)、横瓶(よこべ)、刀子(とうす)、金銅製耳環などの副葬品は、形よく取り出せたそうだ。後の武蔵国荏原郡等々力周辺を治めていた有力者の墓だとしている。

肌で歴史を感じる等々力渓谷3号横穴

ガイド:吉田さん

等々力渓谷、深く切れ込んだ谷底を流れる谷沢川、適度に射す光と静けさを楽しんでいただけたでしょうか。10万年、100万年単位の地球のいとなみを、露頭した地層を通して見られるのも魅力でした。渓谷の出来ようと合わせて、想像力をフル回転させる必要がありそうです。とてつもなく広がる大地と、とんでもない長い時間をイメージさせる渓谷でした。

9.野毛大塚古墳

3段築造、全国最大級の前方後円

 等々力渓谷から西へ歩くこと、数分。高さ11mの前方後円部がそそり立っていた。これまで見て来た古墳の墳丘が木々に覆われていたのとは違ってすっきりと大きく映る。野毛大塚古墳だ。下から見上げると、墳丘の上に立つ人々は、小さな人形に見えた。5世紀初めに造られた大型の帆立貝型の前方後円墳で、このタイプの古墳では全国最大級だ。3段築成で、法面に葺石が施され、埴輪も置かれていた。馬蹄形の溝だった周濠を含めて全長104m、墳丘長82m、後円部の直径68m、前方部の幅28m。すべてがデカイ。

 後円部の墳丘上部から埋葬した棺4基が発見されたと同時に武具などが掘り出された。第1主体部から三角板革綴衝角付冑(さんかくいた かわとじ しょうかくつきかぶと)と短甲、頸甲、肩甲のセットで出土した例は、群馬県太田市の鶴山古墳がある程度とか。畿内で定型化した甲冑が関東で出土したのは最も早かったとい
う。勾玉やガラス玉などは国立博物館に所蔵されている。

大きくて荘厳さも醸し出す野毛大塚古墳

 副葬品などから当時の畿内王権と直接的な関係があったことが伺え、南武蔵の小豪族たちを取りまとめ、軍事力にも優れていた大首長の墓だという。墳丘に埋葬位置と副葬品の形や大きさがプレートで示されており現実感が湧いた。

電車移動区間も古墳群の里

 多摩めぐりの一行は、野毛大塚古墳を後にして府中市の高倉塚古墳へ向かうため、東急大井町線からJR南武線分倍河原駅まで電車を乗り継いで府中市へ移動した。
 この区間の多摩川両岸も古墳が目白押しだ。野毛をはじめとする喜多見、砧など世田谷区の古墳分布の中心域であり、川崎市幸区の白山古墳、調布市に入ると、5~7世紀に造られた飛田給、下石原などの古墳群がある。狛江市では5~6世紀の短期間に狛江百塚と呼ばれるほど集中的に古墳が造られた。多摩市の和田古墳群には数少ない八角形墳の稲荷塚古墳がある。これらは当日、資料のみのガイドとして、一行は府中市に入った。

10.高倉塚古墳

住宅街のかわいい円墳

 府中市の古墳は、国分寺崖線と立川崖線の周辺に60基余りある。円墳の高倉塚古墳は、28基の高倉古墳群の一つで、6世紀前半に府中崖線の斜面に築造された。周溝も残り、長さは20mあり、横穴式石室を備えている。
 今は四囲に住宅が迫り、児童公園かと見紛うほどにかわいい古墳だ。高さ2.5m。手入れが行き届き、墳丘に植わる3本のケヤキが清楚な古墳を誇示しているようだった。
 高倉塚古墳と高倉古墳群の他の3基から土器、太刀、鍔、鉄鏃、水晶製の切り子玉、ガラス製の丸玉、金銅製の耳飾りなど多種多様な副葬品があったことからいずれも地域を仕切る地位にあった人を埋葬したとみられている。

11.武蔵府中熊野神社古墳

全国最大規模で最古の石葺き上円下方墳

 高倉塚古墳から北方へ歩くこと約20分。今から約1350年前、飛鳥時代の7世紀中ごろから後半に築造された武蔵府中熊野神社古墳に着いた。2段の正方形の墳丘の上に丸い墳丘が乗った上円下方墳だ。古墳時代末期に造られた、全国でも稀な形の古墳として注目を集めている。石葺きの上円下方墳の中では最大規模で、最古だという。上円下方墳としては石のカラト古墳(京都府・奈良県)、清水柳北1号墳(静岡県)に次いで3例目。
 復元された古墳は2段目と3段目が川原石で覆われている。側面は葺石、上面が貼石。1段目の外周には縁石が並べられている。天頂にあたる3段目の上部は、扁平な河原石で覆われたドーム型。風雨で崩れない対応の石組は、草木が生える余地がないほどきめ細やかで、築造当時を想像した。この日訪ねた古墳では目にしなかった形だけに荘厳さが際立つ。

パンフレット「国史跡 武蔵府中熊野神社古墳~ふるさと府中の歴史・文化遺産を訪ねて-No.2」から

 この古墳展示館に併設されている原寸大の石室復元展示室に入る参加者がほとんどだった。腰をかがめて這うように前室、後室へと進む。最奥が玄室。切石切り組積みの3室構造の大型の横穴だ。空気がひんやりしていた。

 石室から鞘尻金具や環金具、ガラス玉、刀子などが発見された。中でも鞘尻金具は七曜文の銀象嵌文様を7カ所に配した、国内外に例がない貴重な副葬品で、7世紀築造の決め手になった。
 古墳の規模や出土品から分かったことは、築造当時、武蔵を代表する首長クラスの墓だった。築造後に武蔵国や東山道武蔵道が造られたことにも関連しているのではないかと専門家らは分析している。

石ぐるみの武蔵府中熊野神社古墳をめぐって「パチリ」

12.御嶽塚古墳

駅前公園は6世紀の円墳だった

 最後に訪ねたのは、JR南武線西府駅前にある6世紀前半に造られた御嶽塚古墳だ。駅前広場に隣接する公園のような趣だが、御嶽塚古墳群20基の円墳の中でも唯一、墳丘が残る。今はないが、周溝の直径は約25m。墳丘の高さは4mだったとみられている。今は、幼児でも登れる高さ1.5mほどの緩い坂の上に石仏があった。御嶽信仰が進行した19世紀初めには守り神として継承されていたようだ。

 田園調布から府中までの多摩川沿いの古墳を見てきて思うことは尽きない。大和政権と南武蔵の関係を表す副葬品がある一方、「日本書紀」の「武蔵国造の乱」に記されている南武蔵と埼玉地区の首長の争いや、これに対して上毛野国が南武蔵を応援していた史実などを踏まえて多摩地区の古墳時代のなぞが解かれることを期待しながら、この日のコースを締めくくった。

「古代のロマンを感じた」と参加者全員で(御嶽塚古墳で)

ガイド:須永さん

古墳については、その築造時代の歴史と共に以前から関心があり、箸墓や大仙陵古墳(大阪府堺区)や大田区、世田谷区の古墳を訪ねていました。2年前に多摩・武蔵野検定事務局が主催する「多摩めぐり30」で狛江市のガイドをするにあたり、下見をした時に狛江百塚を知り、それらの現況のさまざまな様相を見て、興味をさらにそそられました。
多摩市、調布市の状況も調べて、府中市の武蔵府中熊野神社古墳を訪ね、これらをコースにまとめれば、旧三多摩地区内だけのガイドコース作りに徹している多摩めぐりの会に、新たな展開が期待できるのではないかと思いました。何とか電車も利用して広域で、江戸と三多摩を双方から見つめる多摩めぐりを紡いだつもりですが、いかがだったでしょうか。
古墳めぐりでは、まだ武蔵国も江戸幕府も遠い時代ですが、いろいろと想像する楽しみを味わっていただけたのなら幸いです。

【集合:東急東横線多摩川駅 午前9時30分/解散:JR南武線西府駅 午後4時】