「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第3回多摩めぐり~多摩を深める
戦国時代の終わりを告げた名城 八王子城を探る

曳橋を渡って土塁と曲輪で囲われた御主殿虎口に入る参加者

ガイド:味藤圭司さん、相山誉夫さん、八王子城跡ボランティアガイド・荒川勉さん、増島洋子さん

 428年前の天正18年6月23日(旧暦)に落城した八王子城跡を6月23日に多摩めぐりの会の3回目「戦国時代の終わりを告げる八王子城を探る」と銘打って訪ねた。豊臣秀吉の小田原攻めの一環として攻撃された八王子城は、攻め入った徳川の武将である榊原康政が「立つのも困難な城」と加藤清正に報告し、前田利家も「名城のため、討ち死に、手負いの兵士が限りなく出てしまった」と国許の家臣に手紙で伝えたほどの堅固な城だった。しかし、一日にして落城した。その後、城郭には改変が加えらず、当時のままの遺構を見ようと多摩めぐりの会一行23人は、梅雨時期の典型的な雲が低く、薄霧に霞む深沢山(460m)山頂の本丸跡を目指した。だが、5合目の金子曲輪で強くなった雨脚に阻まれ、下山を余儀なくされた。

秀吉と戦うための山城だった

 八王子城は、小田原に本拠を置いた北条氏の3代当主氏康の三男、氏照の晩年の居城で、天正10年代に氏照自身が築城したと考えられている。氏照は、ここに居を構える前に大石氏の居城だった滝山城に大幅に手を入れ、拡大したが、豊臣秀吉の天下統一の軍事的な激しい動きなどに備える、いわば秀吉との戦闘のために山城の八王子城を築城した。
滝山城は、平面的に広く、各曲輪の高低差が少ない平城であることから少人数で守らなければならない。居館と、本丸を中心とした曲輪群の要害地区が一緒だった。ところが、八王子城の場合は、居館である御主殿を麓に造り、その背後に標高差200mの急峻な城山(深沢山)に曲輪群を設けて要害とした。敵は攻めにくく、高低差が大きいので上からの守りが優位な構造だ。氏照の独創性が買われる点だ。

1. 八幡神社

感慨深い梶原杉の巨大な切り株

 氏照が拠点を八王子城に移した際に、滝山城の城下にあった宿場も元八王子に移した。「宮の前」バス停近くにある八幡神社の東側が八日市宿、石神坂付近が横山宿、川町入口交差点付近に八幡宿があったという。一般的には「内宿」と呼ばれる。家臣団や職人が住む根小屋(ねごや)地区が城郭の入口だ。多摩めぐりの参加者は、この地区の八幡神社を最初に訪ね、ここから本格的に城山川沿いを遡る格好で“登城”することにした。
 いま、八幡神社周辺に宿場の面影はない。この神社の創建は、八王子城が築かれる400年ほど前の建久2年(1191)に源頼朝に仕えていた梶原景時が鎌倉・由比ガ浜の八幡宮の古神体を景時の領地であったこの地に勧請したと伝わる。現在の鎌倉・鶴岡八幡宮を遷宮した元の社だ。当時の棟札は、戦災で焼けたが、縦1尺1寸(約33㎝)、横4寸(約12㎝)だった。

 800年という時空を想像させるのは、当時、参道に植えた大樹の「梶原杉」の切り株だ。昭和3年(1928)、東京府の天然記念物に指定された当時は、高さ30m、目通り12mで、東京随一の大杉といわれた。神木だったが、樹勢が衰え、昭和47年、やむなく伐採したという。その株周りは、大人10人ほどが両手を広げてつなぐほどだ。

巨大な梶原杉の切り株く

2.宗閑寺

北条氏ゆかりの品々を残す

 八幡神社から西、内宿に向けて足を進める。八王子城落城の深夜に豊臣方の大道寺政繁らの一団が八王子城を目指したルートだ。氏照ゆかりの宗閑寺前では、道路がS字にくねっている。元の桝形の名残で大木戸が設えてあったという。宗閑寺向かい側の迫る山の尾根道を上杉景勝率いる軍団も目前の城へ急いだことだろう。
 宗閑寺は、明治25年(1892)に数百メートル西側にあったのを現地に移した。草創は延喜年間(901~923)で、天慶2年(939)に朱雀天皇から領地を受け、勅願所の牛頭山神護寺だったと寺伝にある。八王子城を築城した氏照が永禄7年(1564)に神護寺を復興、落城の翌年、再興され、氏照の法名「宗閑」を冠して寺名を改めた。

 落城の日、氏照は兄氏政とともに小田原に詰めていた。小田原城の開城後、秀吉の命により切腹したことから寺の禅師が氏照の亡骸を受けに行った。その時の血染めの袈裟が寺に保存されているほか、戦死者名簿や北条氏ゆかりの遺物が多い。清楚な境内にたたずむ鐘楼の梵鐘もその一つで、北条氏の重臣であり八王子城で采配を振るった中山勘解由家範の子孫、中山信治(水戸藩家老)が氏照百回忌(元禄2年=1689)に献納したものだという

静かなたたずまいの宗閑寺境内 左奥が鐘楼

3.北条氏照墓

風格ある城主の墓石を重臣の墓が囲む

 宗閑寺から歩いて数分、氏照の墓に着く途中で、城山川の支流のせせらぎに花を添えたのはホトトギスの鳴き声。ダンスのリズムのようにウグイスとの共演が山峡に響いた。宗閑寺があった元の場所だ。

 長い階段を昇り、深い木立に覆われた氏照の墓石は、風雪にさらされながらも風格があった。墓前では女性2人が読経していた。家臣の中山勘解由らの墓も西奥に続く。さらに北谷の斜面に大小の墓石が草むらに列をなしていた。この付近は北東から侵攻してきた豊臣方の3隊が合流する地点だ。宗閑寺は、その時に焼け落ちたかと想像した。

家臣らの墓に見守られるようにある氏照の墓

4.大手道・曳橋・御主殿虎口

通路全面に石を敷く独特な工法

 墓地を後にし、城山川右岸に渡り、御主殿跡に通じる古道の大手道に入る。前方に見える木造の「曳橋」は、敵方の攻撃を阻止するために掘削された堀切だ。左岸にある石垣づくりの橋台は当時のもので、橋が架かっていた方向が想定できたことから現在の木橋が再現できた。
曳橋を渡った先にあるのは「御主殿虎口」。虎口とは、城や曲輪の出入り口を指す。防御と攻撃の拠点になるように石組みしてある。幅5mで、平たんではない。曳橋から御主殿内部までの高低差は約9mある途中でコの字形に折れ曲がっている。

 25段の階段通路も八王子城ならではの工法だ。途中2か所の踊り場をはじめ、通路全面に石が敷かれているのは八王子城独特の作りだという。踊り場に敷石よりも10㎝ほど高くなっている部分がある。ここには物見や指揮をするための櫓門があったのだろうと考えられている。排水用の石組み側溝もある。これらの石は、築城当時のものだ。

御主殿の入口で記念撮影

5.御主殿・会所跡

氏照の暮らしぶりが伝わる7万点の遺物

 石段を登り切ると、冠木門があった。御主殿跡にたどり着いたのだ。氏照が城主の政治と生活していた中心的な遺構だ。斜面を削った校庭のように平たんで広い。建物跡は、主殿と客人をもてなす会所が区割りしてあった。会所の北側に復元された池跡には庭石や水回りを区切る石列、水路が切られていた。

 この一帯から平成5年までの7年間にわたる調査で7万点に及ぶ遺物が発見されている。明から輸入された染付片が最も多く、ほかに船載の白磁や青磁片、瀬戸や美濃窯系の天目碗、常滑産の水甕などがある。中でも国内唯一の出土品は、ベネチア産のレースガラス器の破片。氏照の人的交流の広さや暮らしぶりがうかがわれる逸品だ。

御主殿で遺構をみる参加者

攻め込む前田・上杉連合軍

 428年前の6月23日早朝、八王子城を狙い撃ちにして刻一刻と迫っていたのが豊臣方の前田利家・上杉景勝連合軍だった。東側から3つ別動隊、北側から1隊が御主殿や本丸を目指して来た。総勢4万6000人の兵。大手側を攻め登る前田勢の大道寺政繁らは外宿の家並みを焼き尽くし、大手から攻め込むもう一方の前田・上杉勢も御主殿南側の太鼓曲輪から下り、居住区に銃弾を浴びせた。北側のルートである搦め手を進軍する上杉勢の直江兼続らも本丸を攻め込んだ。

城主不在で采配振るう城代家老ら

 片や八王子城主の氏照は、本城決戦に備えて小田原城にいて不在。八王子城で指揮にあたったのは城代家老・横地監物らの重臣たち。本丸は横地監物、中の丸は中山勘解由と狩野一庵、御主殿と居館地区は近藤助実、金子丸は金子家重が采配した。
 すでに危機感を募らせていた北条は、動員準備令を出しており、老兵や農兵、鍛冶、大工、修験僧侶らが弓、鑓(やり)、鉄砲、兵糧を持ち込んでいた。人質である出兵の妻子らも城内にこもっていた。その数、数千人と少ない。
Ⅴ字谷の城山川を挟んだ攻防戦もあったろう。曲輪内での白兵戦も起きたろう。居館地区では自軍の近藤助実、金子家重らが討ち死にした。御主殿虎口の四脚門や御主殿の礎石に焼け跡があることから凄まじい戦闘で建物群はすべて焼失したようだ。金子曲輪付近では刀、鎧などの破片が多数出土した。

ガイド:味藤さん

八王子城落城は、武将、城兵、そして女性を含む地元の農民たちもが勇壮に戦って命を落としていく姿が多くの文章に綴られ、戦国時代の悲哀に満ちたドラマとして絵巻物風に語られることが多い。この裏では着々と日本の歴史は動いており、群雄割拠から統一政権へ統治体制がシフトしつつありました。そして、八王子城が落城するのを契機とするように秀吉が統一政権を実現したのです。八王子城の落城は、日本史における位置づけとしては、戦国時代の終わりを告げる象徴的な出来事であったのですね。

6. 金子曲輪

急峻な斜面に馬蹄形の曲輪

 落城寸前の夜、深沢山周辺は霧に包まれていたという。多摩めぐり開催のこの日、梅雨の典型的な空模様で、昼過ぎから雨に打たれ始めた。金子曲輪は、急斜面をひな壇風に生かし、先端部を馬蹄形に仕立てた造りだ。その上の5合目は、平たい曲輪だった。多摩めぐりの一行は、本丸に迫りつつあったが、雨脚が気になって折り返すことにした。
 多摩めぐりの企画立案時に下見で歩いたことが思い出される。金子曲輪の上には尾根を削って台状にした、山上への関門で防衛上の要衝とした「柵門」がある。恩方側から登る搦め手ルートとの合流点だ。「氏照は、わが領地を一望しただろう」と想像するのは小宮曲輪付近。いわば三の丸エリアだ。好天なら北は筑波山、東は足元に八王子市街、遠望の都心を手に取り、南は房総半島まで眺望できる。あと一息なのが本丸。城の最高所で見張り台であり、山頂曲輪群の防戦指揮所でもある。ここからも船載の染付や青磁の破片、炭化した米や麦が発掘された。
 八王子市の名前の由来になった八王子権現社は本丸直下にある。平安時代、この深沢山に造った庵で修行していた僧に幻のように牛頭天王の一族8人の王子が現れたという。8人の王子を祀ったのが八王子権現社の始まりと伝わる。日吉山王(ひえさんのう)信仰の山だといわれる由縁だ。8人の王子を冠したのが八王子城であり、八王子の地名の由来でもある。

ガイド:相山さん

八王子城の落城をあらためて悼む梅雨の涙雨か。本丸跡まで皆さんを案内できず残念でした。落城当日、直江兼続率いる上杉軍の一隊が搦め手(裏門)側から奇襲を仕掛け、本丸を落とすきっかけとなったといわれています。しかし、山登りは安全第一です。皆さんと次回の好機を覗いたいと思っています。

取った首級3000、滝つぼに身投げ

 八王子城の落城で、前田利長は「首級三千余を取り、配下の半数が負傷、戦死した」と記し、城内の者は一人残らず殺害されたという別の書状もある。城内にいた北条方の武将や兵、婦女子らが自刃して次々と御主殿の滝に身投げした。時代の悲惨さを物語るのは「城山川は、三日三晩赤く染まった」ことだ。
 7月5日、北条氏は降伏、氏照は秀吉の命に従って切腹した。7月10日、小田原城を開城。7月11日、氏政自刃。7月13日、秀吉は、徳川家康に関東平定の恩賞として北条氏の領地を与え、家康は、新領地を統治した。5代100年続いた小田原北条氏の最後は、戦国時代の終わりを告げるものだった。

兵士や婦女子らが身投げした御主殿の滝

【集合:JR高尾駅 午前9時20分/解散:八王子城跡ガイダンス施設 午後2時15分】