人は浮気な者なんだろうか。冬から春が過ぎ、初夏の青い空にぽっかりと白い雲が浮かぶ光景を目にして自分が物事に縛り付けられていたことを感じる時がある。しかし、感動したはずの光景に二度三度と出会うと慣れっこになってしまうのは私だけか。
思い起こせば、令和5年(2023)2月10日、東京はじめ、関東一円に大雪警報が出た。積雪は10㎝程度だった。窓外に舞い落ちる雪は、玉雪だったり、粉雪だったり、綿雪にもなった。その形状は刻々と変わった。居ても立ってもいられず、降りしきる雪の中に足跡を付けた。足は自然と近くにある紅梅の元へ向いた。紅い花びらに水気が多い雪が覆い被さっていた。この光景は、東京に大雪警報が出た昨年1月6日にも見た。あの時と同じだ。
雪の白い部分と雪が解けて光る水玉に席を与えながらも紅梅は、花びらの紅さを主張している。冬を象徴する雪に似合う花だ。松尾芭蕉は、俳句の季語「探梅」を冬季に入れた。昭和を代表する文芸評論家・山本健吉氏は「『探る』という言葉に、まだ珍しいもの、乏しいもの、早過ぎるものを探る意味と受け取ったのは、芭蕉の鋭い感覚である」と『ことばの歳時記』で衝いた。「探梅」が季語として一般化したのは虚子以後だろうとも述べている。
さらに、私が2歳のころの朝日新聞コラム「天声人語」(昭和26年1月1日付)が手元にある。天人氏は言う。「梅にくらべると桜は浮気者である」と。季節をわきまえず狂い咲き、パッと咲いてパッと散って花吹雪と乱れる。「その色気は愛すべきだが、風雪を凌いで咲く寒梅の頼もしさはない」と梅に心を寄せる。
奈良時代には白梅しかなく、梅と総称していた。紅梅が伝来したのは平安時代で、艶やかさが好まれたという。大伴旅人を中心とする大宰府での知識人らが、ことのほか梅を求めたのに対して、桜が広まったのは農民層が好んだからだという。
紅梅は色。白梅は香り。桜は妖艶な世界へ招いてくれる。季節は廻り、日々新たに楽しみたい。