御岳渓谷に架かる御岳橋の変遷

地図はある時点での空間情報を記録したものです。
したがって同じ場所における異なった時代の地図を比較すると、そこがどのように変化してきたかが浮かび上がってきて、大変興味深いものがあります。
今回は、御嶽神社、御岳山へ行く時にはほとんどの人が通る、青梅市の「御岳橋」の変遷をみてみたいと思います。

「御岳橋」は多摩川が刻んだ御岳渓谷に架けられた橋ですが、御嶽神社参拝が盛んになった江戸時代から既にありました。
ただ、当時は今のような地図はありませんので、別の資料で「御岳橋」を眺めることになります。
ここでは、「新編武蔵風土記稿」(文化・文政期、1804~1829)と「御嶽菅笠」(天保5年、1834)に記述された文章と挿絵によって見てみましょう。

萬年橋

当時は「御岳橋」ではなく「萬年橋」と呼ばれていました。
その頃の一般的な橋は下の図にあるように簡単で素朴なものでした。川が増水した際には流されてしまうので、それを前提として作られていました。

「御嶽菅笠」に画かれている青梅・大柳にあった多摩川に架かる一般的な橋

しかし、「萬年橋」は御嶽神社参詣における重要な橋であったこともあって、御岳渓谷の両岸に屹立する岩を足場にして架けられ、多摩川が増水した時にも流される惧れのない構造になっていました。末永く利用でき、またいつでも渡れるということで「萬年」という名称が付けられていました。
「新編武蔵風土記稿」には「萬年橋」は次のように書かれています。

板橋
多摩川ニワタス御岳村ヘ通フ所ナリ。長二十一間(約38m)、幅四尺(約1.2m)。洪水ノ砌モ通行セリ。両岸ヨリ大木ヲナゲ出シ、柱ナク架セシ長橋ナリ。土人名付テ萬年橋ト唱フ。常ニ牛馬ヲ通セズ。

次がその挿絵です。

「新編武蔵風土記稿」に画かれた「萬年橋」

もう一つ「御嶽菅笠」に描かれた挿絵を見ると「両岸より大木を投げ出し、柱なく架せし長橋」という構造がよくわかります。

「御嶽菅笠」に画かれた「萬年橋」

「新編武蔵風土記稿」も「御嶽菅笠」もこの橋がどこに架かっていたかを正確に記述しているわけではありませんので、橋のあった場所については、現地に掲げてある説明版を頼りに探すことになります。それに拠って橋の架かっていた場所へ行きますと、さもあらんといった風に、多摩川の川幅が少々狭まった場所で両岸には岩が張り出しており基礎部分には石組みがあって、当時の橋の姿が浮かび上がってきます。

多摩川左岸(北岸)に残る「萬年橋」の跡

対岸(南岸)の岩 - 樹木に覆われて見えないが、岩の上部に「萬年橋」は通じていた

※写真には「萬年橋」の説明板が写っていますが、令和元年(2019)の台風19号の増水で説明版は流されてしまい、今はありません。(2021年1月)

高橋

「萬年橋」は明治31年(1898)まで架かっていたということです。老朽化もしており、牛馬を通せないような貧弱な橋ですから、明治の時代には利用しづらいものになっていたのでしょう。新しい橋は「高橋」と呼ばれることになります。名前から推察できるように「萬年橋」の位置より一段高い所に架けられたのでしょう。
この「高橋」から地図に登場することになります。次の地図は陸地測量部が明治40年(1907)の測量を基に作成した5万分の1の地図に示された「高橋」です。(地図上には橋の名前の表示はありません)

明治43年(1910)の地図に示された「高橋」

地図では橋の構造までは分かりませんが、おそらくつり橋であったと思われます。
青梅街道の本道からちょっと南に入ってから(標高差は不明ですが斜面を下っていると思われます)橋が渡されています。地図の記号を見ると、青梅街道からの分岐の所には「道標」が立っています。おそらく御嶽神社への参道を示す目立つ道しるべがあったと思われます。

当時の地図に採用されていた「道標」を表す地図記号

新高橋

「高橋」は大正8年(1919)に架け替えられて「新高橋」となります。
「新高橋」は当時の絵葉書が残っておりその姿を知ることができます。

下流側から眺める「新高橋」 「たましん地域文化財団・デジタルアーカイブ」より

その頃の地図が手元にありませんので架けられた場所はよくわかりませんが、絵葉書でみると現在の御岳橋と同じような高さまで引き上げられています。構造はつり橋ですからここを渡るのはずいぶんスリルがあったのではないでしょうか。
なお、絵葉書の記載を見ると、今はそのように言われることはありませんが、この辺りの御岳渓谷のことを「射山渓(しゃざんけい)」と呼んでいたことが分かります。

御岳橋

この「新高橋」も昭和4年(1929)につり橋から堅固なアーチ橋に架け替えられました。
この時から橋の名前が「御岳橋」と改称されています。
ちょうどこの年に青梅線(当時は青梅電気鉄道)が御嶽駅まで延伸して、奥多摩の観光拠点になりましたので、観光客の足となるバスを通すことのできる大きな橋への架け替えはそれとセットであったのでしょう。
御嶽駅の目の前に御岳橋があります。

昭和7年(1932)の地図に示された「御岳橋」

バスを通すためには青梅街道から橋に直接アプローチできるようにする必要があり、そんなこともあってか架けられた場所は「高橋」より少し青梅寄りの所から多摩川をやや斜めに渡るものでした。地形図にその位置がしっかりと示されています。御嶽駅まで延伸した青梅電気鉄道も描かれています。
なお、この地図を作る際に消し忘れたのか実際にまだ残っていたのかは不明ですが、その時には役に立たなくなった道標が前と同じ場所に立っています。
「御岳橋」の姿も絵葉書で見ることができます。

上流側から眺める「御岳橋」  「たましん地域文化財団・デジタルアーカイブ」より

「御岳橋」の上をバスが走っています。バスの通っている構図を絵葉書にしているということは、このような光景はまだ珍しい時代であったのでしょう。

二代目御岳橋

この橋も42年後の昭和46年(1971)に架け替えられて、現在に至ります。橋の名前は引き続き「御岳橋」で、橋の構造は見た目にも強固なコンクリートになりました。

現在の「御岳橋」 下流から上流方向を眺めている

地理院地図の「御岳橋」(現在)

地図を比べると、橋の角度がちょっと変化しています。(斜めであったものがちょっと立ったような形状になっている)
架橋の場所が変わったからです。
現在の航空写真を見ると、初代「御岳橋」の道筋の痕跡が両岸に残っていることが確認できます。

航空写真でみた現在の「御岳橋」とそれ以前の橋の位置

さらに、現在の「御岳橋」の脇(右岸下流側)を見ると、初代「御岳橋」のアーチを載せていた橋台がそのまま残っています。

現在の「御岳橋」は今年が架橋からちょうど50年です。
高速道路をはじめとして、50年が経過して老朽化したコンクリート構築物への対応が全国規模で進められています。
この「御岳橋」も近い将来、また姿を変えて架け替えられるのでしょう。
それに伴い、地図は再び書き換えられて、この場所の空間情報は更新されることになります。

おまけ

上の「新高橋」の絵葉書に、橋の下中央左寄りに犬の横顔のような形をした岩が写っています。
約100年が経っていますが、この岩は今もその形状をとどめて健在(?)です。

下流側から眺めた「御岳橋」と100年前と同じ姿を留める岩

使用した資料

◆たましん地域文化財団 デジタルアーカイブ
⇒リンク https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/1392015100
◆新編武蔵風土記稿
◆御嶽菅笠
◆陸地測量部5万分の1地形図「五日市」(明治43年発行および昭和7年発行)
◆地理院地図