東がない立川駅

以前JR南武線西国立駅に降り立った時、駅の周囲が360°立川市羽衣町である事を知り、むしろ「東立川駅」とした方がいいのでは?と思ったことがあった。でもかつて東立川駅は、存在していた。

東立川駅(ひがしたちかわえき)は、昭和4年(1929)年12月11日 – 南武鉄道線分倍河原駅 ー 立川駅間の開通時に開業した。

駅の近く(現ドライビング・スクール辺り)には、大正10年に開設された立川工作所という会社があった。発足当時は電気自動車を開発し、航空機用点火プラグを開発し、終戦まで大きなシェアーを持っていたという。立川工作所立川工場の昭和15年当時の従業員数は390人となっている。(「立川市史」)地元では創業者野沢三喜三の名前をとって野沢工場ともよばれていた。戦時中には、昭和20年4月4日には空襲も受けている。戦後は残務処理などを行いながらスパナなどを製作していた。

駅周辺は、昭和3年(1928)7月に料亭や芸者置屋を営業できる地域(指定地)として警察の許可がおりた。

その後、東立川駅は南武鉄道が国有化された昭和19年(1944)に廃止された。戦時中の国有化に伴う合理化の一環であったと思われる。立川〜西国立間が約1.2kmと駅間距離が非常に短かく、東立川駅と西国立駅とは約400mの距離であった。

この時点で西国立を東立川とすれば、駅所在地として合点がいくものだったのだがそうはならず。
かくして立川駅は、東西南北の東がない駅となった。