遅い紅葉と山並みの眺めに惹かれ、七生丘陵を歩いてみたくなった。コースを調べる過程で知ったのは、七生丘陵ハイキングコースの思わぬ歴史だった。
七生丘陵ハイキングコースのはじまり
平山・南平・程久保・高幡・三沢・百草・落川という七つの村と西長沼の一部が合併して、明治22年(1889)4月に七生村が誕生した。村の南側に東西に連なる多摩丘陵は、村名に由来して「七生丘陵」と呼ばれた。
高幡不動尊や松連寺、平山季重ゆかりの地など古刹や旧跡があり、江戸時代からこの地を訪れる人は少なくなかった。大正14年(1925)、玉南電気鉄道(現在の京王線府中~京王八王子間)が開通した。翌年に京王電気軌道と合併し、昭和3年(1928)に新宿からの直通運転が開始された。
鉄道の開業から間もない昭和5年頃、健康のために気軽に低山登山を楽しむハイキングが、普及しはじめた。七生村をはじめとした京王線沿線では、ハイキングコースが整備され、七生丘陵一帯は東京近郊の行楽地として脚光を浴びるようになった。
中河原駅もしくは関戸駅(現聖蹟桜ヶ丘駅)から聖蹟記念館や百草園を巡る「南多摩聖蹟廻りコース」や、高幡不動駅から高幡不動尊を抜け、七生丘陵を尾根伝いに歩いて、平山をを経て北野に至る「野猿峠越えコース」などが、豊かな自然と名勝・名刹を楽しめるハイキングコースとして整備された。いずれにしてもかなりの健脚コースである。
戦争が近づくと遊興には様々な制約がかかる一方、ハイキングは国民の体力を向させ、戦時体制の推進に役立つものとして推奨された。昭和9年(1934)には「国民健康運動」のもとで当時の鉄道省が「求めよ健康!緑は招く」という一大キャンペーンを展開し、各地のハイキングコースはハイカー達で賑わった。さらに昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、国民精神総動員運動が提唱され、各種スポーツ、特に登山、ハイキングなどが推奨され、昭和13年(1938)に設置された厚生省も「厚生運動」の一つとしてハイキングを奨励した。
昭和5年(1930)に始まった昭和恐慌による米価や繭価の暴落により大きな打撃を受けた七生村にとって、ハイカーの来訪は地域の振興を期待するものであった。
ハイキングコースの戦後
昭和25年(1950)、南多摩丘陵一帯が都立多摩丘陵自然公園に指定された。これを契機に京王帝都電鉄は、七生丘陵のハイキングコースを整備し、「野猿峠ハイキングコース」あるいは「ロマンスコース」として盛んに宣伝を行った。コースは高幡不動尊の裏山から丘陵の尾根を通って北野に至る全長約8.7kmに至るコースで、ほぼ中間地点に平山城址公園があった。
平山城址公園は、京王帝都電鉄が戦前の平山ゴルフ場の跡地を買収して、昭和29年(1954)に公園として開園した。最寄りの平山駅も昭和30年(1055)に、平山城址公園と駅名を改めている。昭和33年(1958)には、「東京都多摩動物公園」が、昭和36年(1961)には遊園地「多摩テック」(平成21年閉園)が開園した。
ハイキングコースの終焉
戦後の東京への人口集中が増す中で、周辺の多摩市・八王子市・稲城市の一帯で多摩ニュータウンの開発が着手された。こうした郊外宅地化の流れの中、七生丘陵にも宅地開発の波が押し寄せた。昭和40年代の日野市における宅地開発は、七生地区の丘陵部に集中している。「野猿峠ハイキングコース」の沿道でも、開発が行われた。中でも昭和43年(1068)に開発が始まった京王平山住宅は、京王帝都電鉄による桜ヶ丘(多摩市)、めじろ台(八王子市)に続く大型分譲地であった。ハイキングコースは、周辺の宅地化が進み、行楽地としての魅力を失っていった。加えて、昭和42年(1067)の京王高尾線の開通により、高尾山が新たな沿線行楽地として注目を浴び始めた。
新たなハイキングコースとして
「野猿峠ハイキングコース」の一部は、「東京都かたらいの路多摩丘陵」として現在も残っている。「平山城址公園」は、昭和55年(1980)に都立公園として再開園し、かつてのハイキングコースの沿道には、平成元年(1989)に南平丘陵公園が、平成12年(2000)に多摩動物公園の無料開放地区である都立七生公園が開園した。
また百草園から平山城址公園までを七尾丘陵の尾根筋を通りながら結ぶ「七生丘陵散策路(東コース・西コース)」が整備された。
平山城址公園駅から多摩動物公園駅へ
今回は、七生丘陵散策路の西コースを参考にして、平山城址公園駅から多摩動物公園駅まで歩いてみた。
平山季重ゆかりの地
平山城址公園駅前ロータリーは、昭和42年(1967)まで平山小学校があった。この場所は明治17年(1884)に小学校ができる前は、大平山大福寺という寺の敷地であった。大福寺は天正年間(1573〜1591)西多摩の平山氏が先祖の季重を供養するために建てた。大福寺廃寺後、境内にあった墓碑など季重に関係するものは宗印寺に移された。大福寺跡地は平山季重の居館跡ともいわれているが、他の説もあり不詳である。
平山季重の生没年は不明であるが、西党に属する日奉氏の流れをくむ武士で、船木田荘(ふなきだのしょう)平山郷(日野市平山地域)を治めていたことがわかっている。
季重は、源義朝に従って保元の乱(1156)や平治の乱(1159)に参加したが、源平の合戦(1180~1185)で大活躍をした。源頼朝が平氏討伐の兵を挙げると、季重はいち早くこれに加わり、戦いでは熊谷重実(くまがいしげざね)と並び大きな功績をあげたと伝えられる。
さらに1184年の一ノ谷の戦いでは、季重は源義経に従って、戦いに参加し活躍したと言われその様子は「平家物語」にも描かれている。晩年は、仏の道に深く心を傾け過ごした。
ここは平山季重のお膝元らしく、公民館も「平山季重ふれあい館」だ。ロータリーには、季重に関係する2つの石碑が建つ。向かって右が、下総国香取郡鏑木(かぶらぎ)村(現千葉県香取郡干潟町鏑木)の豪農平山正義が、幕末の嘉永年間(1848~1854)に、先祖の平山季重の遺跡を後世に伝えようと大福寺に建立したもの。左側は、大正14年(1925)に七生青年団平山支部が建立した「季重公霊地碑」。
宗印禅寺
曹洞宗、大沢山宗印禅寺と号する。本尊は聖観世音菩薩。
明治時代に平山季重を供養するために建てられた大平山大福寺(現在の平山城址公園駅ロータリー周辺)が、明治17年(1884)廃寺となり、宗印禅寺に併合された。この時に大福寺にあった平山季重の墓、日奉地蔵堂、大福寺本尊の千手観世音菩薩坐像も宗印禅寺に移された。
文化財としては、以下のものがある。
◆平山季重の墓(東京都旧跡)
もとは大福寺にあったものが併合により、宗印禅寺に移された。
高さ1.8mの五輪塔で、台石は季重25世の孫松本藩士平山季良が建てたとある。
承久元年(1219)2月19日卒とあり、これが季重の没した年ともいわれている。
◆木造地蔵菩薩坐像及び千躰地蔵(日奉地蔵・日野市有形文化財)
日奉地蔵堂内に安置されている地蔵菩薩坐像は高さ40cm、伝説によれば季重が戦勝のお礼に安置したものといわれている。この像を中央に左右それぞれ五百体、千体の小地蔵像が安置されている。補充したものもあるが千体地蔵として完全な形を伝えている。現在の地蔵堂は平成11年(1999)、宗印禅寺の改修時に新築された。
◆木造薬師如来坐像(平山薬師・日野市有形文化財)
薬師堂は昭和18年(1943)平山地区に都道が開設された際、その道筋にあった薬師堂をこの地に移したもの。古くから平山の寅薬師と呼ばれ安産と眼病平癒を祈願している。薬師如来坐像は高さ33cm、寄せ木作りで、彩色がほどこされている。
◆木造平山季重坐像(日野市有形文化財)
日奉地蔵堂内には、平山季重坐像が安置されている。松材の寄木造で製作年代は江戸時代前半ごろと考えられている。
◆林丈太郎の墓碑(日野市史跡)
干ばつに強く、品質がよくその上収穫量の多い「平山陸稲」を発見した林丈太郎たたえた林丈太郎の墓碑(日野市史跡)がある。
日野七福神の布袋尊が祀られている寺でもある。
*日野七福神
布袋尊・・・ 宗印禅寺
弁財天・・・金剛寺 高幡不動尊
恵比寿天・・・真照寺
福禄寿・・・石田寺
毘沙門天・・・安養寺
寿老尊・・・延命寺
大黒天・・・善生寺
宗印禅寺は、見晴らしが良く、晴れた日は爽快だ。
平山季重神社
平山季重神社は、京王緑地の丘陵の端にある。古くは日奉明神社と呼ばれており、現在でも日奉神社とも呼ばれる。季重が祖先の日奉を祀ったものとも、季重を子孫が祀ったものともいわれる。この場所は丸山と呼ばれ、かっては平山氏の見張り台があった場所との言い伝えもある。
現在の祠は平成17年(2005)4月3日に落成したもので、祠正面に「平山季重」とくっきり刻まれている。平山八幡神社の氏子や地域の人の協力でにより約50年ぶりに、総ヒバ造りで建て替えられた。
平山季重の居館があったとの言い伝えもある平山橋北の大名淵。そこには大正末頃、安田財閥の安田善衛氏の別荘があった。昭和30年代それが取壊しとなった時、敷地内にあった稲荷を丸山に移して祀り、祠を建てたのが先代のものである。もともとこの場所には古くから石で出来た小さな祠があり、そこに合祀した。その石祠はその当時も、そして、今回も祠の礎石の中心に大切に祀られている。
京王緑地からの展望
平山季重神社を後にして、平山城址公園には入らず、京王緑地を行く。
平山季重の道
京王緑地にはグランドや研修センターなどがある。広大な敷地を抜けて都道155号のトンネル上を歩くと平山城址公園に入った。展望広場の道しるべにつられて寄り道をする。待っていたのは富士山でした。
展望広場から戻り、木漏れ日の中「平山季重の道」を行く。今は、木々が茂っている公園だが、かつてはゴルフ場だったという。起伏を見ながらなんとなく想像してみる。
この後、今は閉園した多摩テックの裏に出る。片側が塀で、何とも味気ない道だである。それを抜けると、旧都道155号から都道203号に出て、中大への分岐まで歩く。この辺りは、面白みもない。かろうじて、教会から七生丘陵散策路に入り、これが中大のヒルトップ隧道の入り口まで続く。散策路らしいのは、ここでおしまい。あとは、都道203号に戻り多摩動物公園駅まで歩くのみ。ぶらぶら歩いても2時間位の散歩だった。
<参考文献>
- 七生丘陵いま・むかし ハイキングコースを歩く 日野市ふるさと文化財課
- のびゆく日野 日野市教育委員会
- 日野市観光協会HP