町田市には2つ、多摩市には1つの一里塚跡がある。これらは「御尊櫃御成道(ごそんひつおなりみち)」と呼ばれる道筋に建てられている。
御尊櫃御成道
徳川家康は、元和2年(1616)に亡くなると久能山に葬られた。一周忌を経た元和3年(1617)、家康の遺言により、大僧正天海の指揮で日光への改葬が行われた。御尊櫃御成道 とは、駿河国久能山から日光東照宮へ改葬する際に遷御の行列が通行した道である。約千人の大行列で久能山を出発したのは元和3年(1617)3月15日で、日光に到着したのは4月4日未(ひつじ)の刻(午後2時ごろ)とされている。
江戸~府中宿(現府中市)~ 関戸村(現多摩市)~小野路村(町田市)~ 木曽村(町田市)~相模国座間村(現座間市)~ 厚木村(現厚木市)~ 矢倉沢関所(現南足柄市)~ 東海道大磯宿(現大磯町)へと通じる主要な脇往還(いわゆる大山道)があった。
今回私が歩いたのは、町田市木曽から多摩市関戸に至る部分である。その区間を行列が通過したのは3月21日で、平塚の中原御殿を出発して、府中御殿(現府中市家康御殿跡)まで、約44キロを移動した。これは1日の歩行距離では最も長い。相模川・多摩川という2つの大河川の他、中小の河川もある。そこへ小野路村でのアクシデントがあったのだから、府中到着は夜半になったのではないだろうか。
相模川を渡るときは厚木村(厚木市)から「厚木の渡し」を用いて河原口村(海老名市河原口)に渡ったとされ、座間の宗忠寺で休息をとった。宗忠寺は家康公が鷹狩りの際の立ち寄ったともされ、休憩所として建てさせたという御殿も境内に残る。
相模原市南区内には新戸、下溝(麻溝台)と一里塚の跡に石碑が残る。古淵を通って町田市木曽に入り、その先の福昌寺を休憩所としたとされている。その後小野路で休憩し、関戸村(多摩市)「関戸の渡し」で多摩川を渡り、一路鎌倉街道を府中へと向かったとされる。
木曽一里塚(市指定史跡)
そこで、今昔マップ1896年ー1909年(明治29年~明治42年)などでおよそのルートを確認し、古淵駅から旧大山道を歩いてみた。
古淵からの旧大山道は、センターラインもない狭い道路の割には、16号からの抜け道になっているのか、交通量が多い。しかし境川を渡ったあたりからは、歩道もあり歩きやすくなった。
木曽の町に入ると、宿場町を思わせる町並みが見られた。木曽一里塚は、覺圓坊(木曽の冨士塚参照)の向側にあった。
東西で一組あった塚も現在は西側だけが残されている。塚の頂上には武蔵御嶽山の大口真神社より分霊した小祠が祀られている。説明によると、御尊櫃御成道は、18世紀になると関東各地から相模国大山阿夫利神社へ参詣する大山講がさかんになり、この道も大山道として利用され、木曽と小野路は宿場町として栄えたそうだ。
一里塚もそうしたことから築かれたようだ。
宿場の角には、「延命見張り地蔵菩薩」が祀られていた。享保4年に祀られたものだが、享保当時のお地蔵様この奥にある伝重寺に祀られている。町田街道が通る以前は、ここからが伝重寺の参道だったのかもしれない。
小野路一里塚
木曽から忠生に入ると造成されて当時の道は全く残っていないので、迂回路をとり釜田坂と言われる急坂をおり、鶴見川にでた。芝溝街道を並木交差点まで行く。この辺りは、旧道が所々残っている。小野路方面に行き「日本ろう学校入口」の交差点から急坂を上る。野津田公園に突き当たりやや左手の道が旧大山道となり、やがて「小野路一里塚跡」に出る。ここもやはり片側の塚のみが、残されている。
この改葬にあたり、幕府は木曽村、小野路村、付近の村々に触書を出して道路整備を命じた。小野路村でも村人は緊張の面持ちで行列を待っていたことだろう。ところが、小野路宿直前の向坂(むかいざか)を下る時に、柩を乗せた車の軸が折れ、難儀していたという。この時、小野路村では、乞田村(現多摩市)から鍛冶屋を呼び、車軸を修理した為、何とか府中に着くことができたと伝わっている。行列を見送り、村人たちは大いに安堵したことであろう。
これらの働きに報いるため、幕府は小野路村、木曽村ならびにこの通行の際に難儀をかけた村々に対して、東海道、甲州街道への助郷を永久に免除するという特命を下した。それから224年を経た天保12年(1841)、神奈川宿への助郷をこの特例を理由に免除を嘆願して聞き入れられた。しかし、世情が変化してきた慶応2年の嘆願は、聞き入れられることはなっかったという。
私も小野路の里山交流館で休憩することにした。庭では収穫した大根を干していた。大根を眺めながら、コーヒーを飲み一服した。
瓜生一里塚
小野路からは一本杉公園を経て、尾根幹線道路に出た。ここからは、ニュータウンの造成で旧道はわからない。新鎌倉街道を行き、途中から遊歩道を歩く。その遊歩道沿いに瓜生(うりゅう)一里塚はある。もとは現在地よりも西南に70mほどの地点、旧鎌倉街道の両側に径4.6m高さ3メートルほどの塚があったという。多摩市では、唯一の一里塚である。
多摩市関戸の旧鎌倉街道の大栗川の手前に小さな祠がある。金山大権現と言われるものだが、説明によると改葬の折、ここで一泊したとある。しかし次の宿泊が府中であることは記録があるので、それは誤りであろうが、大栗川を渡ると多摩川まではすぐなので、川を渡る前に休憩位はしたかもしれない。
強行軍であった一行は、多摩川を越えて大いに安堵したことだろう。府中御殿まで、もう難儀な箇所はない。
2023年5月17・18日、栃木県日光市の日光東照宮では、コロナ禍で4年ぶりに、春季例大祭の関連行事として「流鏑馬(やぶさめ)」「百物揃千人武者行列(千人行列)」が行われた。この千人行列は、徳川家康日光改葬の折の行列を再現したもので、武者、八乙女、神官など53類の役割に扮した1,200名余名人々が、御旅所(おたびしょ)へ向かい練り歩くそうである。
<参考文献>
・「家康日光改装で通った道」 矢沢 湊 多摩のあゆみ128号
・「小野路から伸びる丘陵の道」 小島政孝 多摩のあゆみ128号
・町田の歴史をたどる 町田市
・日光東照宮HP