稲城に3つの城があった

 

稲城市 地図 

 

稲城市は、東京都心の新宿から西南に約25キロメートル離れて位置しており、東西、南北ともに約5.3キロメートル、面積17.97平方キロメートルで、多摩30市町村で14番目の広さの中小都市です。多摩丘陵の中ほどに位置し、北の境界線に当たる多摩川を一辺として、ほぼ三角形を成していて、北半分は多摩川による沖積地が占め、多摩丘陵が南部を形成します。多摩川支流の三沢川が、多摩丘陵部を北西と南西に分ける形で東へ流れます。当市は、多摩丘陵の東端という地にあり、東南部より西部にかけて神奈川県川崎市と接し、北は、多摩川を隔て府中市、調布市に接し、西部は多摩市に接しています。

稲城市は、田畑と雑草地、雑木林が開発前の姿でしたので、「お城」のような歴史的遺物が存在することもないはずだと、一住民としては、近頃の「お城ブーム」にも話題すら提供できないことの寂しさを感じていましたが、3つの城があったことが判明しました。といっても、当然に天守閣のある豪壮な居城というわけではなく、鎌倉時代から南北朝を経て室町時代にあった、砦、或いは見張り所の如きものということですから、あまり城持ち地域としての胸を張れるわけではないですが、散歩がてらに尋ねてみました。

  長沼城

 まずは、稲城駅から歩き始めます。稲城駅は三沢川の南にあり、駅から三沢川に下って、鶴川街道に向かいますと、京王線の稲城駅の上に掛かる道路橋は「城址橋」と記されています。稲城市内の人でも、この橋の名前を知っている人はほんのわずかでしょう。三沢川近くには、「亀山下公園」とよばれる小さな公園かあり、そこを過ぎて三沢川を渡った鶴川街道沿いには「長沼城跡」という碑がおかれてあります。

 

 

 

 

 

 

城址橋

                                                                                                                                              稲城駅から三沢川へ向けて「亀山下公園」

   

  「長沼城・報恩寺跡地」の碑

                                                                             かつての風景/右側丘が亀山、左に常楽寺が見える

 

『新編武蔵国風土記稿』には、「昔長太郎と言人居住の地なりと、されどその時を伝へず、『東鑑』にのせたる長沼五郎宗政など言へるものゝ一族などにや」とあります。長沼氏は、武蔵七党の一つ西党の流れを汲み、武蔵国司となり地名日野の由来となったと言われる日奉宗忠(ひまつりむねたか)の曾孫職任にはじまるとされます。長沼氏の本貫地については八子市長沼町の長沼館にあったともいわれています。また、長沼氏に長太郎という人物がいるのかも定かではありません。長沼宗政は藤原秀郷(平安中期の貴族・豪族・武将=俵の藤太(たわらのとうた)系小山氏の一族で、下野国芳賀郡長沼に発する人物であり、そのため、宗政を稲城の長沼城と結び付けるのは困難と思われます。京王電鉄の相模原線開設時に、今の稲城駅付近の亀山(きざん)を取り崩し、稲城駅の設置を南接の常楽寺とひと揉めして位置決めをして、遺構は消滅して、宅地化されています。上記の通り、「城址橋」や「亀山」の名称が、当時をしのばせるものです。稲城市の長沼は、明治になって京王線八王子市の長沼と同一名称のため、西の八王寺の長沼は「西長沼」に、東の稲城市の長沼は「東長沼」とされました。この亀山には、源頼朝に仕えた武将、長沼五郎宗政一族の館で「長沼城」といわれた中世の山城があったといわれています。近世には、安永3年(1774)に黄檗宗(おうばくしゅう)宇治万福寺(うじまんぷくじ)の末寺である大亀山光明院報恩寺(だいきざんこうみょういんほうおんじ)が創建されましたが、長沼城跡碑に記載されたとおり、明治30年代に報恩寺は廃寺となりました。

 稲城市の名称について

 

山林がほぼ半分を占め、起伏に富んで緑豊かな純農村であった稲城は、明治、大正と第二次大戦を経て経済躍進が進む中、急速な都市化、ベッドタウン化が進みました。建設計画が進展し、京王相模原線、小田急多摩線沿いの開発に伴い、多摩川流域の既存住宅地と合わせて人口が急増しました。山林がほぼ半分を占め、起伏に富んで緑豊かな純農村であった稲城は、明治、大正と第二次大戦を経て経済躍進が進む中、急速な都市化、ベッドタウン化が進みました。平尾団地建設計画、多摩ニュータウン建設計画が進展し、京王相模原線、小田急多摩線沿いの開発に伴い、多摩川流域の既存住宅地と合わせて人口が急増しました。稲城村から稲城町になった昭和31年には1万人余の人口が、昭和46年の市制施行時には約3万4千人となり、現在の人口は、約9万2千人になっています。明治22年4月1日、東長沼外五か村連合戸長役場の管轄下にあった、東長沼・矢野口・大丸・百村・坂浜・平尾の六ヶ村は、前年の町村制の公布に伴う町村統合によってーつの村となり、「稲城村」が誕生しました。稲城という名称は、この時に新しく命名された村名です。

新村名について相談をもちかけられた明治13年から大正2年まで開設された私塾=奚疑塾(けいぎじゅく)を運営していた漢学者窪全亮(くぼぜんりょう)が「稲穂」と「稲城」の二候補を示し、結局、「稲城」が選定されました。「稲城」の選定にあたっては、矢野口一東長沼・大丸の地に砦(小沢城・長沼城・大丸城)があったという歴史的な事実と、この地が稲の産地であり、昔からよい米がとれたということが考慮されたといいます。

 大丸城

 長沼城址碑を見て、向陽台・公園通りを上って、南多摩尾根幹線道路を渡れば、向陽台団地の交差点に着く。この北側には南多摩駅から府中市内へと延びる下り坂があるが、道路を挟んで右にコンビニ・喫茶店から住宅団地に、左には城山公園が延びている。この城山公園は自然林を生かした緑の公園で多少の高低あり散策するに心地よい。第二次大戦中は、弾薬庫として使用されていて今ではその西側は、住宅団地の奥に米軍駐留地が連なっている。これから探る大丸城敷地は、道路左の城山公園にはなく、右側の城山公園東側の斜面にあった。

大丸城址は、多摩ニュータウンの造成工事に先立ち、昭和55年から61年にかけての、三次の発掘調査が行われ、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合施設であることが判明し、さらに中世の城郭跡と武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見され貴重な成果が得られた。

中世の時代に築かれた大丸城は、山頂部に主郭を設けた山城である。主郭上には、小建物群と柵列跡があり、主郭の周りには深さ2~3mの空濠と土塁状の腰曲輪が巡っていた。この結果、見張り台程度の規模の山城で、南北朝時代から戦国時代(14世紀~16世紀)頃に使われたことが明らかとなり、市内の小沢城(矢野口)、長沼城(東長沼)とほぼ同時代の山城だ。大丸(おおまる)とは「大きいマル・マト(丸・的の形をした平地)」という意味で、古多摩川沿いのオオマトノツ(「大麻止ノ津」または、「大真門の津」)という船着き場(津は港という意味)があったといい、現在でも大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)があります。当地は多摩川の船着き場、渡河点であるのみならず、古代官道の相模道や鎌倉街道上ノ道にも近く、さらには武蔵国府中の対岸すぐということで、国分寺の瓦を生産した瓦ヶ谷戸もあり、古来よりとても重要な地域であったことがうかがわれます。

新田義貞がこの武蔵・大丸城を守ったという伝承もあるようですが、築城者や城主などは一切わかっていない謎が多い城で、見張り的な大丸砦と言った方が良いかも知れません。

 

 大丸城説明板

 

 

 

 

 

                              発掘調査時の大丸城跡地➀ 北側から南に向けて

 

 

発掘調査時の大丸城跡地② 南側から見下ろして

 小沢城

   大丸城北の新大丸交差点から稲城駅に向かい、駅下で鶴川街道を東進して、矢野口から南下すれば、京王よみうりランド駅に着く。その手前を三沢川沿いに東進すると、右の山下に、穴澤天神社の鳥居(下に掲げた鳥居とは別物)があり、その先に東京の名涌水57選に選ばれている湧水の湧く弁天洞窟への入り口がある。その洞窟入り口の昇り階段を上がれば、そこが穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ)である。延喜式神名帳に記載される「武藏國多磨郡穴澤神社」に比定されている旧社で、旧社格は郷社。「新編武蔵風土記稿」によれば。今より2400年前の昔、人皇第六代孝安天皇の御代に創建されたと伝えられ、主祭神は少彦名命とされ、大国主命の国造りに協力した命といわれている。が、これには異論もあり、本来は少彦名命ではなくこの地の土地神(穴澤神)を祀っていたのではないかとも考えられている。元禄7年新たな社殿の造営時に、菅原道真公を合祀したという。

この穴澤天神社の奥の山の上にあるのが、小沢城だ。神社の北側の小山沿いに10段ほどの石段が作られており、これを上ってさらにその上の小山道を上り切った処に、川崎市と稲城市にまたがる小沢城があった。鎌倉時代初頭には、源頼朝の重臣稲毛三郎重成(稲毛三郎の母は頼朝妻女北条政子の妹)により築かれると伝わる(あるいは重成の子小沢小太郎が築城ともいわれる)。稲毛三郎の子の小沢小太郎の支配する居城であったといわれる。丘陵地形が天然の要害となったこの城は、鎌倉道が通る交通の要衝で、背後に広大な多摩川の河原を控えていたため、鎌倉時代から戦国時代にかけてたびたび合戦の舞台となった。なかでも元弘3年(1333)新田義貞の軍勢が、幕府軍を打ち破り鎌倉侵攻の突破口となった分倍河原の合戦は有名である。

 

                                                       穴澤天神社

 

 

 

 

 

 

        小沢城郭平面図

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                   小沢城址公園内

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 穴澤天神社境内を囲む丘から、階段10段を上れば小沢城址公園に着く

 

                        小沢城址碑

観応2年(1351)、足利直義方の小沢城を足利基氏方の高麗経澄が攻め落とす。この時焼失した。享禄3年(1530)6月には、小沢城から出陣した北条氏康が、北条領に侵攻した上杉朝興を迎え討つ小沢原の戦いが起こり、氏康が上杉勢を退け初陣を飾る。戦国時代以降は廃城となり放置されるが、江戸時代に入ると富士講が流行し、峰を富士塚として利用されるようになる。文化3年(1806)に祠が、万延元年(1860)に富士登山三十三度大願成就記念碑などが建てられている。

太平洋戦争中には探照灯が設置され、生田にある枡形山に置かれた高射砲でB28を砲撃していた。

小沢城址公園は、新田義貞、北条早雲など名だたる武将ゆかりの古戦場となって、現在も空堀や土塁、物見やぐらなどの跡が残っており、緑地公園として豊かな自然が楽しめるオアシスとなっている。

この公園を西に抜ければ、ジャイアンツ球場と京王よみうりランド駅を結ぶよみうりV通りに出る。2009年読売巨人軍選手名鑑の手形ブロックが連続して配置されたよみうりV通りを経て東京よみうりランド駅に到達する。