三鷹市新川に戦国武将、柴田勝家ゆかりの史跡を訪ねる

三鷹市の南方で、市内をほぼ南北に流れる仙川と東西方向に走る中央自動車道の交点付近にビルが立ち並ぶ新川団地が建っている。


新川団地が建っている地域一帯は小高い台地の地形を成しており、かつて島屋敷と呼ばれていた。今日でも、団地内の通りや建物に島屋敷の名が使われている。
島屋敷には、中世、武蔵七党の一つである村山党の武士、金子氏の屋敷があったと伝えられ、江戸時代初期には柴田勝重が陣屋を構えて居住していたという。


柴田勝重は、賤ケ岳(しずがたけ)の戦い(天正11年、1583)で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れ、妻の小谷の方(お市の方)とともに北ノ庄城(福井市)で自刃した安土・桃山時代の戦国武将、柴田勝家の孫にあたる人物で、家臣とともに上野国に居た外祖父、日根野高吉のもとへ落ち延び、そこで養育を受け成長した。

喜多川歌麿画 出典:Wikipedia


元服した勝重は、後に徳川家康に召し出され、大阪冬の陣(慶長19年、1614)、夏の陣(元和元年、1615)で戦功を上げ、武蔵国多摩郡上仙川村(現・三鷹市新川)、中仙川村(現・三鷹市中原)などを拝領され、上仙川村の台地、島屋敷に陣屋を構え居住した。

仙川を挟んで新川団地の北側に勝淵(かつぶち)神社が建っている。勝淵神社の周辺は古から水神を祀る水神の森と呼ばれており、勝重はここに社殿を建立し、その傍らに祖父勝家から与えられた兜を鎮めて神霊として祀り、社号を勝淵大明神として崇めた。

勝淵神社


柴田氏一族は、その後およそ80年間先祖伝来の地を治めたが、元禄11年(1698)領地を三河へ移された。
しかし、柴田氏が去った後も勝淵神社への村民、氏子の信仰の念は篤く、村の鎮守として崇めてきた。
勝重が兜を埋納した場所は兜塚と称して神社ゆかりの史跡となった。

昭和40年頃の兜塚


長い年月が過ぎて兜塚が荒廃したため、それを憂いた氏子の熱意により昭和63年(1988)現在の兜塚が境内に再建されて今日に至っている。
兜塚を含む神社境内域は、平成24年(2012)三鷹市の登録史跡に指定された。

再建された兜塚


島屋敷、勝淵神社、そして兜塚。三鷹市に戦国の世に身を投じた武将、柴田勝家ゆかりの史跡があることを知り、新たな歴史の一面を学んだ一日となりました。

参考資料
*地理院地図
*広報みたか 平成24年7月