立川通りの『ごはんと喫茶 いい日々』にて、おいしい焼魚定食とコーヒーをいただき、心身ともに満足した私は散歩がてら国立まで歩くことにした。立川通りを東に進んだところで、いい感じの緑道があった。方向的にもよさそうなので、その道を行くことにした。歩いている内にこの道は?と思い調べてみると果たしてその緑道は、かつての鉄道跡であった。それは戦中に中央線から分岐して、軍用線として立川飛行場に引き込まれた鉄道の廃線跡につくられた緑道であった。のどかな散歩道は、さらに「いい日々」にしてくれた。
立川飛行場引込線
大正11年(1922)に陸軍飛行第五大隊が立川移駐した。当初は民間飛行場としても利用されたが、昭和8年(1933)からは、陸軍専用飛行場となった。周辺には航空機産業を中心とする軍需産業が立地し、陸軍用機を製造する立川飛行機の工場も東側の隣接地につくられた。
昭和13年(1938)に陸軍獣医資材廠(現在の陸上自衛隊東立川駐屯地)が、立川に移転してきた。その際に立川駅貨物ヤードから同廠まで、1.2kmの引込線が敷かれた。その後、昭和18年(1943)に途中から分岐し、立川飛行場に至る3.2kmの引込線が敷設された。
戦後は、飛行場も工場とともに米軍に接収された。接収後、引込線は南へ1.7km延長された。昭和43年(1968)まで行われたジェット燃料輸送は、1日120両に及んだという。
昭和44年(1969)に米軍立川基地の飛行活動が停止されると共に引込線も廃止となりった。そして昭和52年(1977)には、立川基地全面返還となった。同じく立川飛行場への引込線としては、JR青梅線中神駅からも約1.3kmに渡る引込線があった。
廃線跡が緑道に
廃線跡を利用した緑道は、国立市、国分寺市、立川市の3市にまたがり、国立市の北緑地から芋窪街道に至る約2kmの道である。基地跡地利用の第一歩として整備され、昭和55年(1980)に遊歩道として完成した。
地図で確認すると、緑道に出るにはJR南武線西国立が近い。ちょうどかつての中央線との分岐点辺りにでる。引込線の分岐点と思われるあたりは、現在は荒地となっていて、工事中で立ち入ることはできない。
廃線跡地と思われる国立市の北第一公園までは、ちょっと周り道することになる。北第一公園を通り抜けると北側の緑道の入り口である北緑地に突き当たる。
北緑地(国立市)
国立市の「北緑地」は、約150m程だろうか。レールを使用したモニュメントと石作りのテーブル、イスが目を引く。
半分にレールが用いられたアーチ型のモニュメント付近が、かつて資材廠への引込線との分岐だったようだ。
パーゴラに使用されている廃レールには、「2602」と皇紀表示されていることが知られている。昭和15年(1940)は、紀元2600年にあたり、全国で盛大な式典が行われ、皇国精神の高揚がはかられた。刻印された皇紀2602年は、昭和17年(1942)であるから、昭和18年(1943)の立川飛行場への敷設の際に用いられたものであるかもしれないと想像はふくらむ。
西町緑地(国分寺市)
国分寺市に入ると「西町緑地」と名前を変える。約280m程の緑道だ。特徴は、緑道を囲む柵が鉄道時代の名残であるところか。レールを使用したパーゴラも素朴な造りである。
栄緑地(立川市)
「栄緑地」は、西町緑地との境から立川通りを横断し、芋窪街道に至る1.6kmの道である。最初に通った時は、立川通りから栄緑地に入ったのだったが、この付近が一番好きだ。植木のほ場だろうか?農場内の車が入る道には、枕木が敷かれている。日当たりがよくのでかで気持ちがよい道だ。
栄緑地には、廃レールを利用したパーゴラが5つあり、ノウゼンカズラを這わせている。
芋窪街道に突き当たったところで緑道は終わる。
3市のまたがる緑道であるが、それぞれに個性があって趣がことなる。全長2km程の和める散歩道だ。
<参考文献>
- 「多摩 幻の鉄道 廃線跡を行く」 山田俊明 のんぶる舎 1999年