森を育み、神仏に寄り添って斜面に生きる~白丸駅前の顔

球体のような待合室が目につく白丸駅

マッチ箱の電車と集落のジオラマ

青梅線青梅駅から14本目のトンネルを抜けた。白丸駅だ。トンネルの数は標高を上げている証か。白丸駅の標高は約342m。青梅線の起点である立川駅(標高約83m)に比べると259mほど高い。青梅駅より144mほども違う。

白丸駅のもう一つの特徴は、切符の自販機を備えた建物はあるが、いわゆる駅舎らしいものがないことだ。半球体の覆いを備えた待合室がある程度。構内は南側の多摩川から這い上がっている斜面にへばりつく。1本のホームは、隣接する民家の裏玄関でもある。近くには黄色いロウバイや白梅が咲いているものの、周囲の多くの木々は裸木で、サクラの開花が間もなくの都心と違い、ここでのサクラは、固いつぼみのままだ。

山間で駅を中心にこじんまり集落を形成している白丸。奥の三角の山が天地山(不伐の森の前で)

白丸駅周辺を歩いたコース(奥多摩町観光産業課発行「奥多摩 山里歩き絵図No.7白丸」の一部。加工あり)

駅周辺を俯瞰したくなり、周りを見渡した。ホーム伝いにある白丸踏切を渡って直進する。斜面をうねる道路の先の急カーブ地点は展望台になった。切れ落ちる多摩川。対岸に迫る山が大きく、その高さが顔前に迫る。電車が近づく音がする。上り電車が白丸トンネル(延長56.1m)に入ったのだろう。徐々に車輪の音が大きくなる。ホームを見下ろす。周囲の風景の大きさが際立ち、電車はマッチ箱を連ねたように見える。細いホームは車両に遮られた。ここから見る白丸集落は、まさにジオラマだった。

森林の永続性を誓う「不伐の森」の碑。道路の凍結防止剤が備えてあった

「不伐の森」に誓う次代の樹木

この高台の背後に迫る杉林は「環境保全林 不伐の森」だった。昭和62年(1987)10月に小田急建材ベストン(本社・荒川区西日暮里)から土地(約316㎡)の寄贈を受けた奥多摩町は、平成7年(1995)9月、巨樹と清流のまち・奥多摩のシンボルとして次代に残す森と決め、平成8年3月28日に記念碑を建てた。その後、2度間伐をした。奥多摩町の面積222.53㎢の94%が山林であることから不伐の森は、それを象徴している。新しい視点は、不伐の森に永続性をうたい込んだことだ。

ご神木の大イチョウが境内を引き締める元栖神社

300年繋いだ舞いを象徴する大イチョウ

坂道を登り詰めると、ロウバイが黄色い炎を灯したように元栖神社鳥居前に咲いていた。境内には幹を覆うほどに何本もの腕を広げたように枝を張る大イチョウが重装感を漂わせていた。元栖神社は白丸集落の鎮守だ。猿田彦命を祀っている。嘉永6年(1853)の大火で史料などを失い、神社の歴史を紐解けないでいる。ただ、元栖(元巣)は森と水に縁があり、鳥が卵を産んで雛を育てる所だ。人に置き換えれば、お産をする部屋を指し、古代には神殿のことを「巣」と言っていたそうだ。

例祭の8月第3日曜日には獅子舞が奉納される。「白丸獅子舞」といわれ、300年以上も繋いできた。明治30年(1897)ごろに一旦途絶えたが、明治42年ごろに若衆連が復活させた。嘉永の大火を免れた獅子頭は名主の土蔵にあったことが幸いした。獅子頭は鹿の頭の形をしている一刀彫りだ。長年の役目で傷み、平成15年(2003)8月、1組3体を新調したという。夏に舞いを見に来よう。

川合玉堂画伯が愛した白丸集落

白丸を愛した画家がいた。第2次世界大戦のさなかに疎開してきた日本画家の川合玉堂さんだ。昭和19年(1944)12月から白丸に1年ほど滞在したのが縁だ。玉堂さんは朝の散歩を日課にしていた。そのお気に入りのコースを奥多摩町では「川合玉堂も愛した白丸散策コース」にして各所の辻に案内板を置いている。

玉堂さんは、翌年7月16日に元栖神社の獅子舞を見て、こんな詩を詠んだ。「囃子いま 調べに高まり 獅子荒るる ときしもひびく 警戒警報」。広島に原爆が投下される20日前だった。

春を待つ森に抱かれる本源院

創建400年余りの本源院

元栖神社の上に白水山本源院がある。曹洞宗海禅寺派のお寺で、慶長18年(1613)に創建された。開基は不明。海禅寺7世天江東岳が開山したという。本尊の木造十一面観世音菩薩は、堂内の闇が深く、判然としなかった。ここも嘉永の大火などで被害に遭い、何度か再建された。現在の堂は昭和22年(1947)に建造された。

急斜面に立ち並ぶ白丸集落の民家。眼下に今年完成60年を迎えた白丸調整池ダムの湖面が見えた

歩きやすさと情緒あふれる石畳の小径

元栖神社前にある大屋根の民家脇にあった白丸散策コースの案内板に沿って坂を下った。人と人がすれ違える程度の小径だ。足元には自然石を埋め込んだ石畳が続く。足に優しい。情緒がある。しゃがんで見ていると、庭先にいた主が声をかけてくれた。「石畳が残るのは、この辺りだけだよ。平安時代に造られたと聞いている」。一気に歴史を感じた。これまでどれほどの人が通ったのだろう。しばらく動けなかった。

坂道ゆえに足に優しさを感じた石畳の小径

この辺りの斜面の畑で古墳時代から奈良、平安時代の遺物が出土しているという。炉や住居跡も確認されている。中世に一帯で生産されていたのは綿(真綿)、桑、紬、漆などが主で、これらを年貢として納めた。名主の家では酒も搾っていた。大きな打撃を受けたのは嘉永の大火だ。氷川から出火した火事は、飛び火によって白丸の集落を焼けつくした。明治に入って御林(官林)が払い下げられて林業が栄え、木炭を焼き、養蚕やワサビの生産も拡大した。そんな話に耳を傾けて白丸の歴史の断面を知った。

石畳が途切れ、セメントの舗装になった。斜面は一層、急になり小径と民家の屋根が同じ高さになり、天に招かれたような不思議な感覚が湧いた。

家の屋根を歩く格好の小径

山道最大の難所だった白丸

青梅線と多摩川に並行するようにある青梅街道は、江戸時代に整備されたが、それ以前の街道は、白丸付近が最大の難所で、多摩川の数馬峡を迂回するために尾根道や峠道を往来した。この主要道は大岩で阻まれた根岩(ねえや)越えと呼ばれる山道を越えなければならなかった。石畳の道は、その当時を物語る。石畳沿いに玉堂さんが疎開した、趣がある家が建つ。

集落から見える“三角山”の名付け親

坂の小径を下ったT字路の右角が奥多摩町防災備蓄倉庫。ここを右折して車道を道なりに進む。高い石垣の民家前に表示板がある。「前方に見える尖った山・天地山」。三角のおにぎり型の天地山(981m)だ。鋸尾根から分けた急峻な山だ。玉堂さんは、天地山の形容から「奥多摩槍」と名付けて、こう詠んだ。「名に負へる 天地嶽は人知らず 奥多摩槍といはば知らまく」。【詳しくはブログの「御嶽駅前の顔」をご覧ください】

蛇行する道が続く。杣入(そまいり)橋を渡ると、金網のフェンスが見えてくる。下に青梅線の線路とトンネルが口を開けている。

秀逸な造形の十一面観音菩薩像を祀る杣入観音堂

金箔の秘仏十一面観音菩薩立像

間もなくして目に付いたのは石水山(せきすいさん)杣入(そまいり)観音堂の祠だ。間口3.9m、奥行き4.5mの小堂。堂内の厨子は黒く漆塗りされ、内部が金箔。その厨子に安置されている十一面観音菩薩立像は木造で、高さが82.4㎝。肉身部に金箔が施されているが、制作当初は素地仕上げだったようだ。十一面観音菩薩立像を中心に左に不動明王(像高48㎝)、右に毘沙門天像(像高50㎝)の脇侍が立つ。

杣入観音堂の十一面観音菩薩立像(奥多摩町教育委員会発行「奥多摩町の文化財」から)

十一面観音菩薩は、像の内部にあった記録から慈阿弥陀仏という人が大勧進を行ったこと、鎌倉時代後期の徳治2年(1307)に仏師・定快(じょうかい)が制作したとあったそうだ。東京都有形文化財に指定されている。

定快は、青梅市塩船の塩船観音寺の木造二十八部衆立像(国重要文化財)、茨木県那珂市の常福寺の聖観音菩薩像の作者であり、東国で活躍した。

十一面観音菩薩像は、古くから白丸で修行した修験者が守護仏として祀り、近隣住民や街道を行き交う人々が崇めてきた。「秘仏にて見ることを許さず」と新編武蔵風土記稿にあるという。拝顔できる5月5日を楽しみに待とう。

観音堂は、元々、北西の堂平にあったが、現在地よりも高い斜面に移転後、嘉永の大火で焼失。観音菩薩像を本源院に仮安置して大正7年(1917)現在地に堂が再建されるのを待った。

手掘りの跡が滲む数馬の切り通し

巡礼者らが3年がかりで開削した石門

観音堂から歩いて数分。坂下から上がってくる道をやり過ごし、森林帯に入るようにして「数馬の切り通し」を目指す。青梅街道の白丸トンネル(延長126m)の真上を歩く格好だ。

やがて木々が覆い繁る森に石門と呼ぶにふさわしく切り崩した岩が出現した。数馬の切り通しだ。行き交う人々が根岩越えをしなくて済んだ古道だ。古い切り通しの道幅は1.5m、長さ約20m。改修された切り通しの道は幅が3.8mに広がり、延長が約9m。

奥多摩山里歩き絵図(奥多摩町観光産業課発行)No.7白丸の冊子によると、元禄12年(1699)ごろに巡礼(奥氷川神社神官という説も)の六部と近くに住む1、2人が3年がかりで硅岩を砕いて開通させたものだという。高さ3mもあろうかという大岩に切跡がまざまざとあり、圧倒されるばかりだ。聞くところによると、岩に向けて火を焚き、繰り返し水をかけて岩をもろくした。そこへ石ノミやツルハシを強く打ち立てて岩を砕き続けたものだろうという。目の前の沢に架けていた橋は大正時代まであったが、いまはない。

安全に通行でき、生活変わる

往時のこの地の通行には危険が伴った。東西には険しい地形が阻んでいたことから多くの人々は南北に繋がる尾根筋を主要路にしていた。このため白丸よりも西方の小河内方面や多摩川南岸の人々は五日市方面へ、日原から大丹波に渡る地域の人々は秩父方面へ出るのが一般的だった。

切り通しの開通によって東西に位置する白丸と氷川(奥多摩駅周辺)の往来がしやすくなった。当然、生活が変わり、文化にも大きな変革をもたらしたという。その後も切り通しは何度も改修され、大正12年(1923)には切り通しの真下に数馬隧道が開通した。さらに昭和48年(1973)に現在の青梅街道白丸トンネルができた。

切り通しの白丸寄りに宝暦4年(1754)を刻む供養碑であり道標がある。「従留浦(とずら)村氷川数馬迄道供養」と刻んである。奥多摩町の留浦から氷川、数馬までの道供養をしたものだ。

宝暦時代に建てられた供養碑

天狗祀り、大火防ぎたい思いを形に

切り通しの大岩の上に2つの祠があった。大高神社と小高神社だ。元は修験者の社で、大天狗社、小天狗社といい、火伏神としても信仰されている。何度も大火に見舞われた白丸集落ならではの平安を祈ったのだろう。

石門の先へ行くと、頭上は断崖絶壁。足下も

切り通しを抜けると、そそり立つ大岩が頭上に覆いかぶさり、首筋が痛くなりそうだっだ。切れ落ちた足下には数馬隧道の坑口につながる道路が見えた。頭上も足下も切れ落ちた大岩に畏縮して膝が砕けそうになった。その先には鉄柵があり、行き止まりだった。

岩壁が繰り抜かれて大口を開けた数馬隧道(奥多摩口で)

重量感剥き出しの素掘りの隧道

数馬隧道を見たくて、数馬の切り通しから元来た道を戻った。行きにやり過ごした下りの車道へ入り、青梅街道の奥多摩方面へ向かった。さらに白丸トンネルに入らずに手前にある左手の脇道、青梅街道の旧道を進むと、ここでも口を大きく開けた大岩がそそり立っていた。隧道は長さ10mあまり、幅が5mほど。坑の高さ約3.5m。素掘りの隧道で重量感を露わにしていた。冷たい岩に立つはずがない爪を立ててみた。

岩肌が荒い数馬隧道

多摩川から這い上がる急角度の斜面に暮らす白丸の人々。八方が山また山。こうした地勢が暮らしに影響し、神、仏に拝んで平安を求めてもなお岩を削って新時代の暮らしを今日まで探り続けてきた。その思いと人が編み出した技の歴史に触れて、人が生きる力強さを見た思いがした。

いつもながら風紋を映す穏やかな白丸調整池ダム湖(数馬橋で)