青梅市の即清寺にある山内新四国八十八カ所霊場

即清寺の紹介

即清寺は、山号愛宕山明王院で真言宗豊山派の寺。

 元慶年間(877~885)現喩和尚(げんゆおしょう)の開創。建久年間(1190~1198)に源頼朝が御家人の畠山重忠に命じて諸伽藍を造営、室町時代後期に印融和尚が中興したという。「即清寺」という寺号は、重忠の戒名「勇讃即清大禅定門」に由来しているといわれる。大永年間(1521~27)火災にかかり、後再建され、北条氏照にも信仰され、慶安元年(1648)徳川家光から明王堂領3石の朱印状を拝領した。江戸時代まで明王堂領及び愛宕権現の別当寺であった。明王堂は本尊を「不空羂索(けんさく)大念怒(だいねんど)明王」といい、智証大師の作と伝わる。元禄6年(1692)再興の記録が有り、現在即清寺の本尊である。

 明治31年(1898)の火災の後、明治39年(1906)に庫裏、昭和14年(1939)に本堂と鐘楼、同55年(1980)には山門が再建された。

即清寺入口
即清寺山門
即清寺本堂

山内新四国八十八カ所霊場の由来

江戸時代、安政年間(1854~1860)第33世融慧(ゆうけい)和尚が幕末の動乱の中、平穏な世を願って四国八十八カ所遍路巡礼を行い、各札所の本尊の写しと浄土を頂き、即清寺裏山の愛宕山聖地に四国八十八カ所霊場になぞらえて石碑建立の開創を志された。しかし志半ばの文久2年(1862)病床につき目的達成されることなく世を去った。その後、慶応元年(1865)に先師の意思を継いだ同寺第34世融雅と地元の岩田・野村両氏が世話人に成り、3年の歳月をかけようやく建立された。

この石碑の建立に賛同し寄進した人たち

30ヵ村余りの村々からあり、名前が碑などから分かるだけでも約200人、「村中」の名で共同寄進した人達を含めると恐らく300人近くになると思われる。地域は現青梅市全域・八王子市・あきる野市・日の出町・福生市・武蔵村山市・所沢市や江戸の深川木場・神田明神前・麹町・牛込・南八丁堀といったところの商人からの寄進も見える。寄進の目的は信仰心からでしょうが、それと子や親などの供養を兼ねたと思われるものも数基見受けられる。

寄進された当時の金額は

1004両余りといわれている。石碑の原材は、神奈川県真鶴町の小松石や小田原市の根府川石が半々ぐらいづつ使われていている。石碑は、地元即清寺に持ち込み加工したものではなく、江戸の四谷や保谷市柳沢などで仕立てられ、現地に運んで建立したことがうかがい知れ、そのうち6基には江戸神田・与四郎、また、2基に田無・谷合五雪といった石工の名前が刻まれている。

各霊場になぞらえた碑の形式のほとんどは、頂部に各霊場の本尊(釈迦如来、薬師如来)の種子(梵字)、そしてその下部に本尊、御詠歌、弘法大師像さらに寄進者の名前や建立年号が刻まれている。碑面の文字や弘法大師像を描いた人物については不明だが、数基の碑に「夢香賀斎」と刻まれているが、その人物については不明である。

四国各県の霊場数

徳島県 1番~23番  23霊場

高知県 24番~39番 16霊場

愛媛県 40番~65番 26霊場

香川県 66番~88番 23霊場

山内新四国八十八カ所霊場の石碑の写真を抜粋して紹介します

第一番
第二番
第十番
第二十番
第三十番
第五十番
第六十番
第七十番
第八十番
第八十八番
幸せの鐘
青梅市内の遠望

この石碑に関わった先人の信仰心とその遺業を是非一度巡ってみては如何でしょうか!。

地図

※参考資料

◎青梅市文化財ニュース 第61号

◎即清寺資料

◎wikipedia等インターネット情報