「大明神」 幕府代官 川崎平右衛門

われわれが小さい頃、昭和の時代のテレビ時代劇の登場人物で「代官」といえば、当然に“悪”代官であって、商人ややくざ稼業と結託して、悪辣に庶民を虐げ、ぜいたくな暮らしをしている、何の役割を果たしているのかわからない小役人のことであった。本来「代官」とは、村の生産物から年貢等の税を徴収する権利を有すると同時に、治安や裁判を通じて、人々の安全な暮らしを守るべき人で、江戸時代では、領主が自らすべての領地=村を支配するのは難しいので、大名や旗本等の領主に代わる官僚=「代官」を置いて支配させていた。一般に「代官」といえば、全国に広がる広大な幕府領の代官をさすことが多く、江戸西部の多摩や北関東の幕府領(いわゆる関八州)には、大小多くの代官が配置され、領主=幕府の仕切りも甘くなりがちで、それが各地に「悪代官」やヤクザ者をはびこらせた背景にある。

多摩地区を巡って、各地の歴史や人々の暮らし、生活等に多く接してきたが、表面的な歴史や暮らしを綴っていくだけでなくて、少々お話の要因やきっかけに深く関与した人々を探っていくと、いろいろな「代官」が登場してくる。八王子の大久保長安や、多摩川東遷・玉川上水を担った伊奈忠次・忠治以下の伊奈家一党は、最近では歴史に登場することも多くなってきたが、今日は、その中でも、多摩出身で「大明神」と祀られた代官川崎平右衛門定孝(かわさき へいえもん さだたか)をご紹介したい。

押立村時代

 江戸中期に多摩川のほとりの押立村(現在の府中市押立町)で生まれた川崎平右衛門定孝は、幼名を平兵衛という。生家は、後北条氏家臣出と伝わり、村の組頭や名主を勤める上層農民の一家であった。それなりの資本力もあり、農業以外にも現金収入に繋がる生産も行っていて、商人的感覚も備えていたという。

八代将軍吉宗時代の、平右衛門が青年期に村名主を引き受ける頃、ヴェトナム渡来で将軍上覧の話題を提供して話題になり、その後持て余して浜御殿で飼われていたオス象の糞から、疱瘡や麻疹に効くといわれる粉薬「象洞(ぞうほら)」を作って売り出したいとして町奉行所に申請して売り出したのが平右衛門他であり、併せて本所回向院で見世物にして大いに儲けたといわれる。この時許可を出したのが、時の江戸町奉行の大岡忠相(おおおか ただすけ)だった。

川崎家は、六所宮の神主猿渡氏と姻戚関係にあり、この儲けで、府中六所宮(現在の大國魂神社)の随神門修理を一手に引き受けたといわれる。その後、寛保3年(1743)の棟札が残る六所宮境内の東照宮再建時にも、地元の神道家依田伊織とともに大いに負担をしたとされている。

川崎平右衛門定孝  元禄7年(1694)3月15日~明和4年(1767)6月6日

 

 現在の大國魂神社 随神門 平成23年改築

  

 大國魂神社 東照宮  寛保3年再建のもの現存(府中市有形文化財)

  平右衛門は、多摩川から引き込んでいる用水の普請にも関わり、工事用資材や人手の調達、幕府からの交付金の分配と工事の差配に関わってこの地域の代官上坂安左衛門に差し出した文書が残されており、工事請負にも力量を振るっていた。

 

武蔵野新田世話役

 吉宗の政策の柱に徴税地の拡大、すなわち新田の開発があった。江戸幕府開幕以来開墾は続けられており、この時まで残っていた土地は条件が悪く、武蔵野新田開発は、江戸近郊の原野を畑地として開拓せんとしたものだ。その地域は、国分寺崖線より北、現在の多摩地区北部から埼玉県南西部にかけての武蔵・多摩・新座・高麗にわたる82村である。

享保7年(1722)、全国的な新田開発の奨励を意図した立てられた高札では、これまでの勘定奉行所代官に担われた役割を、当地区は江戸町奉行への所管変更(→関東地方御用)とされ、町奉行であった中山時春と大岡忠相の兼務とされた。翌年には中山が町奉行を辞めたので、寺社奉行も兼務することになった大岡忠相が、吉宗退位の延享2年(1745)まで24年間を務めることとなり、武蔵野新田は大岡忠相とその配下代官により支配されることになる。そのうちでも川崎平右衛門と大きなかかわりを持つのが、町奉行与力から代官になった上坂安左衛門だ。

元文4年(1739)に、栗林・竹林の造成も進めた平右衛門は、褒美の銀貨と苗字帯刀を許された。元文3年の夏・秋、4年の春と凶作が続いたが、新田民救済が叫ばれ、代官上坂と平右衛門は、御救米の配給に奮闘した。

武蔵国内27,000石余と武蔵野新田を支配する上坂は大岡と相談して、元文4年、平右衛門に「武蔵野新田世話役」という役名で、代官手代並み仕事をするようにした。平右衛門は10人扶持、給与の払われる下役2名、事業経費も認められる。ここで、この仕事に専念するため、弟を養子にして家督を譲り、自身は武蔵野に引っ越しする。数か月後には、新田のことはもちろん全て平右衛門に任せるよう、大岡と上坂は決め、そのように本人に言い渡される。

新田世話役としての平右衛門には、村の暮らしを安定させるため多くの仕事が待っていた。労働力確保のため百姓を新田に呼び戻すこと、井戸掘りなどの公共事業、地味の悪い地に適した作物の選定等々……

また、新田の賑わいにと、玉川上水沿いに桜並木を仕立てさせた。玉川上水両岸には、松や杉が植えられていたが、元文から寛保年間に小金井橋を中心とする上下流6kmに桜を植えた。苗は古来名高い山桜の名所の奈良の吉野、日立の桜川等から取り寄せたといわれる。当初は村おこし策だったが、これがやがて「小金井の桜」として全国的な桜の名所となったのは、ご存じの通り。

「冨士三十六景 小金井桜」 by広重

畑養料金と芝地開発料

  もともと多摩地区は、玉川上水が通ってその分流確保で漸く水を確保するものの、畑地が中心となる乾燥地であった。

農業経営の資金を確保するため、幕府も様々な名目で資金を投入したし、歴代の代官もいろいろと知恵を絞ってきた。平右衛門前任の上坂安左衛門は「開発料」の名目で、1,500両を新田外に貸付け、その利子を新田の百姓に下付した。その後を受けた平右衛門は、畑養料と植林のための諸入用金として新たな提案をして、4,060両と上坂の開発料の元金1,500両のうちまだ幕府に返済されていなかった1,300両の計5,360両を元金として、それを他所に年利1割で貸付けて生まれる利金536両を、元文5年(1740)から6年間使用することを認められた。畑養料(はたけやしないりょう)とは畑を維持する費用のことだ。それを助成金として百姓に配布してしまっては根本的な解決にはならないとして、百姓へは貸付金とする。そして返済には畑で生産した雑穀でさせ、代官所の貯穀とした。これは飢饉の際の食料として配られたり、売って諸費用に充てたりした。

また、寛保元年(1741)から実施された芝地開発料も画期的施策であった。未開発地を開墾する際に、とりあえず3年は年貢を免除、食料不足の百姓達を組み合わせて労働力を確保し、開発面積の6割の土地でハトムギ、キビ、アワ、ヒエ等の雑穀を仕付けさせた。助成金の代わりに代官所が安値で一括購入した金肥を渡し、実ったものは百姓の取り分とした。残り4割には、紫草(古代から貴重な紫色の染料として、また薬の材料として大切にされたが、明治時代以降は合成染料の登場により商業的価値を失い、絶滅危惧種となっている)を作らせて代官所返済分とした。そのうえで、6割で作った雑穀を市価より高値で代官所が買い取ってやり、代金には肥料を渡して二毛作の麦を奨励した。

畑養料と芝地開発料の2方策で、代官所に集められる雑穀は年々増え、ある程度たまると市場で売って換金された。これは新田独自の保留資金として、病気や災難時の貸付金としての機能も果たした。寛延2年(1749)に平右衛門が武蔵野新田から離れ、次の代官伊奈半左衛門に引き継いだ時には700余両の貯えになっていたという。

武蔵野新田開発の拠点として、平右衛門は南武蔵野の関野新田(小金井市)と北武蔵野の三角原(さんかくはら、鶴ヶ島市)に陣屋を設けて、それぞれ手代の高木三郎兵衛と矢島藤助をそこに配した。三郎兵衛はこの先、平右衛門の生涯にわたるサポー役となる。

     川崎平右衛門供養塔 

      小金井市関野町 真蔵院 在  (小金井市有形文化財)

 寛政7年(1795)に、関野新田・鈴木新田に入植した農民が平右衛門の徳を偲んで建てたもの。碑には、平右衛門の戒名「霊松院殿忠山道栄居士」と「明和四丁亥天六月初六日」が刻まれている。

この近くに南武蔵野の陣屋がおかれていた。

 

平右衛門橋

      小金井市小金井公園前の国史跡玉川上水を渡る歩道橋

平成27年に、橋架け替えで、公募により川崎平右衛門に 因んで名づけられた。                                                                                                

                          

川崎・伊奈両代官謝恩塔

国分寺市北町 妙法寺 在  (国分寺市重要有形文化財)

養料金の制度で新田が潤ったとして平右衛門と伊奈半左衛門忠宥(ただおき)への感謝で建てられた。

関東大震災で倒壊したが、塔内から「武蔵の新田養料金一件始末書」の文書が発見された。

              

武蔵野御救氏神川崎大明神石祠

 鶴ヶ島市高倉の、北武蔵野新田三角原陣屋跡にある。

正面に「川崎大明神」、右側面に「武蔵野御救氏神」と刻まれている。

寛政10年(1798)に建てられた

 

神明社(浅間社)石碑

 埼玉県坂戸市 神明社内

「川崎大明神碑」と彫られた石碑

平右衛門死後86年の嘉永6年に建てられた

 

 

 

 

支配勘定格仰せつけられる  

 平右衛門の活躍は、新田開発にとどまらず、幕閣に注目される実績を残した。玉川上水の取水元の福生村と、元文5年(1740)大洪水後の多摩川での治水工事だ。玉川上水普請後の寛保2年(1742)の大氾濫でも、青梅の川辺村から川崎の上平間村までの約40kmの新堤工事でも平右衛門が実質指揮をとって、上坂代官見積もりの半分ほどで仕上げた。

新田経営と玉川普請でみせた平右衛門の手腕は大いに評価され、支配勘定格に身分替えされ、3万石支配として幕府に正式に召し抱えられる。給金も10人扶持から、30人扶持に引き上げられる。

延享2年には、大岡忠相は辞意を言上し、関東地方御用の職を解かれ、平右衛門は勘定奉行傘下となり、これ以降大岡と平右衛門の関係は絶たれる。

美濃国本田代官

寛延2年(1749)美濃国の美濃郡代支配下に入り4万石支配となる。輪中のある西美濃から木曽・長良・揖斐三川のデルタ地帯が管轄支配地域となった。翌3年(1750)に、本巣郡の本田陣屋に赴任。宝暦4年(1754)に本田陣屋の第12代目の代官に抜擢され、御目見以上=旗本となり、で、150俵以上の蔵米取となる。長良川とその水系の水利事業では、輪中地帯特有の利害対立を調整して対立の緩和を図り、水利技術を発案して問題の解決に努めた。岐阜県瑞穂市には、3ヶ所の川崎神社がある。

平右衛門は、56歳から67歳までの11年間を過ごし、宝暦10年(1760)に本田陣屋から転出した際には、本田代官所支配下村々の村役人たち、さらには水呑百姓に至るまで、慈父を失ったように嘆き悲しみ、別離を惜しんで見送ったと伝わっている。

岩見国大森代官

宝暦12年(1762)には、島根県大田市の石見国大森代官に就任。実子や甥を連れて同地に赴任。当時衰微していた銀山の回復策として「稼方御主法」を考案し、明和元年(1764)まで年産5、60貫だった灰吹銀量が明和2年から100貫目まで増産された。また、銀山経営に必要な食料や炭、木材などの供給を、銀山周辺の村々を「銀山御囲村」に指定することで安定させた。従来は銀山領の村々へ金を貸し付け、その利銀を山師の救済に充てるという拝借銀制度が行われていたが、利銀取り立てのために村々が困窮する事態に陥っていたため、平右衛門は明和元年(1764)に1村ずつ実態に則した年賦で返済可能な方法を申し付けた。領内の農村部を富ませるために、波根湖(はねこ、島根県太田市久手町)を干拓し新田開発も行なった。

平右衛門没する

 明和4年(1767)には、江戸で幕府の勘定所の監査を行う勘定吟味役になり、嫡男が石見大森代官を引き継ぐ。布衣(ほい、武士の礼装のひとつ)を許され、諸国銀山奉行にも任命される。

6月に、延享2年から住んだ江戸の屋敷(神田上佐柄木町=現在の小川町)で没する。幕末以降まで川崎家はここに住んでいた。

平右衛門の墓所は、生地の府中市押立町の龍光寺にある。

府中市押立町 龍光寺在の川崎平右衛門墓石

 

左=府中市郷土の森博物館にある川崎平右衛門像(平成3年建)

右=府中市郷土かるた      「ききんを 救った川崎平右衛門」

 

 

資料

代官 川崎平右衛門    財)府中文化振興財団、府中郷土の森博物館  府中市郷土の森博物館 展示解説シート               Wikipedia各種、その他