自由民権資料館は、町田を中心に多摩地域・神奈川県の民権運動関係資料を収集・保管し、研究成果を常設展示や企画展示を行っています。2022年11月3日にリニューアル・オープンしました。解説が図解され、展示がよりわかりやすくなっていました!
凌霜館(りょうそうかん)
芝溝街道沿いのこの場所は、かつて「凌霜館」(りょうそうかん)という文武道場がありました。凌霜館とは、民権家村野常右衛門が、明治16年(1883)私財を投じて建てた広さ66平方メートル程の学び屋です。
村野はここに多くの青年弟子を集め、厳しい霜を凌ぐという名の通り、剣術を通して心身を鍛え、同時に自由民権思想の学習を盛んに行いました。
自由民権資料館は、御子孫より寄贈された凌霜館跡地に昭和61年(1986)に町田市により建てられました。
緑豊かな敷地に建てられた土蔵のような外観で、玄関へのアプローチは階段の他、庭の中を横切るスロープもあります。
繭乾燥倉(まゆかんそうぐら)
スロープを歩いていると、庭の中に「繭乾燥倉」というものがありました。
大正末期から昭和初期にかけて、町田地域の農業は養蚕一色と言ってもいいほどでした。これはその頃、町田市下小山田町の薄井氏宅の庭先に建てられていたものです。
繭は生繭で売られてきましたが、養蚕農家で「糸取り」をして、生糸(きいと)として売るとより高値で売ることができました。
繭を年間通して「糸取り」をするには、乾燥繭として保管する必要がありました。そのため、「絹の道」沿いの大きな養蚕農家の庭先には、この型の乾燥倉が建ち並びました。
「絹の道」は「民権の道」とも言われていることから、民権運動の母体となった養蚕農家の姿の一端を伝えるためにここに移築されたそうです。
自由民権運動の高まり
明治維新から10年あまり、未だ国民に政治参加の権利は認められませんでした。憲法も国会も無いという状況の中で一方、租税負担や徴兵の義務は国民に課せられていました。
自由民権運動とは、一方的に義務が強制され、権利の行使が極端に制限された時代に、憲法を創り、国会を開いて国民の政治参加の権利を要求しようとする全国的な政治運動・思想運動として展開しました。
多摩はその拠点となった地域でした。特に地域の富裕な農商民が運動のリーダーとなっていたという点で、大きな特徴をもっていました。
「自由」「民権」が流行語になりグッズも登場
「自由」や「民権」といった語が、人々に新鮮な感動と活力を与え、多くの人々を新しい社会と国家の創造に駆り立てていきました。「自由」という言葉が、流行りいろいろな物にデザインやモチーフとして使われました。
「自由の盃」もその一つです。あきる野市深沢家の土蔵から見つかったもので、盃の底に「自由」の文字が書かれています。「自由」の文字を眺めつつ酒を酌み交わし、熱く語り合う・・そんな光景が思い浮かびます。
車人形の衣装に「自由」が、刺繍されたものが残されています。江戸時代から明治にかけての玩具である「泥めんこ」に「自由」や「板垣」の文字が書かれたものが見られます。岡持ちにも「自由停」と書かれたものがありますが、この時代には「自由停」という名の料亭が全国に見られたそうです。
町田の民権家たち
現在の町田市域をはじめとする多摩地域は、自由民権運動が盛んだった時期、神奈川県に属していました。神奈川県は、武蔵国(武州)6郡と相模国(相州)9郡から成り立っていたので、「武相」(ぶそう)とも呼ばれました。町田市域の民権家たちは、当初、武蔵と相模に分かれていた活動を一つにまとめ上げ、武相を自由党の牙城と呼ばれるまでに成長させました。
石坂昌孝(天保12年(1841)~明治40年(1907))
野津田村出身。初代神奈川県会議長を務めた後、衆議院議員などを歴任する。神奈川県の自由民権運動で中心的な役割を果たしました。
村野常右衛門(安政6年(1859)~昭和2年(1927))
野津田村出身。石坂昌孝の代議士引退後、衆議院議員となり、政党政治家として立件政友会の要職を勤めました。
後年は、実業家としても活躍しました。
細野喜代四郎(安政元年(1854)~大正13年(1924))
小川村出身。連合戸長や神奈川県会議員、南村村長などを歴任しました。武相困民党事件では、負債農民と金融業者との仲裁に奔走しました。
青木正太郎(安政元年(1854)~昭和7年(1932))
相原村出身。南多摩郡の中心的な自由党員として活動しました。神奈川県会議員、衆議院議員を歴任した後、鉄道経営で業績をあげました。
<参考>
武相の民権/町田の民権 町田市立自由民権資料館