青梅市(御嶽駅)からあきる野市(十里木)へなんとも長い停車場線を行く、水清い養沢川と共に

御嶽駅から山頂ケーブル駅

前に都道で一番短い停車場線(羽村停車場線55m)を歩いたが、今回は一番長い十里木御嶽停車場線(15,539ⅿ≪青梅市内5,409ⅿ・あきる野市内10,130ⅿ≫)を歩く。全線歩くと意気込んでみたものの山道で15km以上と長い、御嶽駅から山頂までの都道区間はバスとケーブルカーを利用することにした。

御嶽駅から御嶽山頂までの停車場線(茶色線) 国土地理院地図使用 すべての画像はクリックすると大きく見られます

駅の向かいのバス停から終点ケーブル下までバス停が5つ、約10分の乗車だ。御岳橋を渡って右折し吉野街道に入る、3つ目のバス停中野を左折、沢沿いに登る。平成20年(2008)にカラフルな新車両が導入されて、滝本駅から高低差420m強、延長約1.1㎞を約6分で御岳山駅に着く。ここから歩き始める。

御嶽駅
御岳橋
ケーブルカー

御嶽山頂

午前9時過ぎスタート。登山道は舗装され山頂集落の居住者なら軽車両を使用して登山口から通行できるが、一般車両は進入・通行できないと聞いている。下からの登山道と交わるところから宿坊が並び始める。左折のクランク部を進んだ先を右折して登りの細い道を行く。

山頂部拡大図 丸数字は写真と符合する 国土地理院地図使用
登山道との合流 ❶
クランク部 左の建物を左折 ❷

やがて道は二手に分かれる、右の登りは土産物店から神社へ、店の並びに入る手前、右上の崖に国指定天然記念物の「神代ケヤキ」が幹回り8.2m・樹高30mの威容を見せる。戻って左の日の出・養沢方面に進む。(どちらの道も停車場線)

分岐 左は日の出方面 ❸
神代ケヤキ
土産物店が並ぶ ❹
日の出山への下り ❺

上養沢への道

日の出山に向かって道はなだらかな下りとなっている、「関東ふれあいの道」(関東1都6県をぐるりと一周する長距離自然歩道)でもあり快適に歩ける。武蔵御嶽神社の鳥居があるところで道は三方に分かれる。一番手前の「上養沢バス停」方面が都道でこれを下る。植林の山をジグザグと一気に高度を下げる道を一人、膝に来る。やがて沢の水音が聞こえてくるとふもとが近い。

武蔵御嶽神社の鳥居
養沢への道 左下へ

御岳沢の水が美しい。下ったところからさらに上流部に道が続いているがこちらは林道「御岳線」、がけ崩れのため通行禁止。上養沢のバス停までは約1.7km、養沢川(柿平橋から一級河川養沢川として管理している)はいつも左に澄んでいる。

ふもと登山口への沢道
右上が都道、中央が林道
柿平橋付近
養沢川の流れ

養沢の名は、渓流や沢などが本流に対して北から南向きに流れ込む場合は「陽沢」と言い反対は「陰沢」と言って、語源はこの「陽沢」と言われている。

養沢川に沿って十里木へ

この道を登ると大岳山、御岳山などの山岳信仰の寺社を祀った山があり、修験行者に利用されることの多い道として御岳道と呼ばれ昔からよく知られていた。

上養沢から十里木 オレンジ色の文字はバス停 国土地理院地図使用

大岳沢と御岳沢(養沢川)が合流する地点に養沢神社がある。旧養沢村鎮守で大正4年(1915)に熊野・八幡・日天、門客人(あらはばき)神社を合祀し、新たに創立した。平成21年(2009)には譲葉神社を合祀して現在に至る。

養沢神社

明治22年(1889)養沢村と乙津村が合併して小宮村が創設された。それ以前、養沢村(全村64軒といわれた)では明治元年(1868)の「神仏分離令」による廃仏毀釈の流れの中で、檀家数41の常香寺ほか5寺すべてが廃寺となった。

付近には、昭和36年(1961)に発見された大岳鍾乳洞と昭和45年(1970)に発見された三ツ合鍾乳洞がある。

バス停を神谷、木和田平(きわんだいら)、宝沢(ほうさわ)、海入道(かいにゅうどう・ここは旧御岳道が養沢川の右岸側から渡るところ)と歩き怒田畑(ぬたばた)に向かう。川を挟んで両側が都道で左岸側が旧道となっている。怒田畑は明治16年(1883)に旧養沢寺の本堂を校舎とした養沢学校があった地だ。阿弥陀堂だけが残っている。道を聞いたところ、老夫婦から「お茶でもどうぞ」とお誘いを受けたがお気持ちだけ頂いた。何か気分が良くなった。

怒田畑のバス停
阿弥陀堂
阿弥陀堂前の道路 北側の集落を望む

本須(もとす)、曾利郷橋(そりごうばし)、のバス停を過ぎ、秋川国際マス釣場が見えてくる。ここのバス停から150ⅿほど進むと、馬頭刈山・大岳方面への標識がある。右手のこの方向に入る、急な坂道が待っていた、登りが続く。旧乙津村軍道(ぐんどう)の明光院にやっと着いた。

急な登り
明光院

明治6年(1873)開設の「日新学舎」の仮校舎があったのが明光院だ。明治8年(1875)には「日新学校」と改称している。当時の学校は、校舎の建設から維持運営まで村民の力と協力で成り立っていた。奥まった村で時代に遅れまいとする思いは強かったと思うが、並大抵ではなかったと思われる。

急坂を戻り標識から300ⅿほど歩くと軍道のバス停近くに旧「小宮小学校」がある。「日新学校」が明治14年(1881)に移転したところだが、平成24年(2012)に138年の歴史に幕を下ろした。少子化の波は容赦ない。現在は、「小宮ふるさと自然体験学校」となっている。

小宮ふるさと自然体験学校        グーグルマップより

ここ軍道は、手漉きの伝統工芸和紙「軍道紙」(生活用具≪障子紙や衣類の包装≫に適した紙)が有名だったが衰退し、昭和42年(1967)生産業者は廃絶した。現在、技術伝承者からなる軍道紙保存会が普及活動を行っている。

札立(ふだあて)、落合橋のバス停を過ぎれば、この道も終わる。大正12年(1923)頃できた落合橋を通る新道が十里木の交差点で檜原街道と交わる。十里木は川瀬のトドロキから起こった地名と言われ、「十十六木」が「十十里木」になりさらに省略されて「十里木」となったと推測されている。

十里木の交差点 左右は檜原街道
落合橋から養沢川の合流部を見る
交差点にある道標
古甲州道、御岳道などの古道地図 「五日市町史」を使用
追分からの御岳道地図 「五日市の古道と地名」を使用

長く歩いた後のお楽しみは、落合橋付近の「一穂の刺身こんにゃく」を求め、地酒の「喜正」でゆっくりしよう。