額縁の車窓、ホームは2階席
御嶽駅を出た青梅線下り電車は、隣の川井駅まで4㎞あまりの区間で蛇行をくり返して、さらに30mほど登る。進行方向右手に木々が生い茂る山の斜面が迫る。左手の車窓は木々の間に見え隠れする青梅街道がすぐ下に。さらに多摩川が切れ落ちている。大雨になれば、電車が運転を見合わせる区間でもあることを実感する。
電車が左転回するあたりに差し掛かると、川井駅が近い。左手前方の車窓に広がる光景をいまか、今かと車内で待つ。滑り込んだホーム南にダイナミックに両腕を広げるような奥多摩大橋を見て楽しむためにきょうは来た。橋は多摩川のV字谷をまたいでいる。迫る山々の緑に映えるメタリックで優美な斜張橋が期待通りに浮き立っていた。奥多摩大橋が主役の舞台なら、川井駅ホームは2階席だ。そのホームにあるベンチに腰掛けて舞台を見る。多摩川の流水部分に橋脚はない。増水による影響を極力避ける工法が見て取れる分、ひとたび増水すると、どれほどの威力か。想像するだけで空恐ろしい。ホームベンチで数十分、夢想した。駅周辺には奥多摩大橋のほか、いくつかの橋がある。それらを楽しもうと駅を離れた。
駅頭にあふれる人情
駅改札前の商店だったと思われる家の玄関口に「カサあります」「ボランティア袋あります」と手書きした案内板があった。雨天の時に地元の人向けに、山に登る人たちにゴミを持ち帰ってとお願いをアピールしている。登山者にはクマに注意をと呼び掛ける。家の前にあったベンチにはランドセルが5つ、無造作に置いてあった。下校する子供たちは、電車待ちの間、駅構内や店頭前を走り回り、その歓喜の声が山間に響き渡っていた。
私財投じて橋架ける
坂道を下りたら、青梅街道に出た。ここに大正橋が架かっている。北西にある川苔山(1363.7m)の裏手を源にしている大丹波川が多摩川に入り込んでいる地点だ。大正橋から大丹波川を見下ろすと、大岩を噛んで流れ落ちる水が澄んでいた。
大正橋が架かったのは江戸時代後期の文化11年(1814)。当時の川井村の名主だった中村庄蔵が私財を投じて「大橋」とも「川井乃橋」とも呼ばれた橋を架けた。それ以前は大丹波川に丸太や板を渡していたが、大雨が降るたびに流されていた。
風土記稿や名所図会に
庄蔵が架けた橋は、山梨県大月市にある「猿橋」に似た工法の「肘木(ひじき)橋」だった。社寺の軒部分の造りに似ている組工法で造られていた。橋の長さ7間(約14.5m)、幅4尺(約1.2m)の木橋だ。「新編武蔵風土記稿」や「武蔵名所図会」などに絵入りで掲載されていた。明治時代まで20年ごとに架け替えていた。その時代の橋台がいまも橋の下流側にあるといわれるが、惜しくも木々の葉で覆われていて見定められなかった。
架け替えごとに強化
大正時代に入って人々の往来や物流が盛んになり、「大橋」を大正8年(1919)に木と鉄を使ったトラス橋に架け替えた。長さ34.5m、幅3.6mと大きくした。橋台には赤レンガと御影石を使用した。強固で幅広い橋に架け替えただけでなく、美しい橋だったという。これを機に「大正橋」と名を変えた。
時代と共に、さらに交通量の増大化と橋の老朽化によって昭和11年(1936)に長さを3m余り延ばして37.7m、幅も倍ほどに広くした7mの鋼プレートアーチ式にした。現在のコンクリートアーチ式になったのは昭和54年(1979)。長さを39.3mに延ばし、幅も11.9mに拡幅したほか、歴史を重んじて大正時代の橋台のイメージを中心にして化粧直ししたという。橋のたもとに文化11年と刻まれた大橋供養塔と庚申塔があり、時代を物語っていた。
イメージ変わり力感際立つ
大正橋と直角の位置にあるのが奥多摩大橋だ。車窓からの眺めは額縁入りのスマートな橋のイメージだったのと違い、駅のホームから見た橋は切れ落ちた山容を静かに食い止める風情。しかし、大正橋の詰めから見る奥多摩大橋は、巨大であり、天を突く塔から延びる斜張線が橋の重さ(総重量1983t)を一手に受け止めて、力感を際立たせており、重量感があふれていた。
水澄み、心地よい涼風
平成8年(1996)に完成した奥多摩大橋は長さ265m、幅20m。水流を限りなく受けないように橋脚の間を長く取って159m余りにしている。多摩川左岸の青梅街道と右岸の吉野街道を結ぶ橋だ。橋上に立つ。谷風と川風が下流に向かって吹いている。涼風だ。
橋上から多摩川の流れを見る。上流の北西から下ってきた多摩川は、橋を境に北東へ向きを変えている。S字型に蛇行して川井駅前の青梅街道に最接近している。水面を見る。水は澄んでいる。流れが穏やかだ。河原でキャンプをする人が小さい。高くてめまいしそうだ。車が行き交うごとに橋が揺れているのかと疑いたくなるほど足下が覚束ない。
多摩川に架かる斜張橋は下流の太子橋、府中四谷橋、是政橋があり、どれも市街地で泰然としている光景と違い、奥多摩大橋は急峻な山に挟まれて醸し出すダイナミックさには及ばない。こじんまりした青梅市の鮎美橋ともスケールが違う。奥多摩大橋の存在感は大きい。
大地震で基礎崩れた吊り橋
奥多摩大橋の200mほど下流には水面に近い高さに梅沢橋が架かっている。多摩川の対岸の梅沢地区に渡れる人道橋の吊り橋だったが、平成23年(2011)3月の東日本大震災で右岸の橋脚付近の基礎部分が崩れて以来、修復されないまま、通行不能になっている。
集落と一体化した大橋
多摩川左岸の高台にある竹の花地区から奥多摩大橋を見下ろした。東を除く三方を山に囲まれた多摩川。そのV字谷の底をうねる多摩川に沿って民家と畑が点在する。静かな佇まいの中に奥多摩大橋が横たわっていた。まさに川井地区のジオラマを見ているようだった。
この地区に長く暮らす人は言った。「奥多摩大橋が出来て四半世紀。車の移動がし易くなった。それまでは3㎞下流の御岳橋、上流2㎞ほどのところにある古里(こり)の万世橋を迂回しなければ、対岸の家などに行けなかった。いまは、ヒョイと渡れる」
大日如来祀る曹洞宗の寺
竹の花地区を西へ向かった。山間の集落といった趣が濃い沿道だ。石垣の上に六地蔵と馬頭観音がある蟠竜院に寄った。鐘楼と本殿が静かに佇む。開基は不詳だが、開山は海禅寺4世芸室慈俊大和尚と伝わる。曹洞宗のお寺で大日如来を本尊にしているという。大日如来は真言宗が最高仏としているが、曹洞宗の寺院で本尊とするのは珍しい。本堂の奥に神明宮があった。大日如来の化身とする天照大神を神明様としていることから蟠竜院の山号を天照山と名付けたのもうなずけるか。
野外劇場の神社境内
山間の一本道がT字路になった石垣の上に4体の地蔵があった。その脇の階段を昇った。川井八雲神社だった。江戸時代に牛頭天王社を指す「てんのうさま」と呼ばれた歴史ある神社だ。祭神の須佐之男命はヤマタノオロチで知られ、洪水を大蛇に擬人化して、これを制した神ではないかといわれる。それを祀っている。
境内の神楽殿は間口12.6m、奥行き5.4mの懸造りだ。この舞台の床下をくぐって参道の階段を昇ると、さらに階段が続き、両脇の6段の石垣が観覧席になっている。野外劇場だ。かつては村芝居などを上演した。例年5月5日の祭礼には獅子舞が奉納される。神楽殿と共に農村舞台の代表的建造物として昭和52年(1977)に東京都有形文化財に指定された。
忽然と出現する2本の橋
境内を出て坂道を下ると、青梅街道に出た。左手の青梅寄りに歩くと、歩道に2つの小さい橋があった。奥多摩寄りの橋が八雲橋、青梅寄りが川井橋。ともに長さ3mあるかなし。どちらも昭和9年(1934)建造。車道には橋がなく、見慣れない光景を眺めていると、地元の人が通りかかった。「ここには、いまも八雲沢と川井川があるんだよ。橋は、元あった地点より少し東に移したがね」と話してくれた。
国道で日本一短い橋
奥多摩大橋を右手にやり過ごして大正橋を渡り、青梅街道を青梅寄りへ400mほど行った地点に『国道で日本一短い橋』があると聞いて向かった。途中に神塚(かづか)神社がある。境域は、青梅線が敷かれた時に削られ、こじんまりしているが、元は白砂が堆積しており、これを由縁にしたといわれる祭神「塩土翁命」を祀る。神社には寛永11年(1634)の板札がある。
神塚神社から『国道で日本一短い橋』森越橋まで、すぐだった。昭和13年(1938)9月に架けられた。長さ約3m。車で走っていると、見過ごしてしまう、かわいい橋だ。頭上を青梅線が通る。その斜面の細い沢から絶えず水がしたたり落ちていた。短い橋といえどもコンクリート製で、アーチ形の欄干が施してある。しかも橋げたの下にも小さいアーチを施した二段重ねだ。いまは上り車線側が鉄パイプで補強されている。
都道から国道に昇格して
鋼やコンクリートの永久橋が造られ始めた昭和初期に、なぜ、ここに建造したのか? 森越橋が架けられた昭和13年は、小河内貯水池(奥多摩湖)の建設工事が始まった年であり、建設工事用の資材を運ぶ必要から道路を整備した一環だったのだろう。
青梅街道は元々、都道であり、昭和57年(1982)に青梅以西の青梅街道が国道に昇格して411号となって以来、森越橋は『国道で日本一短い橋』と呼ばれるようになった。
川井界隈にはアーチ形の橋が目に付く。青梅街道に架かる神塚神社近くの神塚橋、大正橋、森越橋。川井駅の奥多摩寄りの大丹波橋梁もアーチ橋だ。建造には手間と時間がかかる製法だが、きっと腕によりをかける先人の職人気質と、おしゃれと遊び心の表れだろうか。その面持ちを受け入れた寛容な人々の心に和むものを感じる。‟それに比べて、いまの世は……”と、こぼしたくなる言葉を飲み込んだ。