野の花、山の花に迎えられて桜尽くしの青渭神社へ~沢井駅前の顔

楼閣が上がる沢井駅

鐘楼いただく駅の跨線橋

前回の「軍畑駅前の顔」から続く。青梅線軍畑駅下の青梅街道から分けた青渭通りを歩くこと1.5㎞ほど。西隣の沢井駅の跨線橋が見えてから塚瀬踏切を渡った。目についたのは跨線橋の屋根にもう一つお堂型の屋根が載っていることだ。坂下の多摩川に架かる楓橋を渡った右岸にある寒山寺を模したものだろうか。

多摩川・楓橋のたもとにある寒山寺

寒山寺は明治18年(1885)書家・田口米舫さんが中国へ遊学した折に姑蘇城外(江蘇省蘇州)の寒山寺を訪れた。この時に主僧の祖信師が日本寒山寺の建立を願って米舫さんに釈迦如来仏の木像一体を託した。その意を汲んだ「澤乃井」蔵元の小澤酒造当主・小澤太平(太兵衛)さんが尽力して昭和5年(1930)に落慶したものだ。いつでも誰でも撞ける鐘は御岳渓谷に響いている。

特産品アピールする児童のポスター

沢井駅南口のソメイヨシノとシダレザクラに吸い寄せられた。桜の背後にある多摩川対岸の杉山が濃緑の幕代わりになって桜が浮き立っていた。山笑う時季だが、この辺りの山は杉で覆われているところが多く、いわば黒い山だ。その分、桜が浮き立つ。

沢井駅前に咲き誇る桜(3月31日撮影)

青渭通りは南斜面を縫っており、陽射しをいっぱいに受けて歩く身が軽い。民家の間に畑がぽつぽつとあって肥沃な土地なのだ。沢井はユズの里だ。樹齢130年というユズの古木を剪定している人がいた。「うちでは一番古い木だよ」と言っていた。そういえば、ユズ、プラム、ワサビ漬けの特産3選を地元の青梅六小6年生(令和3年度)がポスターにして駅構内に掲示してアピールしていた。

日当たり良好な段丘に縄文人

肥沃な地を象徴する遺跡がある。沢井駅中心に東西に長い多摩川の河岸段丘を縄文人は見逃さなかった。縄文人は7千年前の縄文早期にすでにここで暮らしていた。縄文前期(約5千年前)や中期(約4千年前)の竪穴住居跡が出土した大平遺跡から石斧や土器類、墓らしいものも見つかっている。

垂涎の本醸造生原酒

沢井駅から多摩川の縁までの落差約40mの急坂を下るか、どうか、迷った。御岳渓谷への人出につられるというより、「澤乃井」で知られる小澤酒造のガーデンで小分け販売している本醸造生原酒(アルコール19度以上、300ml入り。700円)に久々にあり付きたいと思った。日本酒の甘味と辛味の絡み具合がまろやかで、さらに生酒の馥郁さを舌が覚えている。その味を堪能したかったが、向かう先があると気持ちを振り切って足を西へ向けた。

青渭通りから見え隠れする御岳山(929m。左)の宿坊やケーブルカーの御岳山駅(沢井踏切で)

沢井駅辺りの青渭通りは青梅線の南側を通るが、中風呂踏切を渡って北側に出たところでガレージに野の花などの写真が置いてあった。写真が趣味で庭先の花などを撮っているというご主人がいた。

現役を引退して15年ほどになり、この2、3年前からシイタケ栽培に夢中になっている。原木を800本ほどに増やした。ふっくらとしたシイタケが瑞々しく見えて買い求めた。帰宅して早速、網焼きした。塩焼き、みそ焼き、しょうゆをまぶして焼いた。口中に汁が広がった。ビールが喉を走る……。

このご主人は、南斜面の日当たりの良さを誇った。「御岳渓谷の遊歩道は、冬場、日陰になって遊歩道が凍るから人通りが途絶える。その時期、この青渭通りを歩く人が結構いるよ」

青渭通りと並行する青梅線。この坂下に青梅街道が通り、多摩川が流れる(鶴石踏切付近で)

“花の参道” 色とりどり

さらに西へ足を進めた。道は、これから行く青渭神社に通じる“花の参道”だった。梅の開花期から数回歩いた。時季によって花は色映えを変えるが、ナノハナの群落、タンポポ、ハナニラ、庭先にミツバツツジ、ミツマタ、ノイバラ、チューリップなど色とりどりの野山の花や園芸の花が切れ目なく続いた。

タチツボスミレ(3月31日撮影)

サンシュユ(3月31日撮影)

バーベナ(3月31日撮影)

ヒメオドリコソウ(4月10日撮影)

ツルニチニチソウ(4月10日撮影)

コブシ(4月10日撮影)

民家裏手で咲く一本桜が浮き立っていた(4月10日撮影)

レンギョウ(4月10日撮影)

ハクモクレン(3月31日撮影)

桃の花だろうか。奥の杉の幕に花が際立つ(4月10日)

斜面に広がるナノハナの群落(3月31日撮影)

ここでもナノハナとシダレザクラと杉、竹の色の対比が絶妙だった(4月10日撮影)

ミツバツツジ(4月10日撮影)

絵に描いたような野道の艶やかさに見惚れた(4月10日撮影)

シャガ(4月10日撮影)

鶴石踏切の手前で分かれる道の急坂を登って、途中で振り向いた。眼下に青梅線や来た道が帯を成していた。多摩川が足下に近すぎて水面こそ見えないが、川沿いに植わる桜並木と青梅街道も太かった。その風景を大きくしていたのは足下の斜面に広がる畑だ。

坂道を登り切って三差路を左折すると……ミツバツツジを配して桜、さくら、サクラが一枚絵になって、野道は青渭神社への参道を具現化した仙郷だった。この道の西方に昭和40年(1965)に沢井三丁目自治会が青渭農道を敷く前は、この道が地元の人たちのメインルートであり、裏参道でもあった。神社の鳥居前でも桜の房がお辞儀をするように下がっていた。境内では数本の桜が主役を務めていた。

畑のそばに建つ祠にも地元の人々の気持ちを見る思いがした

桜舞う厳かな延喜式内社

人の気配がない青渭神社の境内は、その分、厳かさを感じた。平安時代に醍醐天皇が律令格の細目を集成した法典の延喜式内社(論社)だ。創建年代は不詳だが、崇神天皇(第10代。実在性を問う説も)は死者多数が出た流行の悪病退散を祈願した。この時に神地(かむどころ)・神戸(かんべ)を賜って官祭になったという。

青渭神社境内の邪気を払うように咲いていた鳥居前の桜(4月10日撮影)

明治初めに惣岳山上から里へ

青渭神社の社殿は天慶年間(平安時代の938~947年)に源経基が再建したと伝わる。いまの多摩西部域を拠点に一帯を支配していた豪族・三田氏はじめ、北条氏、徳川氏も崇敬したという。三田氏の紋「三つ巴」が拝殿前で金色に輝いていた。

神社の背後にある惣岳山(756m)山頂に本社(奥宮)がある。奥宮は里宮から這い上がる林道の終点からさらに山道を登る。1時間がかりだ。高水山(759m)から延びる稜線にある惣岳山頂の平坦な広場に一間社流造の本殿が建つ。かつては拝殿などのほか、末社を含めて27社を置いていた。弘化2年(1845)に多摩川沿い26ヶ村の人々の浄財で再建したという。明治6年(1873)に郷社に列格し、明治初めに山麓の現在地に里宮・遥拝殿を置き、ここで例祭(4月18日に近い日曜日)など祭事を行っている。

「惣岳さま」と親しまれ

青渭神社は、古くは青渭明神といわれ、山頂近くに真名井という名の年中涸れない霊泉がある。この泉の真名井(青渭の井)を青渭神社の名前の由来にしている。地元では神社を惣岳大明神とも、惣岳さまとも呼んで崇めている。

桜に彩られた青渭神社拝殿前(4月10日撮影)

境内は桜尽くしだった(3月31日撮影)

目線を合わせた親子の狛犬が愛らしい(青渭神社で)

創建からの神体、無事に守る

祭神は大国主命。昭和9年(1934)に拝殿を改築、35年に社殿を改修した。その折に惣岳山上の真名井神社を除き末社26社を本殿に合祀した(神社名細帳で確認できるのは愛宕神社など25社だという)。古い昔には度々、火災に遭い、社記や古文書を焼失したが、創建以来のご神体に被害が及ぶことなく、今日まで守り抜いているという。

延喜式の青渭神社の論社は、多摩地域ではほかに調布・深大寺(社前に大池)と稲城市長沼(青い沼)にある。

大沢に架かる青渭通りの青渭橋と青梅線ガードの坂下に一の鳥居がある

青渭農道にあったお地蔵さん

帰り道は、里宮境内前の鳥居を出て直進して青渭農道を大沢沿いに下った。青渭橋(橋の下の急坂を下って青梅線ガードをくぐった先に一の鳥居がある。その下が青梅街道)で右折して道なりに進むと、山里風情がさらに濃くなる。慈恩寺前で左折して手打ちそばの店「玉川屋」前を通り、青梅街道に出て右折すると御嶽駅だ。

日本むかし話に出てきそうな茅葺き屋根の玉川屋