畠山重忠〜重忠の誕生と頼朝との出会い〜

畠山重忠公の産湯

埼玉県深谷市畠山にある重忠の館跡を整備した畠山重忠公史跡公園に重忠と家臣の墓と言われている五輪塔の他に重忠の産湯の井戸と伝えられてる井戸跡があります。

重忠公産湯の井戸

仁安2年(1167)、重忠が3歳の時、平清盛(たいらのきよもり)が太政大臣(だじょうだいじん)に任ぜられ栄華を極めることになります。畠山重忠(はたけやましげただ)は平氏の全盛期に平氏一族の子として成長したのでした。

頼朝の挙兵 治承4年(1180)

治承4年(1180)8月17日、源義朝(みなもとのよしとも)の子、源頼朝(みなもとのよりとも)が平氏打倒を掲げて挙兵したため、各地の武士は再び平氏・源氏いずれに味方するか判断を迫られました。『平家物語』によれば、こと時、重忠の父・重能(しげよし)は平氏の武将として京都の御所の警護役である京都大番役(きょうとおおばんやく)を務めるために上洛中で、畠山館の留守は重忠に任されていました。

重忠、頼朝側の三浦氏と戦う 治承4年(1180)

秩父平氏の系譜をひき、平氏に仕えてきた畠山氏の当然の選択として、重忠は平氏に味方することにします。秩父一族で武蔵国留守所総検校職(むさしのくにるすどころそうけんぎょうしき)として武蔵国の武士団に指揮権を持つ河越氏らとともに、頼朝に味方した相模国の三浦氏の居城・衣笠城(きぬがさじょう 横須賀市)を8月26日に攻撃し、落城させました。この時、重忠は17歳でした。なお、三浦氏は重忠の母の実家であり、この戦いで重忠の祖父にあたる三浦義明(みうらよしあき)は河越重頼(かわごえしげより)や江戸重長(えどしげなが)らに攻められ、自害に追い込まれました。

頼朝の勢力の回復 治承4年(1180)

頼朝は8月23,24日の相模国石橋山の合戦に敗れ、海路安房国に逃れましたが、相模国と安房・上総・下総の武士団が頼朝に味方したため、治承4年10月には武蔵国に入るまで勢力を回復します。頼朝は、武蔵国に勢力をもつ秩父一族の江戸重長に頼朝への帰属を勧告します。

頼朝との重忠の出会い 治承4年(1180)

『吾妻鏡』によれば、治承4年10月4日長井の渡しにおいて、秩父一族の江戸重長や河越重頼とともに、重忠は頼朝に従うことになります。『源平盛衰記(げんぺいじょうすいき)』には、この時、頼朝と重忠の間で、重忠が源氏方に加わることになれば都にいる平氏方の父の重能や叔父の小山田有重(おやまだありしげ)と敵対する関係になること、頼朝に味方する三浦氏を討った理由、白旗は源氏の指す旗であるのになぜ平氏方の重忠が指していたのかなどの問答があったことが記されています。

頼朝の鎌倉入りで重忠が先陣 治承4年(1180)

源頼朝は治承4年(1180)10月6日、畠山重忠ら秩父一族を従え、父祖ゆかりの地、相模国鎌倉に入りました。この時、重忠は名誉ある軍勢の先陣をつとめました。重忠が先陣をつとめることになった理由はふたつ考えられます。ひとつは、二日前の長井の渡しにあける問答の結果からです。『源平盛衰記』によれば、重忠が白旗を指していたことを頼朝がとがめたとき、重忠は「白旗はわが先祖武綱(たけつな)が源義家(みなもとのよしいえ)から賜ったもので、この旗をかかげて先陣を先陣をつとめ、清原武衡(きよはらたけひら)らを攻め滅ぼした由緒ある旗であり、白旗を指すことは当家の吉例である。また、源氏のためには縁起のよい旗である」と答えて、頼朝を感激させたと記されています。このことから頼朝は吉例をもとにして重忠を先陣にしたと思われます。もうひとつは、平氏方の武士が頼朝の傘下に入ったことを宣伝する意味があったと思われます。重忠が先陣を命ぜられたと聞いた多くの武蔵国・相模国の者たちが頼朝の軍勢に加わったといわれています。

こうして東国をまとめた頼朝は、いよいよ西国の平氏打倒に向けて動き出していくのです。