先般は「大國魂神社 一宮と三宮」(2月24日)の表題で始めて、律令制下での、「武蔵の国」の祭祀・行政・司法・軍事を総統括する国司の着任最初の仕事が国内有力神社への参拝であることから、広域の管轄地域内神社参拝をまとめて一社で済ませることが出来るように各神社の「総社」という仕組みが作られた。その総社が、旧武蔵の国衙のある府中の大國魂神社に設けられたことをお話しした。
府中 武蔵国総社 大國魂神社
その調査・下調べの流れの中で、次のような事柄が伝承されていることに気が付いた。
1. 出雲系の神社群
① 大國魂神社は、景行天皇(第12代)時代に、大國魂大神がこの地に降臨し、それを卿民が祀った社が起源であり、その後の出雲臣の祖神天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔が、武蔵国造に任ぜられて、以来代々祭務を伝承したという。天穂日命とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)と須佐之男命(=素戔嗚命、すさのおのみこと)の姉弟が、御子神生みを競った時に生じた男神の一柱で高天原の神々が地上世界を平定しようとしたときに、出雲への交渉の使いに派遣されたが、相手の出雲支配者大国主命の側についてしまったという神である。「因幡の白兎」でご存じの大国主命は、須佐之男命が八岐大蛇を退治して助けた奇稲田姫(くしなだひめ)と結婚して(古事記によれば)生まれた大己貴神=大国主命、或いは(日本書紀によれば)生まれた子の子孫であり、少名彦名神や大物主神とともに葦原中国=地上世界の国作りをしたが、後に高天原の天照大神に国を譲って隠れたとされている。
「牛頭天王 稲田姫」歌川国輝 画
( 牛頭天皇 = 須佐之男命 )
島根県 出雲大社の大国主命
② 武蔵国の一宮である(大宮)氷川神社の主祭神は、須佐之男命・稲田姫命(=奇稲田姫)、大己貴命(おおなむちのみこと=大国主神)の3神で、いずれも出雲系。
埼玉 (大宮)氷川神社 拝殿
③ そこで、一度訪ねてみようと思っていた、関東最古の神社といわれる埼玉県久喜市の鷲宮神社(わしのみやじんじゃ)へ足を延ばしてみた。当神社は、出雲族の草創に関わる関東最古の大社といわれる。神代の時代に、天穂日命とその御子の武夷鳥宮(たけひなとりのみこと)とが、部族等を率いて大己貴命をお祀りしたのにはじまり、次に天穂日命の霊徳を崇めて別宮を建てたのが、現在の鷲宮神社本殿であるという。日本最古の大社・お酉さまの本社と称せられるこの鷲宮神社の主祭神は、先ほど登場した天穂日命・武夷鳥命・大己貴命の3神であり、合同祭神9神に中に須佐之男命と天照大神も現れる。天穂日命・武夷鳥命は、出雲国造・无邪志(むさし→武蔵)国造他の祖神であるとされている。
埼玉県久喜市 関東最古の神社 鷲宮神社 拝殿
2. 武蔵の国
東京都の多摩地区は、下図の通り、律令制下の東国の大国である武蔵国の南部の一部である。武蔵の国は、21の郡を有した大国で、現在の東京都・埼玉県・横浜市・川崎市の大部分にあたっている。
「武蔵」の名を由来を、本居宣長は、「武蔵国は駿河・相模とともに佐斯(さし)国があり、のち身狭上(むさがみ)下佐斯(しもさし)に分かれて、これが転訛して相模・武蔵になった」といい、賀茂真淵は「身狭(むさ)国があり、のち身狭上(むさがみ)と身狭下(むさしも)に分かれて相模、武蔵になった」と唱えている。
3. 日本各地の神々たち
出雲から遠く離れた東国に、なぜかくも出雲系の神様たちが集まられたのか、集められたのか?
現在、多くの神社では日本神話に登場する神を祭神としているが、日本神話の神と同神であるとしている。もともと神道は、海・山・川などを畏敬の対象として自然崇拝することから始まったものであり、初期の神社では、そこに祀ってある神に特に名はないか、不詳であったようだ。記紀・万葉集でも、祭神の名が記されるのは伊勢神宮や住吉大社などのごく僅かであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座した土地や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていたという。延喜式神名帳でも、ほとんどの神社は社名しかつけられていなかった。その後、氏神・地主神・岐の神(くなどのかみ=外からの外敵や悪霊の侵入を防ぐ神)としての性格だけでなく、陽の神・水の神・木の神などの具体的な神徳・機能が付加されるようになった。
それら神の機能面の徳を称えるにあたり、その神を人格神化していく過程で出身地をどこに設定するかといえば、自分たちの・親たちの・祖父母たちの・ご先祖たちの馴染み親しんだ安心できる、いわばふるさと、心のふるさとに求めることになるのが当然といえるのではないだろうか? となると、神社の主祭神には、その地の信者たちに穏やかで心地よく受け入れられる、ご先祖以来の誕生地を設定していくのが成り行きであり、その土地の人々の懐かしく心地よい故郷を体現できる祭神を祀るようになり、神社の祭神の出身・活躍地が地域住民のふるさとの地に同化されるようになっていくと推測できると言えるのではなかろうか? 日本各地で祀られている神々の出身地を訪ねれば、その地の住民たちの先祖伝来の旧来の生活地を推定することのできる証拠が明示出来るとの意見が容認されるように思う。
4. 日本の神々の出身地区分け
前述通り、日本の神々は、日本神話に同定されていく中で、蝦夷・東北・関東のたとえばアラハバキ神等々の、記紀に登場しない神々を除けば、日本神話誕生時に現れる神々にその遠祖を求められるので、神々の出身地といわれる地域は、必然的に絞られてくる。神々の出身地区分については、古来より下記の通りに、即ち、大きくは天孫族からの大和政権系の天津神(あまつかみ)と、葦原中国支配して国譲りした出雲系の国津神(くにつかみ)に大きく分けられている。漢字で天津神を「天神」、国津神を「地祇(ちぎ)」とも言い、併せて「天神地祇」略して「神祇」ともいう。天津神の「津」は、現代語で「の」の意味の古代語である。
① 天津神
天津神は、天照大神を主祭神とする高天原にいる神々、または高天原から天下りした神々の総称である。記紀によれば、高天原の神の子孫である神武天皇が、日向(九州?)の地から、瀬戸内を通って、東上し、熊野を経由して、……??…やがて奈良県の大和を中心とする大和王権が出来上がり(諸説あるのはご存じの通り)、大和王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が、天津神になったものと考えられる。大王を頂点とする身分秩序・徴税体系を整え、国造制によって地方組織の支配を強化し、6世紀末からは政権と呼ぶにふさわしい内容を整え、次の律令制的中央政権へと移行していく。その日本各地の国造に派遣されて、その地の支配能力を期待される一族の長が、どの地域の出身であったのだろう。派遣地とその部族長の因縁が、どういうものであったのだろうか?
天岩戸神社の天照大神像
天津神系は、高皇産霊尊(たかみむすびのかみ)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、天照大神、邇邇芸命(ににぎのみこと=天照大御神の孫、宮崎の高千穂臨した)etc。
② 国津神
一方、本来この国に在地した神々を指すのが、国津神である。
古代の出雲地方に存在した出雲族という種族があり、出雲神話の担い手として想定されている。出雲地方からは、大量の銅剣・銅鐸が出土した遺跡があり、実際に古代に何らかの勢力が存在したと言われている。朝鮮半島とも近く、往来が昔からあり、さらには新羅・百済・高麗等勢力の騒乱が続いて、それを逃れる氏族が日本海を渡り、製鉄技術が伝えられて勢力を強化した。やがては、天皇家の血筋にも入っていく。西暦794年に平安京に遷都した桓武天皇の生母は、高野新笠(たかのにいがさ)という百済系渡来人という。
出雲族と呼称される家系としては、須佐之男命の子孫で、地祇系に属する一族と、かの天穂日命の子孫で天神系・天孫系に属する一族の2つがあり、前者は出雲の国の国譲りの一族、後者は熊野大社と出雲大社(古くは杵築大社)をつかさどった出雲国造の家系とする。大国主命は、当然に国津神系である。
武蔵の国は、出雲系の氏族、国津神を信仰する部族が集まって、or 集められて、またさらに高麗、高麗川、狛江、志木(←新羅)等朝鮮半島からの流入者が移住してきて、形成されていった律令制下の国であったように思えてくるが……
はてさて、さらに調べてご報告することにさせていただきたい。
参考資料 大國魂神社パンフ、氷川神社パンフ、鷲宮神社パンフ、小平市市立図書館HP、Wikipedia各種いろいろ