狛江水害を教訓に活かした多摩川の堰~ニヶ領宿河原堰

先のブログで、多摩川に設置されている主要な8基の堰のうち、最も河口寄りにある調布取水堰の特色や役割について触れてみました。今回は、調布取水堰の次に河口に近いニヶ領宿河原(にかりょうしゅくがわら)堰について述べてみたいと思います。

ニヶ領宿河原堰の誕生とニヶ領用水

ニヶ領宿河原堰の誕生は、江戸時代の初期、慶長16年(1611)に開削されたニヶ領用水と深い関り合いがあります。
ニヶ領用水は、徳川家康の命により、幕府代官小泉次大夫(じだゆう)が新たな田地開拓のために、当時の稲毛領川崎領の2つ(ニヶ)の領地(両領地を合わせると現在の川崎市のほぼ全域に相当)へ多摩川の水を引くために作った全長32㎞に及ぶ規模の大きな農業用水です。

京浜河川事務所 ニヶ領用水より

用水の開削に当たって、多摩川右岸に取水口が2か所設けられ、そのうちの1つが今日のニヶ領宿河原堰付近といわれています。
当時の多摩川は、豊かな水が流れていて、取水は自然流入の状態で行われ、取水口付近に蛇籠(じゃかご、竹材で編んだ長い籠に石材を詰めたもの)を並べて対応していたということです。ニヶ領用水取水のために2番目に作られた取水堰の誕生(寛永6年、1629)です。

蛇籠 土木学会論文集(水工学)
    より          
小泉次大夫像 Wikipediaより

過去の教訓を生かしたニヶ領宿河原堰

今日のニヶ領宿河原堰は、JR南武線と小田急小田原線が乗り入れている登戸駅から歩いて10分ほどの場所にあります。多摩川の河口から約26㎞上流にあって、堰の長さが219.6m、左岸が狛江市猪方、右岸は川崎市多摩区宿河原に位置しています。

多摩川を挟んで狛江市猪方と川崎市多摩区宿河原を結ぶニヶ領宿河原堰

堰の構造は、可動堰(起伏式)5門、同じく可動堰(引上げ式)1門と魚道3か所から成り、固定堰がありません。

右岸(左側)から左岸に向かって可動堰(引上げ式)1門と可動堰(起伏式)5門が見えている

固定堰が無い理由は、ニヶ領宿河原堰には過去にふりかかった辛い出来事があるからです。
明治、大正期に入ると、東京市の人口増加等により、多摩川の取水量が格段に増え、神奈川県と東京市の間で長年にわたって水争いが起きます。取水口が蛇籠では対応が難しくなってきたこともありました。対策としてとられたのが昭和24年(1949)に完成させた鉄筋コンクリート製の固定堰でした。

昭和49年(1974)9月1日、大型の台風16号により水量が増した多摩川の水は、鉄筋コンクリート製の固定堰に妨げられて勢いを増し、左岸の狛江市側の堤防を直撃して決壊させました。19戸の民家が流され、宅地や家財の流失被害が約30世帯に及びました。多摩川の一面を人々に強く印象付けた狛江水害です。

狛江市猪方の河川敷に建つ多摩川決壊の碑

今日のニヶ領宿河原堰は、大きな被害をもたらした教訓を活かして、堰を伏せたり、引上げたりすることのできる可動堰のみを採用し、平成11年(1999)に完成しました。
多摩川の流れが織りなす風景と美しいデザインの堰は調和がとれており、多摩川の魅力を高めていると評価され、多摩川50景に選定されています。

地元の人々の苦難と喜びを長年にわたって見続けてきた多摩川の古き農業用水、ニヶ領用水は、今日、当初の役割をほぼ終えて、憩いと安らぎを与える環境用水として穏やかにかつてのニヶ領を流れています。

陽光を浴びて穏やかに流れるニヶ領用水

参考資料
*国土交通省 京浜河川事務所資料
*地理院地図