肥沼信次~伝染病と戦い命を捧げた医師~

     朝日新聞令和3年(2021)付けの多摩版に、「第二次大戦直後のドイツで伝染病の治療に尽力した八王子市出身の医師、肥沼信次博士にちなみ、博士が滞在したヴリーツェン市の街路が「Dr.コエヌマシュトラーセ(通り)と名付けられた。…」という記事が載っていた。

 肥沼信次という名前で思い出したのは、「Dr.コエヌマを知っていますか?」のタイトルで「市制100周年を記念して、肥沼博士ゆかりのドイツ・ヴリーツェン市と友好交流協定を締結」という平成29年(2017)8月1日発行の八王子市広報誌の記事を読んだ時のことであり、その時に、初めて肥沼信次という八王子市出身の医師がいたことを知ったことだった。

    肥沼信次博士はドイツのヴリーツェン市に眠っているが、平成29年肥沼医師の生涯を讃えた「おかえりなさいDr肥沼」の顕彰碑が故郷・八王子市の実家跡近くの中町公園に建立された。

 久しぶりに、JR八王子駅北口から遊歩道(ユーロード)を4、5分歩いた所・中町公園に立っている顕彰碑を訪ねた。

肥沼信次(八王子広報誌より)
肥沼信次顕彰碑
昭和13年の地図に見る肥沼医院(写真①)

肥沼信次(こえぬまのぶつぐ)の生涯

 明治41年10月9日(1908)に八王子市中町の肥沼医院の次男として誕生。                       昭和3年(1928)日本医科大学に入学し、昭和9年同大学卒業後に東京帝国大学(現東大)放射線研究室へと進んだ。少年時代からアインシュタインとキューリー夫人を尊敬していた肥沼は放射線医学の研究者として昭和12年憧れの地であったドイツ・ベルリンに渡った。ベルリン大学(現在のフンボルト大学)医学部放射線研究室にて学び、東洋人として初の教授資格を取得した。

    ドイツに渡って2年後、昭和14年第二次世界大戦が始まった。昭和20年3月、連合軍が侵攻すると、日本大使館は日本人在独者に帰国命令を出したが、ドイツで研究を続けたいと思った肥沼はそれに従わず、ポーランドとの国境の街エバースバルデに疎開した。

 終戦直後、医師の不足する中、肥沼博士は、エバースバルデから25キロ程南にある町・ヴリーツェンの伝染病医療センター所長として着任した。ソ連軍によって制圧されたヴリーツェンの町は、戦いに敗れた兵士や飢えに苦しむ多くの難民で溢れ、発疹チフスなどの伝染病が蔓延していた。着任した医療センターは、医療センターとは名ばかりで、医師は一人、看護婦は二人だけ、その上衛生環境は悪く、薬や医療用品は不足しているという大変なところだった。このような状況のもとで、肥沼博士は一人の医師として昼夜を問わず薬を手に入れる為に奔走し、治療に尽力して人々の命を救った。献身的な治療を続けた博士は自らも発疹チフスに感染して昭和21年(1946)3月8日異国の地で37歳の若さでその生涯を閉じた。

 常日頃周囲の人に「日本の桜はとても美しく、皆に見せてあげたい」と話していたという肥沼博士は「日本の桜が見たい」と言いのこし亡くなった。

ドイツで始まった肥沼博士の身寄り調査

 平成元年(1989)ベルリンの壁が崩壊すると、それまで歴史に埋もれようとしていた肥沼博士の功績は、ヴリーツェン市の郷土史家が調査した「戦後の大変な状況の中で、先生に命を救っていただき、感謝の気持ちは忘れません。」という住民の証言により公にされた。ドイツでは、これをきっかけに肥沼博士の身寄りの調査が始まった。

 同年、この郷土史家の依頼により、朝日新聞の尋ね人欄に「日本人医師・故コエヌマノブツグを御存知の方はいませんか。」と掲載された記事を知った肥沼博士の弟肥沼栄治氏により、身元が八王子市出身の肥沼信次であることが分かった。

 兄の最期を知らなかった弟栄治氏はこの記事に驚いたが、こうして、肥沼博士の活動が43年の時を経てようやく日本に伝わり、命を助けられたヴリーツェン市の人々が、長い間感謝の気持ちを持ち続けていたことを知ることとなった。                  

 ヴリーツェン市は肥沼博士の献身的な治療活動に対し平成6年(1994)名誉市民の称号を贈り、ヴリーツェンの墓は地域の人々が守り続け、毎年3月8日の命日には、市民による慰霊祭が開催されている。

誰かのために

誰かのために生きてこそ人生には価値がある                             (アルベルト・アインシュタイン)

 幼い頃から教えられた尊敬する人アインシュタインのこの言葉は、異国で人々の命を救った肥沼博士の精神そのものだった。

 肥沼博士の人々に献身的に人に尽くした生き方が、現在の子ども達、さらには後世まで伝わることを願い、紙芝居や中学生の道徳の本で伝えられている。

肥沼博士の紙芝居(作、絵 田中尚子)

肥沼博士の資料展示

 「お帰りなさいDr.こえぬま」の顕彰碑の近くにある「まちなか休憩所八王子宿」に寄ると、「ドクター肥沼の偉業を後世に伝える会」により、「肥沼信次を知っていますか。」と題して資料が展示されていた。

母・ハツの家計簿ノート~信次のドイツへの渡航費・800円と記録されている。(写真②)
信次がドイツ渡航への船~Hakone MARUの船名が分かる。(写真③)
放射線研究所での肥沼博士(写真④)

参考:写真①、②、③、④は「Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会」による展示資料より

   『日独を繋ぐ“肥沼信次”の精神と国際交流』 川西重忠

   『肥沼信次医師の生涯』(『中町百周年記念 中町史』住谷豊一より)Dr.肥沼の偉業を後世に伝える会