地域の人たちが丹精したコミュニティー花壇、食堂、郵便局、駐在所、和菓子店、木材会社、釣具店、コンビニ。奥まった民家の庭から焼却煙が上がる。美容院、新築中の2階建ての家。消防分団入口の壁にツバメの巣が残っている。時折、トレーニングするランナーが走る。青梅線二俣尾駅前の青梅街道沿いの光景だ。途切れ途切れに街道を行き交う車と、忘れたころにやってくる青梅線の電車の音がする程度の静かな駅前だ。この辺りは秩父多摩甲斐国立公園のエリアで屋外広告物に規制があり、巨大な看板やきらびやかなネオンはない。
創業63年、6坪の店
建物が途切れたあたりに本屋があった。「本」「主婦の友」「新刊」とトタン板に描いたペンキの文字が風雪に耐えた看板が掛かっている。「多摩書房」とある。まさに“むらの本屋さん”だ。開け放った店の入り口には入荷したばかりの新刊だろうか、何層にもわたって平積みしてある。
「こんにちは」と声をかけるが、音沙汰がない。待ちきれず、6坪ほどの店内に入る。児童書やコミック、文芸書、月刊誌など幅広いジャンルの本を平置きしたり、天井までの棚にビッシリと収めてあったり。背後から「いらっしゃいませ」と声をかけられた。向かいの自宅からやってきた店主の奥さんだった。
「お客がいる限り」営業
63年前、萩原桂太郎さんがこの地で貸本を始めた。次第に新刊本を扱うようになった。いま2代目店主の正雄さん(72)は中学卒業後、夜間高校に通いながら店を手伝い、当時人気だった少年少女雑誌の配達に追われた。最近では長編小説「1Q84」(村上春樹)、コミック「鬼滅の刃」(吾峠呼世晴)も結構売れたらしい。人気タレントらがテレビ番組でやってきて正雄さんと撮った写真を店内に飾っている。
コロナ禍のいま、紙の本が見直されているが、近年、ネット通販や電子書籍が台頭し、一方では活字離れが止まらず、書店を取り巻く環境は厳しい。それだけに人気本の発注には気を抜けない。来てくれるお客がいる限り店を開けている(日曜日休み)。青梅市と奥多摩町の図書館に書籍を納入する“まちの核”となる書店なのだ。
心和む多摩川の流れ
本の縁続きで多摩川の対岸にある青梅市吉川英治記念館へ足を延ばした。多摩書房前の青梅街道を南東へ進み、ログハウスの喫茶店前のT字路を右折して道なりに下る。多摩川に架かる奥多摩橋に出た。東京湾から67.2㎞、源流から70㎞程の地点にあたる。標高216m。橋の長さは176m。水面まで約33m。橋の上流で右から大きく蛇行してくる多摩川は水量が多く、橋から下流へは真っすぐに流れて、その先で再び右に蛇行している様子が見られる。青梅市内の橋梁では最も深い谷に架かっている橋だ。富士山を見ると、穏やかな気持ちになるのに似て、ここからの多摩川の眺めは、それに近い。
元々、この付近には鎌倉街道秩父道があり、八王子方面へ抜ける要所で、吉野村と三田村を結ぶ「竹の下の渡し」があった。大正9年(1920)に地元の人たちが架橋促進委員会を結成して陳情、昭和2年(1927)に認可された。地元の人たちの積立金と東京府の出資で昭和14年(1939)3月に渡しに取って代わり奥多摩橋が架けられた。
優美さ随一、土木遺産
橋上から見たこの橋は、フラットだが、床版の下に大きな特徴がある。橋の形態はスパンドレルブレースドリブドアーチといわれ、床下が東京タワーを連想するアーチ状に鋼材を組んだ上に、両岸に魚腹(魚のお腹のような形)トラスを設えている(右岸側は二連)。戦前に架設された橋としては最大スパンの108mあって、水面からも高く大きい優美な橋で平成21年(2009)11月に土木学会推奨土木遺産に選定された。魚腹トラスの橋は、ここのほかに岩手県北上市の利賀仙人橋と新潟県湯沢町の二居渓谷に架かる境橋だけといわれる。
独学で拓いた作家の道
吉野街道を横切り、鎌倉古道である草思堂通りを歩いて吉川英治記念館へ。明治25年(1892)横浜で生まれた吉川英治(本名英次・ひでつぐ)さんは、父親が貿易会社の事業に失敗したことで高等小学校を中退した。横浜ドックで船具工や釘工場の工員として働くなど職業を転々とした。独学で作家の道を志し、初めて小説を発表したのは大正元年(1912)20歳だった。10年後、東京毎夕新聞に社命で「親鸞記」を執筆した。その後、大阪毎日新聞に掲載した「鳴門秘帳」は日活など3社競作で映画化され人気を呼んだ。さらに、生死ぎりぎりの状況に耐えながら修練する剣禅一如の精神を剣士に込めた「宮本武蔵」(朝日新聞)、昭和14年(1939)には「太閤記」(読売新聞)、「三国志」(中外商業新聞)を新聞掲載。国民的文学作家の地位を不動のものにした。
敗戦で筆取れない日々
戦況が思わしくなかった昭和19年、吉川さんは赤坂から記念館がある青梅市柚木町(当時西多摩郡吉野村柚木)に移住した。江戸時代末期に建てられた元養蚕農家が気に入り、買って住んだ。日本の敗戦による世の中の変転でそれまでの執筆姿勢とその後を展望するのに苦闘したのか、筆を取ることがなく、畑を耕す日々だった。
執筆を再開したのは終戦から2年後の昭和22年だった。25年には「新・平家物語」を週刊朝日に連載、さらに33年には「私本太平記」を毎日新聞に、「新・水滸伝」を「日本」に連載するなど執筆に追われた。「新・水滸伝」が未完のまま遺作になり、37年9月7日、享年70で逝った。都立多磨霊園(府中市多磨町)に眠る。35年に文化勲章を受章し、37年に青梅市名誉市民になった。
「我以外 皆我師」を胸に
吉川さんは、28年に品川へ転居するまでの9年余り、柚木で暮らした。戦禍を逃れた疎開ではなかった。自身の随筆「折々の記」で『村民簿では私の本業は百姓で、文学は副業』『供出も農家並みの完全な村の衆のひとりになったつもりでいる』(青梅市吉川英治記念館パンフレット)と記す。
吉川さんは「我以外 皆我師」を座右の銘にしていた。地元の公民館建設には多額を寄付し、卒業する中学生一人ひとりに俳句をしたためた短冊を贈り祝ったほど、村の人たちと親交を深めていた。引っ越し後も村の財政を気にして住民票を移さなかった。
生涯30回引っ越した中で柚木に最も長く住んだ。それだけに柚木から離れる際に画家・川合玉堂さんの音頭で始まった「お別れの会」に住民ら300人ほどが集まり、別れを惜しんだ。会場で住民らと破顔する吉川さんの表情が繋がりの強さを物語る。
再開の記念館、母屋開放
元の記念館は吉川さんが亡くなった後の昭和52年(1977)に吉川英治国民文化振興会が運営して開館。令和2年(2020)4月に青梅市に寄贈された。その半年後の9月7日、英治弔の日に青梅市吉川英治記念館に生まれ変わって再開された。
記念館入口の長屋門は、以前の風格のままだ。1800坪(約6500㎡。駐車場含む)の庭にあるシイノキも威風堂々として清々しい。明治初期に建て替えられた元養蚕農家の母屋・草思堂、江戸時代末期の蔵も清楚な中に重々しさを漂わせている。
吉川さんがお気に入りだった母屋は木造2階建て。以前は、見学者が母屋に上がれなかったが、いまは開放している。その座敷で吉川さんは畳に座って執筆したことが多かった。ここで「新・平家物語」の執筆に余念がなかったという。戦後になって、土間まわりと北側を中心にご自身が設計して改造した。編集者や近しい人々との打ち合わせもここでした。明治中期に建てられた洋風の離れの書斎もある。
住民の家宝、短冊や色紙
庭の高台にある展示館では広島原爆ドームも訪ねて取材するなどしてものにした「新・平家物語」の自筆原稿や取材ノート、作家の石坂洋次郎や吉屋信子、丹羽文雄、獅子文六さんらと並ぶ写真のほか、吉野村の人々との交流を表す短冊や写真も多い。吉川さんが色紙にしたためた作品『訪ふ人に かたりたげなる 野梅かな』、吉川さんが詠んだ俳句に川合玉堂さんが絵を添えた掛け軸『貧乏も或る日はたのし梅の花』などを地元の人たちに贈り、それぞれの家で所蔵されている。その中から30点近くを展示しており、生前の吉川さんの心の内が垣間見られ、交流の深さを物語っている。
「大多摩」に込めた細やかさ
西多摩を中心とする観光推進にも目が向いていた吉川さんは、周辺域が一帯となって事業を進めることを願って命名した「大多摩観光協会」(現在、大多摩観光連盟)の結成につながった裏話も披露されている。『「奥」は一般的に「つきあたり」という意味になり、子供、女性にとっては近づき難いものになってしまうだろうという理由から奥多摩をあえて「大多摩」とする』と自身の言葉を記している。地元愛が伝わる品々に吸い寄せられた。
「市民所蔵の吉川英治作品展」は3月27日まで。月曜日休み。3月21日(月曜日・祝日)開館、3月22日(火曜日)休み。