吉祥寺から広まった東京のウド栽培~吉祥寺ウドから東京ウドへ

武蔵野八幡宮(武蔵野市吉祥寺東町)の境内に、吉祥寺ウドの由来を述べている案内板が立っている。

吉祥寺ウドを説明している案内板


江戸時代、武蔵野八幡宮の周辺は畑作農業が盛んで、ウドの栽培も盛んであったという。

武蔵野八幡宮 明暦の大火(1657)の際に移住してきた吉祥寺住民の鎮守


日本でウドの栽培が始まったのは7世紀以降で、京都付近とされている。ウドの栽培が江戸の地に伝わったのは文政年間(1818~1830)で、井荻村大字上井草(現・杉並区西荻北)の古谷岩右衛門なる人物が尾張から栽培技術を導入し、その技術がが隣接する当時の吉祥寺村へと広まっていった。

江戸・東京の農業 吉祥寺ウド

武蔵野八幡宮周辺は旧武州多摩郡吉祥寺村として、江戸時代より畑作農業が盛んな所でした。五日市街道に面していたので、江戸との交流も多く、野菜や薪の供給地でもありました。
ウドは数少ないわが国原産の野菜の一つで、古代から自生のものが利用されていました。記録によれば、この地で栽培されるようになったのは、江戸時代後期の天保年間(1830~44)とされています。
元来強健で適応性の広いウドは、武蔵野にもよく適し、特に冬から春にかけて野菜が不足していたことから、この時期に生産されたウドは独特の歯ざわりと香りで、江戸庶民に歓迎されました。
明治、大正、昭和と栽培は益々盛んになり、吉祥寺ウドとして広く知られました。しかし、その陰には篤農家による総意と努力により、他に例を見ない純白に育てる「穴倉軟化法」等、技術開発のたゆまぬ研究がありました。都市化により栽培面積は減少してきましたが、特産吉祥寺ウドの名声は全国に知られるようになりました。

平成9年度JAグループ
農業協同組合法施行五十周年記念事業
東京むさし農業協同組合

*上記は武蔵野八幡宮の案内板に記されている内容

ウドはウコギ科タラノキ属の日本原産の多年草で、武蔵野の地に適合し、特に冬から春にかけて野菜が不足していたことから、江戸庶民に歓迎されたという。
吉祥寺付近一帯に広まったウド栽培は、明治・大正・昭和へと益々盛んになり、吉祥寺ウドの名で知られるようになった。

吉祥寺ウドの名をより広めたのは、ウドの栽培技術の改良に加えて、ウドを純白に育てる軟化法の開発によるとされる。
ウドの軟化法は、萌芽前に予め土や落ち葉を盛り上げ、日光や風に当たらぬようにして、茎を白く柔らかく生育させて収穫するのが主流であった。

この軟化法の技術をさらに発展させたのが、昭和23年(1948)、武蔵野市の高橋米太郎氏による「軟白野菜促進穴倉」と呼ばれる穴倉軟化法の開発であった。
穴倉軟化法は、室(ムロ)と呼ばれる深さ3~4mの穴を掘り、光を当てず、真っ白なウドを育てる技法である。室の中は湿度が高く、温度は17~18°Cで、水分が保持されて柔らかく瑞々しいウドが生育する。

吉祥寺ウドと穴倉軟化法

穴倉軟化法の採用により、ウド栽培は収益性が高く、冬場の農閑期の貴重な収入源となり、生産地は武蔵野市から小平市、立川市へと多摩地域へ広がっていった。
吉祥寺ウド東京ウドと改名、東京は日本一のウドの生産地(昭和40年代後半、全国生産量の4割を占める)となった。その後、都市化が進んだことにより、東京ウドの栽培面積は減少し、平成30年(2018)度の統計によると、ウドの生産量全国1位は栃木県、東京都は6位となっている。

しかし、今日でも東京ウドが東京都を代表する農産物の一つであることを示すように、今上天皇即位の儀式の際に、五穀豊穣を祈願して行われる大嘗祭(だいじょうさい)(令和元年11月)において、武蔵野市のウドが供納されている。

武蔵野市の西方で、玉川上水に架かる橋の一つにうどばしがある。うどばしは子供の通学路を確保するために造られたのである(昭和40年竣工)が、うどばしの名は東京ウドを記念に残すために付けられた。橋の名をひら仮名表記にしたのは、小学生が多く通るためとされる。

うどばし


うどばしの東側には、橋の由来を刻んだ独活(うど)の碑が建っている。

独活の碑


ウドは、薬効として、食すると血液の循環を促進させ、鎮痛、利尿、消炎作用があるという。

ウドの基本的な料理としては、・ウドの酢味噌和え、・ウドの皮きんぴら、・ウドと小松菜の炒め がお勧めとか。
私は、ウドの酢味噌和えが好みです。

参考資料
・東京うど物語(東京うど生産組合連合会創立45周年記念誌)
・季刊 むさしの129号 武蔵野市
・Bonjour自然「武蔵野市自然アルバム」初版