全国屈指の養蚕の村、「懐古の井戸」に見る先人の労苦~小作駅前の顔

立川駅からスタートした青梅線駅前の顔シリーズ10駅目は小作(おざく)駅だ。東口の階段を下りたところの、駅構内といってもいい一等地に屋根付きの「懐古の井戸」があった。井戸の深さは27m。いまは1m四方ぐらいの木製の蓋がしてあり使われてない。

小作台開発のシンボルである「懐古の井戸」

広漠の地を潤して小作台開村
新宿―八王子駅間に汽車が走って甲武鉄道(現JR中央線)が開業した5年後の明治27年(1894)11月、青梅鉄道(現JR青梅線)立川―青梅駅間が開業して小作駅ができた。用地を提供した下田伊左衛門はじめ、玉川上水水番人(下陣屋)であり、大日本蚕業組合中央部議員、羽村銀行創立発起人を務めていた指田茂十郎ら発起人15人や近在の人々の寄付による建設費190円50銭を投入して井戸を掘ったという。羽村の高台に駅舎を設置したものの、周辺は広漠とした耕地で、生活用水にも事欠いていた。それを賄おうと井戸が掘られた。明治、大正、昭和に渡って小作井戸組合が維持管理した。この井戸がきっかけの一つで駅周辺に人口が増え、産業集積地となった。駅と井戸の建設が小作台開村につながったことを記す記念碑が井戸と並んである金刀比羅神社境内にある。

平成5年(1993)小作台開村100年になったのを記念して建てられた碑(小作駅東口の金刀比羅神社で)


玉川上水船運停止後の対策に鉄路
下田伊左衛門とは、どんな人物だったのだろうか。鉄道、駅舎、井戸の建設に尽力した下田伊左衛門は、江戸時代に開削された玉川上水に目を着けたのが始まりで、船運を開く運動を展開した一人だ。明治3年(1870)5月28日、玉川上水の羽村から内藤新宿までの通船許可が下り、青梅はじめ、西多摩一円から砂利、石灰、野菜、茶、織物などのほか、甲州や信州の産物も東京市内へ送った。東京からは米、塩、魚介類などを積んで帰った。

下田伊左衛門

指田茂十郎(中央)

だが、上水事務の所管が国の大蔵省から東京府に代わった矢先の明治5年5月30日、上水が汚れるという理由で通船停止になった。諦めきれない下田らは、甲武馬車鉄道会社を興し、馬車鉄道の許可を得る中、その後、武甲鉄道会社も興した。鉄道輸送にこだわる下田らは、2社を統合して甲武鉄道として明治22年(1889)に新宿―立川駅、4ヶ月後に八王子駅まで汽車鉄道を延伸して通船停止による課題をひとまず克服した。
下田、指田ら15人は青梅への鉄道ルートを敷くのが悲願だった。明治25年、青梅鉄道株式会社を興し、2年後の11月、立川―青梅駅間18.5㎞の青梅鉄道開業にこぎ着けた。当初1日4往復、1時間15分の運行で結んだ。石灰岩のほか、砂利、繭、豚、氷などを輸送した。氷川(現奥多摩)駅まで延伸したのは50年後だった。

今年で建立100年になる下田伊左衛門の顕彰碑(左奥。羽村市羽中3丁目、護国神社境内で)


養蚕、製糸の技術向上目指す
下田らの事業意欲は尽きない。安政5年(1858)の横浜開港以来、蚕種や生糸のアメリカへの輸出が盛んになり、青梅線沿線地域でも養蚕が突出していた。羽村で急拡大したのは明治維新後。下田と指田の2人の先進性によるところが大きい。2人は信州や上州、奥州といった養蚕先進地を訪ねて技術を取り入れた。羽村に取り入れたのは蚕の微粒子病検査法や蚕室を一定温度に温めて育てる温暖育、さらに清温育や折衷育などを改良して羽村の土地柄に合った新技術を考案して地元に普及させた。
下田は、明治20年(1887)多摩川河畔に製糸工場を造った。だが、3年後に経営不振に陥るが、羽村では相次いで製糸工場が誕生していく。明治37年に清水製糸、41年に加藤製糸、44年に並木製糸、大正5年(1916)に西玉社という組合製糸会社が操業。明治33年(1900)には東京が全国8位の主要養蚕地になり、この中心地は多摩地域だった。

‟家宝”として毎年、剪定されている民家のクワの古木。羽村市保存樹木に指定されている(羽村市羽中4丁目で)


収益多く農地の7割が桑畑
羽村市郷土博物館の資料によると、羽村の養蚕の最盛期は大正7、8年(1918、9)で、大正8年の統計では春子(はるご)を生産していたのが395戸、収繭量(しゅうけんりょう)は3167石、価格にして38万3360円。秋蚕(あきご)を生産していたのは410戸で4518石の収量があり、価格では49万4960円だった。昭和10年ごろまで農地の7割が桑畑で国内屈指の養蚕の村だった。
大正13年(1924)度の全国大蚕種製造一覧によると、収量の多い上位398位までの中で、東京では昭島市の9社・者を筆頭に、羽村、あきる野各2者など多摩地域の製造家が17社・者入っている(羽村市郷土博物館紀要第14号)。羽村には昭和初期に6工場あり、これらの工場で近隣はじめ、山梨県、神奈川県などから来た多くの女性が働いた。
蚕の育成者や製糸指導者育てる
下田は製糸から身を引くどころか、研究の成果を上げて改良技術を高めた。明治23年(1890)に興した成進社でさらに養蚕技術を磨き、普及に努めた。
成進社では農家への技術指導をしながらそれぞれの要望に応えて指導したり、講習所で成進者流温暖育の養蚕指導者と技術者を養成したりした。養蚕教授を派遣して講習会も開いた。成進社の社員が育てた蚕種にも蚕病を予防するための検査に合格しなければ、製品にしなかった。品質を上げるとともに信用を高め、共進会なども開いて成進社の技術を推し広めた。明治20年代から大正期に発展した成進社の技術を学んだ人々は1府11県8千人に及んだという。

養蚕用具を展示する羽村市郷土博物館


明治35年の西多摩村(現羽村市)農事調査によると、農業生産高の7割強を繭と生糸で得ていたという。田畑の多くを桑園にして来る日も来る日も蚕を育て、他の農作物の耕作に手が回らなかったようだ。「日常食品さえも他村から買い求めており、農村生活では異例」と調査報告は記している。
経済恐慌やナイロンに押されて姿消す
隆盛は続かなかった。第1次世界大戦後の恐慌で全国の製糸関連業は大打撃を受けた。羽村の製糸工場も例外ではなく、相次いで経営不振に陥った。西玉社を設立して繭の出荷と販売の安定化を図ろうとしたが、その後に第2次大戦も勃発し、戦後になってアメリカなどからナイロン製品が輸入されるなど養蚕が斜陽化していった。羽村で蚕の出荷は平成4年(1992)度を最後に、いま養蚕農家はない。

羽村市郷土博物館に移築されている「旧下田家住宅」


国の文化財になった民家と生活用具
いま、全国屈指の養蚕の村の姿を残すのは羽村市郷土博物館の展示品だ。敷地内に移築された国重要民俗文化財指定の「旧下田家住宅」(弘化4年=1847年建築)は羽村で一般的に見られた入母屋造り、茅葺きの農家で養蚕も行っていた。住宅と共に養蚕用具や生活用具1210点も文化財指定を受けている。館内で見られる他の養蚕用具など市民の保存運動が実って収蔵している141種8398点は平成8年(1996)3月に東京都有形民俗文化財に指定された。

小作駅西口に堂々と立つクスノキ。小作台地域の区画整理事業竣工記念に移植されて28年。駅前のもう一つの顔に育った


「飲水思源」。中国のことわざが頭から離れない。なぜなら「懐古の井戸」をきっかけに追った養蚕の村の姿は、人々の汗を集めた形であり、井戸の水を飲むときには井戸を掘った人の苦労を思えという教えに通じると思えたからだ。