新型コロナに感染して亡くなった人は世界で1億人を超えた。国内では医療機関の逼迫が続き、自宅療養者の死亡が相次いでいる。2度目の緊急事態宣言発出解除(2月7日)の延期も濃厚な中、市中感染が疑われているウイルスの異変種によるクラスターも発生して感染の脅威と不安は募るばかりだ。穏やかな日常生活は戻らいのか。【追記 11都府県に発出している非常事態宣言について、政府は2月2日、栃木県を2月7日に解除し、東京都、大阪府、京都府、神奈川、埼玉、千葉、岐阜、愛知、兵庫、福岡県の10都府県を3月7日まで延長することを決めた】
この1年間、わが身を自己隔離して出控えているが、心身のバランスを保つために散歩に出た。自宅の近くだからコースに思い入れがある分、ボリュームたっぷりと青梅線駅前の顔シリーズ・福生駅西口の宿橋通り~玉川上水沿いの模様を届けたい。
■麻が生え、豊かな水湧く地を表した「福生」
多摩地域に住んでいる人で「福生(ふっさ)」の地名が読めない人は少ないだろうが、私が若いころは、多摩地域に縁がなかったから読めなかった。小作(おざく)も軍畑(いくさばた)なども。福生は、いまも全国的には難読地名であり、『じゃらんニュース』の『難読地名クイズ』(47問)に挙げられている。1位は老者舞(北海道釧路郡釧路町おしゃまっぷ)、2位は王余魚沢(青森市かれいざわ)、3位は生出(陸前高田市おいで)。福生は13番目に出題されている。東京都では唯一。
また、ウィキペディアの『関東地方の難読地名一覧』にも東京都135ヶ所(島しょ除く)に福生が入っている。
福生の地名のいわれは、福生駅西口ロータリーに設置してある碑に刻んである。諸説あるが、有力説は麻の生える地(麻のことをフサという)、あるいは阜沙(阜とは陸・丘。沙とは細かい砂のある川岸)、さらにアイヌ語(湖口をフチ、片・ほとりをチャ、湧水をブッセ)からとするもので、いずれも音が訛って、後にフッサというようになり、縁起の良い福生の文字を充てたのだろうと刻んでいる。
■190年風雪に耐えた馬頭観音跡
福生駅西口からいったん西の多摩川方面へ向かう。新奥多摩街道の福生駅西交差点先の交差点を右折して宿橋通りに入るのだが、その前にこの付近に注目したい。見た目、長沢バス停があるくらいで中層ビルなどが並ぶ。多摩川からのだらだら坂を登り詰めるあたりだ。多摩川に木橋が架かって、あきる野市域にダイレクトに行けるようになったのが昭和25年(1950年)ごろだそうだ。さらに昭和36年に永久橋の永田橋が架かった。この時、福生の渡しが廃止された。
それまで往来が多かった多摩川から東方へ延びる道は宿橋通りしかなく、急な長い登り坂だった。牛や馬が行き倒れることが多く、長沢バス停あたりに文政11年(1828)に福生村で馬を持っていた18人が馬頭観音を寄進した。この馬頭観音は何度かの道路改修で移動した。いまは福生駅東口の福生不動尊入口に安置してある。190年あまり風雪にさらされてきた観音の穏やかな顔の前で散歩の折にわが身を振り返ることが多い。
■目抜き通りだった宿橋通り
青梅鉄道福生停車場(現JR青梅線福生駅。明治27年=1894年開業)が開設された後もメインルートだった宿橋通りは、玉川上水にかかる宿橋までの数百メートルを結ぶ道で、その先の多摩川には福生の渡しがあった。道の歴史は古く、上・下江戸道、八王子道、青梅へと通じていた。青梅鉄道が開通すると、宿橋通りは五日市方面から福生の渡し舟に乗って多摩川を渡り、福生停車場へ向かう人でにぎわいが増した。
昭和13年(1938)ごろから20年ごろの宿橋通りを描いた絵巻が通り沿いの長沢公園入口に掲示されている。地元の窪田成司さんが記憶をたよりに町並みを描いたものだ。
それによると、運動具店、羽村銀行、履物店、自転車店、菓子店、農業組合、ミシン店、旅館、百貨店、割烹旅館、饅頭店、八百屋、魚屋、郵便局・電話局、精米所、消防組詰所、理髪店など、土蔵や火の見やぐらを挟んで50軒あまりが軒を連ねていた。酒造業を営む名主田村家を中心とした町並みだった。
多摩川に架かる永田橋を結ぶ新道(昭和36年)ができたことで福生の渡しが廃止されたのが引き金になり、町の中心地は福生駅に近い方へと移った。
いまの静かな通りは、弧を描く昔からの道に変わりがない。変わったといえば、沿道に商店が少なく、住宅やアパート、マンションが目につく。歩道にブロックが敷き詰められて所々に数本ずつ腰高の鉄製ポールを埋め込んで遊歩道感を演出している。何よりも通りの頭上に電線がなく無電柱化なのがいい。
■江戸・明治・大正の風合い強い旧ヤマジュウ田村家住宅と旧福生郵便局
長沢公園の隣に荘重な2階建ての大屋根の古民家がある。酒造場の田村家分家で、屋号を仐(ヤマジュウ)といった。約2千㎡の敷地に建つ主屋は、明治35年(1902)に建てられた。その後、大正5年(1916)に改築。初代当主の田村幸三以来、平成24年(2012)まで3代が住んだ。翌年、建物は福生市に寄贈された。
主屋の広さは約270㎡。造りは六間取りで、木戸から入って右手に土間と台所があり、左側が座敷だ。周囲に廊下がめぐり、江戸時代以来の建築様式が見られることから平成26年に国登録有形文化財になった。
また、風呂場や手洗い場が建物内に設置されていることや収納スペースが配置されおり、明治の近代的な住宅の特徴も備えている。当初、玄関に近いところにあった囲炉裏を築後間もなく奥に移したことが幸いして天井や柱、鴨居などは煙でいぶされることが少なく、ケヤキやヒノキ、スギといった建材の木目が浮き出ていて、きれいに使われていたことが分かる。
奥座敷は、玄関脇の座敷に比べて豪華な造りだ。床の間が広く、飾り棚を設え、欄間には細かな細工が施されている。茶を一服所望したくなる。
ヤマジュウの本業は郵便局で、初代当主が明治44年(1911)、郵便局長となり福生郵便局を敷地内に開設した。福生で第1号の郵便局だった。大正5年(1916)に宿橋通りを挟んだ自宅向かいに局舎を移設し、2年後に電報電話業務を手掛け、大正10年に電話交換業務を始めるなど福生の近代化の礎となった。
この郵便局舎も健在であり、いまは教会になっている。屋根の鬼瓦に代わって〒マーク入りの装飾瓦が上げられておりひときわ目を引く。内部の天井から下がる扇風機はデザイン性が高く、大正ロマンを彷彿とさせている。
ヤマジュウの主屋裏手には2棟の土蔵がある。西土蔵は明治37年(1904)、東土蔵は明治44年に建てられた。どちらも2階建て。違いは組み方が異なることと、西土蔵の2階南側に窓があるが、東土蔵には1、2階とも北側にも窓があることなどだ。西土蔵に生活関連の道具類を収納し、東土蔵には郵便局で使っていた道具類を仕舞っていた。
■分水が流れ、黒塀囲む田村酒造場
旧ヤマジュウから出て玉川上水に架かる宿橋を渡ると、田村酒造場はすぐだ。文政5年(1822)創業。「嘉泉(かせん)」の銘柄で知られる。高木大木が織りなす屋敷森を回り込むように進むと、蔵元の裏手に出る。南に畑が広がり、蔵元の敷地から流れ出る玉川上水の水を取り込んだ田村分水を眺める。慶応3年(1867)に江戸幕府から取水権を得て精米用の水車を回し、一帯の灌漑用や生活用水に使われ続けて来た。その様子が今も感じられ、水路にある洗い場にしゃがんで日光浴した。
来た路地をさらに進み、蔵元の黒塀を辿って右折すると、酒造場の正面口にたどり着く。蔵の軒先に酒を搾り始め、新酒が出来たことを知らせる杉玉が吊るしてあった。酒蔵の中や庭を見たいところだが、コロナの感染騒動が収まってからにしよう。また、「多摩めぐり」酒蔵シリーズで訪ねることだろうから、その時を待とう。
田村酒造場の蔵見学は例年2月から行うが、コロナ感染を防止するため、いまは中止している。再開されれば1日1グループ10人以上が集まれば、案内してもらえる。要予約。休業日あり。
この日、冷やでも燗でもよしの「特別本醸造 まぼろしの酒 嘉泉」を買って家で飲んだ。味は? 言わずもがなでしょう。
■百花の季節近づく長徳寺
田村酒造場のはす向かいにあるのが玉雲山長徳寺だ。臨済宗建長寺派の寺で長徳年間(995~999年)の創建というから千年を超える。平成8年(1996)に諸堂を一新して清楚で、かつ荘厳さがあった。境内入り口ではビャクシンが空間の広がりを際立たせ、ハスが植えこまれた鉢の水が凍っていて引き締まる面持ちだった。境内では間もなくフクジュソウが咲き、春にはカタクリ、イチリンソウ、シュンラン、オダマキなど年間130種もの草木が楽しめる。
■急カーブの新堀と並ぶ玉川上水旧堀跡
長徳寺から玉川上水まですぐだ。そこに架かるのが宮本橋(江戸時代は「宝蔵院橋」だった)。堀の右岸を上流へ100mほど歩くと、堀は急カーブしている。玉川上水全線の中でも他にない展開だ。上水に通水(承応3年=1654年)されて86年後の元文5年(1740)に多摩川の出水・洪水で上水の土手が崩落して通水に支障の恐れがあった。このため宮本橋付近から上流の新堀橋付近までの約613m区間を多摩川から東側に遠ざけて掘り直した。代官上坂安左衛門のもと、上水世話役の川崎平右衛門によって行われた現場だ。旧堀跡は加美上水公園に隣接する多摩川寄りで見られる。古い堀跡の底に降りて深さを実感する。同時に、人海戦術で開削したから土砂を上げる作業の重労働を推し量った。
いつ玉川上水を訪ねても気持ちが落ち着く。落葉のいまは、どの木も燦燦と陽を浴びている。冬芽に秘めた力を感じ、やがてやってくる産毛に覆われた若葉の柔らかさ、太陽の光を透かして照り輝く新緑、厚く硬めになる深緑……。堀の水は季節の葉の色を映し、時には靄も舞い上がる。加美上水橋の上流に架かる新堀橋付近の景観は昭和59年10月、新東京百景に選ばれた。
■“野鳥の父”が好んだ加美上水公園の雑木林
加美上水公園は、玉川上水の加美上水橋から新堀橋までの区間の右岸に延びる雑木林の公園だ。玉川上水は東京に残る最後のグリーンベルトといわれ、市民の憩いの場だ。クヌギやナラ、イロハモミジ、イヌシデなどが枝を重ねている。冬枯れの雑木林は明るい。春から秋には野草が芽生えて花が多い。その艶やかさは、このHPの「花ごよみ」・「加美上水公園」のページを開いてほしい。間もなく花踊る季節がやってきてコロナ禍で枯渇している心を癒してくれるはずだ。
「Mt.Fuji-Viewing Hill a one-minute walk」の木製案内板がある。好天の時に小高い丘に登れば、多摩川の対岸に富士山のたおやかなフレアが見られる。まさにビューポイントだ。
この雑木林に惚れ込んだのが日本野鳥の会を創設した初代会長・中西悟堂だ(昭和59年12月11日逝去。享年89)。「野の鳥は野に」と自然のままに保護することを訴えた。「野鳥」「探鳥」という言葉を編み出したのが悟堂であり“野鳥の父”といわれる。「悟堂」の名は15歳のときに調布市の深大寺で僧籍に入ったときの法名。詩人であり、歌人でもあった。
悟堂は昭和19年(1944)9月、戦争疎開で杉並から加美上水公園付近の田村酒造場所有の離れに移り住んだ。当時、一帯は林野で500坪(約1650㎡)借りて「野鳥村」構想を練り上げた。井戸を掘り、木を掘り起こして整地し、住居兼野鳥研究の拠点にすることを待ち望んでいた。東に接する玉川上水と西に多摩川を配した地であり、雑木林や自然傾斜を生かした敷地の周囲に生垣と丸太の柵を設える予定だった。しかし、資金を建設業者に持ち逃げされて野鳥村構想は幻に終わった。
その後、悟堂は20年5月、空襲を避けていったん山形蔵王山麓に移るが、その年の暮れに福生に戻るつもりだった。だが、元の地には帰れず、多摩川対岸のあきる野市二宮に住み、29年3月まで暮らした。
福生市が平成27年3月までの3年がかりで行った調査によると、市内で見られる野鳥は冬期の82種をはじめ年間289種だった。その多くは、この公園で観察できるだろう。そう思うほどあっちからも、こっちからもさえずる声が響いてくる。
梢から梢へと渡るメジロやヒヨドリ、エナガ、ルリビタキなどの澄んだ声。渡り鳥のシロハラがひょっこり目の前に現れた。玉川上水ではカモたちが列をなし、多摩川ではアオサギなどが流水に浸かりながら魚を待ち構えており、魚影を見ると素早く駆け込んでくわえた。カワウは川面に突き出た石の上で濡れた翼を広げて乾かしている。悟堂は、こんな光景を楽しみながら自然と野鳥の関係性の大切さを実証したかったのだろう。
■蒸気機関車が走った砂利線跡
加美上水公園入口の加美上水橋から多摩川サイクリングロードへの取り付け遊歩道は、多摩川採掘の砂利運搬線跡だ。大正10年(1921)から昭和34年(1959)まで青梅鉄道(後の国鉄)福生支線として羽村境までの1.8㎞を運行していた。当初は蒸気機関車で、後に電化された。日に2回程度、4~5両編成の貨車が行き交った。砂利は東京の都市建設に使われ、明治神宮、大正天皇の陵墓(八王子市の多摩御陵)造営に一役果たした。当時、住民たちは加美上水橋を「ガード」と呼んだ。昭和37年2月10日、廃線で撤去された。
■飢饉に備え村民救う田村家穀箱
福生駅に戻る道すがら目に入るのが小さな屋根に覆われた田村家穀箱だ。江戸時代の天保11年(1840))に作られたもので飢饉に備えた食糧貯蔵箱だ。高さは人の背丈ほど、横2間(約3.6m)、幅半間ほどの木製だ。穀箱は改変の跡や腐食が少なく、建築当時の姿が残っているという。
箱の内部には落とし板による中仕切りがあり、脱着可能な3室に分割できる構造だ。稗や粟を蓄えて災害や飢饉など非常時に住民らが分け合ってしのごうとした。落とし板には光明真言や梵字などが記されているといわれ、住民たちの願いが伝わる。
■沢ガニが這い、ホタルが舞った堂川湧水
来た道を数メートル戻り、その先を右折してわかぎり通りに入る。さらに行く手のT字路を左折すると、植えて100年ほどになるクスノキの大木が民家の屋根高くに茂っているのが目に飛び込んでくる。鎮守(神明社)の森を代表するクスノキだ。その根元に堂川湧水がある。平成11年(1999)以来、ポンプで揚げた水を児童公園内に流水させている。短く細い水路だが、玉川上水の分水路と多摩川を除いて、小川が少ない福生の癒しの空間だ。
元の湧水が枯れたのは昭和38年(1963)ごろだった。付近の土木工事が原因とみられている。それまで年間通じて涸れることがなかった。堂川のせせらぎに慣れ親しんできた住民らは、復活を願った結果、36年ぶりによみがえった水辺だ。
随分昔には水源の上に念仏堂(薬師堂とも)があり、堂川と呼ばれてきた。水源がある坂をいまも堂坂という。この小川は南下して宿橋通りをまたぎ、多摩川に注いでいた。小川にはホトケドジョウが泳ぎ、沢ガニがせわしく行き交った。夏の夜には子らがホタルを追いかけ、隣り合わせた家々の生活用水でもあった。いまでこそ消えたものの田んぼにも欠かせない水だった。坂上には長沢遺跡があり、縄文人も愛用していただろう。
冬の陽は、猫の額を流れる堂川湧水に差し込み、水面が鏡のように光り輝いていた。