「まいまい」は、「カタツムリ」の事であり、井戸の形がその殻に似ていることから「まいまいず井戸」と呼ばれる。
地表面をすり鉢状に掘り下げてあり、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造である。
すり鉢の内壁に当たる部分に螺旋状の小径(こみち)が付けられており、水を汲みに行くには、ここを通って地表面から底部の垂直の井戸に辿り着き、その垂直の井戸から水を汲んだのである。
このような井戸が掘られている場所は、交通の要衝などで、川や、池などの水源から離れた台地に多く、深い井戸掘り技術が無かった江戸時代以前に掘られたようだ。
このような井戸は、部落の井戸として掘られたものや、古代や中世の街道筋に掘られて部落民、行き交う旅人や多くの軍勢ののどを潤した事と思われる。
井戸の所在地
- 東京都羽村市五ノ神「まいまいず井戸」
- 東京都あきる野市渕上「渕上の石積井戸」
- 東京都青梅新町「大井戸」
- 埼玉県狭山市北入曽「七曲井」
- 埼玉県狭山市堀兼「堀兼の井」
- 東京都府中市「郷土の森博物館公園内の復元まいまいず井戸」
1.まいまいず井戸
井戸は地元伝説では、大同年間(806~810)に創始されたものとしているが、典拠は無い。
井戸の側を鎌倉街道が通っていることや、形態及び、板碑などの出土からみて、鎌倉時代の造成と推定される。掘井技術が未発達の時代に筒形井戸の掘りにくい砂礫層地帯に井戸を掘る必要から、このような形態に至ったのである。
元文6年(1741)に、当時の五ノ神村の村中の協力で井戸普請が行われた記録があり、その後も数回修復されてきたが、昭和35年(1960)羽村町営水道開設に伴い使用を停止した。
井戸は地表面での直径16m、底面の直径5m、深さ約4.3m、すり鉢状の窪地の中央に直径約1.2m、深さ5.9mに堀井戸がある。地表面からは周壁を約二周して井戸に達するようになっている。
羽村市「まいまいず井戸」
2.渕上の石積井戸
構築年代は定かでないが、中世(鎌倉時代)に造成されたと推測される。また、石積みを伴う点で大変希少で保存状態も良く、地域における水と生活の歴史を知る上で貴重な井戸である。
井戸は地面をすり鉢状に堀りくぼめ、らせん状の道を設けるなど、筒型井戸の普及する以前の井戸の特徴を良く示している。
平成4年(1992)の発掘調査によって、東西5.5m、南北7.5m、深さ3.2mであることや、壁全体に石積みが施されていることがわかった。北と南に階段状の入口が設けられ、幅60cm程の道が左回りで平坦な底まで続いている。底は水を通しにくい固い砂礫層(五日市砂礫)まで掘り込まれていて、綺麗な地下水が周囲の石積みの間から湧き出している。
あきる野市「渕上の石積井戸」
3.新町の大井戸
井戸の創始については定かでないが、地表から筒形井戸を造成する技術が一般化する前の中世(鎌倉時代)に造成と推測される。また、武蔵野原野を走る「古青梅街道」と「今寺道(秩父道)」の二本の古道が交差する位置にあることから、おそらく江戸時代の開発以前から道行く人馬の飲み水を供給する場所となっていたものと思われる。
慶長16年(1611)に当地が新町村として開発された際には、大規模に改修され、江戸期を通して利用されていたといわれている。発掘調査の結果、筒形井戸の底から出土した、明和7年(1770)の年号と「永大不絶泉」の墨書きをもつ願文石から使用されていたことがわかる。
井戸は東西約22m、南北約33m、深さ7mのすり鉢部と周囲の盛土からなる大井戸は、最大規模のものである。このような大井戸は、中世後期から近世初期の武蔵野台地の開発に関する貴重な歴史的学術的価値も高い史跡である。
青梅市「新町の大井戸」
4.七曲井
この井戸は、すり鉢の形をした古代の井戸で、武蔵野の歌枕として名高い「ほりかねの井」の一つといわれている。
井戸は、昭和50年(1970)に発掘調査が実施されすり鉢部の上部直径が18~26m、底部直径が5m、深さが11.5mで、筒井部はほぼ中央にあり、松材で組んだ井桁からなっていることがわかった。また、井戸へ降りる道筋についても、その入り口が北にあり、上縁部では階段状、中途から底近くまで曲道となっていることも判明した。しかし、井戸が掘られた時期については特定することが出来なかった。それは、これまで何回も修理を繰り返して使用しているためで、史料によると、最後の改修は宝暦9年(1759)となっている。
発掘調査による考古学的見地から解明された七曲井については以上のとおりである。しかしながら、この井戸が掘られた時期が全く不明かというと、そうでもなく、それを解明する手掛かりは、井戸の所在地が「北入曽字堀難井」にあることである。「堀難井」は、現在は「ほりがたい」と呼ばれていて、地元では古くから「ほりかねのい」と称していた。
「ほりかねのい」が我が国の文献に現れるのは、平安時代前期の女流歌人である伊勢により、
「いかでかと思う心は堀かねの井よりも猶(なお)ぞ深さまされる」
の一首が詠まれてから以後で、清少納言が著した『枕草子』にも、
「井は掘兼の井。走井は逢坂なるがをかしき。山の井。さしも浅きためしになりはじめけん。」
とあり、天下の第1位に「ほりかねの井」を挙げている。伊勢の生涯は不明であるが、活躍した年代が宇多天皇の在位期間(仁和3年~寛平9年「887~897」)であったこと、『枕草子』がまとめられたのが11世紀初頭であったことを考えると、七曲井は平安時代にはすでに存在していたと思われる。
また、延長5年(927)に完成した『延喜式』巻50・雑式には「凡諸国駅路植菓樹、令往還人得休息、若無水処、量便堀井」とある。これは、「諸国の駅路には果物の実る木を植え、旅人に休息の場を与えるとともの、飲み水の無いところには井戸を掘りなさい」という意味で、七曲井の側を通る道が中世は鎌倉街道、古代は入間道(東山道武蔵道の支道)であったことを考えると、遅くとも9世紀後半から10世紀前半にかけて、武蔵国府の手により掘られたと考えられる。
狭山市北入曽「七曲井」
5.堀兼之井
この井戸は、掘兼神社の境内にある。直径7.2m、深さ1.9mの井戸の中央には石組の井桁があるが、現在は大部分が埋まっており、その姿がかつてどのようにであったかは不明である。この井戸は北入曽にある七曲井と同様に、いわゆる「ほりかねの井」の一つと考えられているが、これを事実とすると、掘られた年代は平安時代まで遡ることができる。
井戸のかたわらに2基の石碑があるが、左奥にあるのは宝永5年(1708)3月に川越藩主の秋元蕎智(たかとも)が、家臣の岩田彦助に命じて建てさせたものである。そこには、長らく不明であった「ほりかねの井」の所在をこの凹形の地としたこと、堀兼は掘り難かったという意味であることなどが刻まれている。しかし、その最後の部分には、これらは俗耳にしたがったままで、確信に基づくものではないとも記されている。手前にある石碑は、天保13年(1842)に堀金(兼)村名主の宮沢氏が建てたもので、清原宣明の漢詩が刻まれている。
都の貴人や高僧に詠まれた「ほりかねの井」は、ここにある井戸を指すのだろうか?神社の前を通る道が鎌倉街道の枝道あったことを考えると、旅人の便を図るために掘られたと考えられるが、このことはすでに江戸時代から盛んに議論が交わされていたようで、江戸期に編さんされた『新編武蔵風土記稿』にも「ほりかねの井」と称する井戸跡は各地に残っており、どれを実跡とするかは定めがたいとされている。堀兼之井が後世の文人にもてはやされるようになったのは、秋元蕎知が宝永5年に石碑を建ててから以降のことと考えられる。
狭山市堀兼「堀兼の井」
堀兼の井の所在の碑 清原宣明の漢詩
6.府中市郷土の森博物館公園内の復元まいまいず井戸
府中市寿町で発掘された平安時代のまいまいず井戸を郷土の森博物館公園内に復元したものである。府中町2丁目など、武蔵国府関連遺跡で5つの大きな井戸が発見されているが、国庁北側のハケの上面など湧水が少ない場所からの発掘となっている。
府中市郷土の森に復元されたまいまいず井戸
参考資料
*東京都教育委員会設置の看板
*あきる野市教育委員会設置の看板
*狭山市公式ウェブサイト(埼玉県指定文化財 記念物・史跡)
*wikipedia等インターネットの各情報