昭和初期の立川に日本初の国際空港があった

立川飛行場の始まりは、大正11年(1922)6月、陸軍航空第5大隊が岐阜県各務原から立川へ移駐したことから始まる。

大正時代の立川飛行場

その後、昭和時代の初めに民間空港としても共同利用されていた時期があり、昭和3年(1928)この年、立川飛行場に最初の外国機であるソ連親善機が飛来した。その後も外国機の飛来が相次ぎ、立川飛行場は国際空港となった。昭和4年(1929)立川と大阪を3時間で結ぶ日本初の定期航空路が開設され日本航空輸送株式会社が立川―大阪間で日本初の定期航空を開始した。

陸軍と民間共用時期の立川飛行場

日本初の国際空港として利用されていた立川飛行場だが、昭和6年(1931)東京飛行場(現東京国際空港:羽田)が完成しそれに伴い、民間航空会社が立川から羽田に移転し国際空港の役目は終了し、陸軍専用の飛行場となった。陸軍専用となったが、昭和12年(1937)朝日新聞社の「神風号」が立川飛行場を離陸し、イギリスのロンドンまで飛行し、飛行時間の世界記録を樹立した。

朝日新聞社の神風号

ロンドン到着の神風号

以降終戦まで陸軍専用の飛行場として使われ、隼戦闘機(立川飛行機製)を初め、多くの戦闘機や輸送機、練習機がこの飛行場を離着陸したことだろう。

立川飛行機の隼戦闘機

終戦後は、アメリカ軍に接収され、昭和25年(1950)から昭和28年(1953)の朝鮮戦争の時は立川飛行場から多くの軍事物資や兵員が朝鮮へ空輸された。1950年代から1960年代にかけて基地は、軍事物資、軍関係の旅行者を乗せた飛行機で賑わい、軍用輸送機や貨物機、民間チャーター機も飛来し、最盛期には平均約2300回/月の発着と約2万人/月の空輸が行われた。

アメリカ軍と日本人の友好祭の様子

アメリカ軍は、昭和44年(1969)3月には航空師団の解散と軍事空輸中隊の活動停止を発表し、同年10月には飛行活動の全面停止が決定、12月8日をもって全ての飛行活動が停止した。その後、昭和47年(1972)陸上自衛隊の先遣隊が移駐を開始し立川駐屯地が発足した。昭和52年(1977)11月30日立川飛行場が全面返還された。跡地は、東部・中央部・西部の3地区に分割され、東部は、陸上自衛隊立川駐屯地のほか、海上保安庁・警視庁・東京消防庁など各官公庁の施設が設けられ、立川広域防災基地となった。また中央部は、昭和天皇在位50年を記念して昭和記念公園が造営され、平和のシンボルとして親しまれている。残った西部地区はアメリカ軍から返還された後も30年以上も実質放置されていたので、自然な森と化し、希少動物の存在が確認されているが、法務省は、東京都、神奈川県にある数か所の刑務所関連施設を統合した「国際法務総合センター」7施設の建設を進め、平成31年(2019)4月までに完成した。

現在の立川飛行場(中央)と昭和記念公園(左側)

 

 

★参考資料

*立川飛行場の歴史 陸上自衛隊 立川駐屯地 広報

*立川市史

*立飛グループの歴史 (株)立飛ホールディングス

★写真の引用

*立川市Hp(立川の歴史)

*立川歴史民族資料館

*(株)立飛ホールディングス