旧多摩聖蹟記念館と近藤勇の関係

「多摩聖蹟記念館」の開設のきっかけ

多摩市にある「旧多摩聖蹟記念館」は、明治天皇が多摩村連光寺に行幸したことを記念して、元宮内大臣田中光顕が中心になり昭和5年に建てられた。この記念館が建つ大松山は、近藤勇の生家である宮川家の土地であった。

旧多摩聖蹟記念館(市指定有形文化財)

 

勇の兄の孫にあたる調布町(現調布市)の大地主であった宮川半助が、昭和2年3月に知人である児玉氏を通じて、この土地を売りに出した。これに目を止めた田中光顕の秘書が光顕に報告するとともに広告主を訪ねて、その土地が我が国まれな聖蹟である事を知る。4月8日には、田中伯自ら実地調査を行い、地元連光寺の富沢家を訪ね、行幸の折使用された品々や文献を拝見、聖蹟保存の事業を起こす事を決意した。そして相談を受けた宮川半助は、財政上の事情から売却したい3万8千余坪の土地ではあるが、田中光顕の尊王心とその熱意に感動して土地全てを無償提供することを申し出た。勇が京都で勤皇の志士を切ったことへの罪滅ぼしであったという。天皇行幸の際に休憩所を提供し、記念館の成立にも尽力した富沢家は、幕末期天然理心流のスポンサーでもあった。

五賢堂 明治100年を記念して1968(昭和43)年に建てられた。維新に貢献したとされる 「三条実美」「岩倉具視」「木戸孝允」「大久保利通」「西郷隆盛」が祀られている。

一方、若き日の田中光顕は土佐藩脱藩土佐勤皇党の一員として尊王攘夷運動に身を投じていた人物であり、幕末の志士の顕彰にも力を入れていた。館内には、武市半平太や坂本竜馬に関する資料も多い。

本来は事業資金の調達のために土地の売買を計画した半助は、当然ながら負債をかかえこんでしまう。見かねた田中伯が、記念館用地は1万5千坪で足りる故、宮川家万一の場合は、周囲1万8千坪は返そうと一筆書いたが、半助は家族に知られぬよう顧問弁護士に預けていたという。

半助氏自身も剣道7段、何事にも動ぜぬ豪傑タイプであったというが、このあたり近藤勇の人物像に重なりあう。

後日譚

昭和12年夏に半助は逝去するが、残された土地よりも負債が上回り、跡を継いだ豊太郎は窮地に立たされる。この悲運に田中伯らは同情した。例の1万8千坪の土地を返却しても差し押さえられるだけである。ただし、興銀に抵当に入っている苗木畑を債務より高額で買い取ってもらえればとの事。田中伯の秘書らの働きで、大陸雄飛の青年を育成する塾の建設を計画している会社への斡旋が結実した。

豊太郎氏はいたく感謝し、これは亡父が記念に尽力したお蔭として、父の遺志を継ぎ1万8千坪の土地は記念館に差し上げたいと、一書を弁護士ら立ち合いの元、火中に投じたとのことである。

苗木畑に設立された興亜塾はその後武蔵境に移転し、戦後は興亜専門学校となり後に亜細亜大学となる。

参考資料「多摩聖史」