「第49回多摩めぐり 晩秋の奈良ばい谷戸を散策し、小野路宿の歴史を辿る」を11月24日(日)に開催します

第40回多摩めぐり 130年前にあった三多摩東京移管、その経緯を町田で探る 併せて、この地で創業したクリクラ水製造工場見学

晩秋の雑木林に射す光彩を楽しみながら歩く多摩めぐりの参加者(民権の森で)

ガイド : 吉田 敏夫さん

主なコース

小田急線鶴川駅(集合) <バス> → 綾部入口 → 町田市立自由民権資料館 → 野津田神社 → ぼたん園 ・民権の森 (昼食) → 華厳院 → クリクラ町田工場(解散)

現在の多摩地域は明治 26 年(1893)3 月まで神奈川県に属し、東京に移管されて今年で130年を迎えた。なぜ東京に移管されたのか。東京の人口増加が留まらなかった中で当時、全国的に広まっていたコレラ患者の汚物を洗った水が青梅の上流域で多摩川に流れ込み、その水が玉川上水に流入したという風聞が広がったことから上水の管理を徹底する目的で三多摩を東京に移管したのか。11月22日に町田市で行った40回目の多摩めぐりでは町田市立自由民権資料館(野津田町)などで移管への経緯を探り、その真相に迫った。ガイドは吉田敏夫さん。18人が参加した。当時は大政奉還で明治時代に入り、国会開設、憲法創始と自由民権運動が華々しかった。多摩地域の運動のリーダーだった石阪昌孝、村野常右衛門(つねえもん)ら町田勢や多摩一円の活動家の動きを捉えながら神奈川県や東京府、国会審議の動静を振り返った。中でも帝国議会への移管案提出から可決までわずか10日だったことに目を見張った。町田の民権家ゆかりの地を訪ねたほか、宅配水製造・販売会社の町田工場にも立ち寄り、水の性質はじめ「安全・安心・おいしい」水の仕掛けの工程を見た。

東京府移管までの神奈川県の郡域

三多摩地域の移管案が第4回帝国議会に上程されたのは明治26年(1893)2月18日。衆議院で可決されたのは10日後の28日。4月1日から多摩地域は東京府に編入した。当時の神奈川県議会、地元代表者、首長、府県知事らの対応の経緯や三多摩で盛んだった自由民権活動家の様子も併せて自由民権資料館の学芸員松崎稔さんに話を聞くためにこの日、最初に同資料館を訪ねた。松崎さんは、玄関口で一行を待っていてくれた。

若者らに自由民権思想を醸成する拠点の凌霜館が、いま町田市立自由民権資料館に

民権運動の活動拠点だった資料館

同資料館は、自由民権運動家だった村野常右衛門が若手の民権家を育てるために政治的野心に燃えた青年たちの思いを実らせるために明治16年(1882)に自身の敷地を提供して20坪(約66㎡)の「凌霜(りょうそう)館」を開いた場所だ。剣術を通して親愛と精神を鍛え、同時に自由民権思想を醸成する学習を盛んに行った。活動家が育ち、ここを拠点に民権運動が展開されていった。

この土地を村野家から寄贈を受けた町田市は昭和61年(1986)に市立自由民権資料館と名付けて自由民権運動や町田市の歴史に関する資料を中心に展示・保存する施設として開館した。自由民権運動を主なテーマにした博物館は、町田市のほか、三春町自由民権記念館(福島県)と高知市立自由民権記念館だけだ。

国会開設を求める若者ら

町田市立自由民権資料館の常設展示会場には武相・町田の民権をテーマに現在の多摩地域を含む神奈川県域の自由民権運動の歴史を中心に構成していた。展示してある出来事の始まりは明治12年(1879)の第1回神奈川県会の活動だ。県議は地域リーダーで政治参加の実現に意欲を燃やしてそれぞれが繋がりを広げ、以後の武相地域の自由民権運動の礎を築いたことに触れている。

明治初期の神奈川県会の動きを解説する松崎さんの話は具体的だった。「初めての選挙で選ばれた議員は、それぞれが初体験。発言も1回だけということも経験して、以後、ちゃんと討論できるようになるために地元でグループを作って議論の練習をしようと話し合った。問題を解決するために議会と同じ方法で討論しようと結社がたくさんできた。政治的なことを議題にするので関心が高まって、自由民権運動に板垣退助、大隈重信が中心に唱えていた、それまで新聞で読んでいたものに歩み寄っていく。結社が多摩地域を含む神奈川県でできていく。少しずつ政治に近づいて、国の議会もあったら良い、税金を払って兵隊にも行かないとならない義務を果たしているのだから権利をよこせという発想が出て、国会を作った方が良いと要求をしていく」と松崎さんは力を込める。

神奈川県では国会開設を求めて2万3555人の署名を集めて元老院に提出した。多摩地域の府中の軍人で白鷺城(姫路城)に詰めていた村井弁次郎が国会開設の建白書を出したことにも触れた。

豊富な資料を常設展示している会場で松崎さんの解説を聞く参加者
(町田市立自由民権資料館で)

自由党員が多かった多摩地域

神奈川県の自由党員の数を示したコーナーで松崎さんが言うには「97人が南多摩、40人の北多摩、西多摩は元々人口が少ない中で26人。神奈川県全体では多摩地区の自由党員が多かった。神奈川県は全国の中でも自由党員が多く、多摩地区の、特に南多摩でかなりの人数がいた。演説会を開いたり、印刷物を発行したり、横浜の寄席で演説会が開かれたり、八王子では大きな料亭を使った。寺院でも行われた。府中の高安寺でよく演説会を開いていた。当時は血気盛んで演説ができる人が重宝されて、演説の番付表も出されていた。言論活動、言葉の力で社会を変えられると信じて運動していた」。

移管賛否などを色分けした三多摩地域(多摩東京移管前史資料展図録から)

弾圧払いのける大阪事件目論む

抑圧の一面も沸騰する。松崎さんは「抑圧されていくと言論で勝負できないなら武力を使うしかないと、途中から入ってくる若い人たちは弾圧される経験しかないので反発が強い。この人たちが起こした大阪事件がある。神奈川県の人たちが多く参加した」。

大阪事件とは明治18年(1885)12月に大阪で起きた。多くは自由党員が参加した。同資料館の展示解説によると「背景には文明優位の考え方とナショナリズム的な傾向があり、朝鮮の開化派と手を組み、朝鮮政府を転覆させ、それにより起こるナショナリズムの高揚を利用して日本国内でも革命を起こそうと考えた」。計画は未遂に終わった。逮捕者は10人以上に上ったが、控訴理由から革命計画は外された。

「大阪事件の参加者は神奈川県が一番多かった。作った爆弾を川に捨てようにも近くに密偵がいるんじゃないかと、爆弾を来島恒喜という人に渡してしまった。この人は爆弾を大隈重信に投げ付けた。そのために大隈重信の片足は義足になったと言い伝えられている。証拠不十分で無罪になった後、町田に移ってきて村長になった。深刻な事件だということは察していただけるでしょう」

保守や改革派入り混じる自由党

こうした時代を背景に、松崎さんの話題は三多摩移管問題へ移った。自由民権運動は、国会を作って、立憲政治で憲法と国会を開くことが最大の目的だった。明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布され、翌年、これに合わせて衆議院議員選挙法の下で選挙が行われた。その結果、明治23年に第1回帝国議会が開かれた。

松崎さんは言う。「その頃、多摩のメンバーは自由党主流派に入っていた。元々神奈川の自由党はとても強い。その動きに違和感を持って批判、分派して北多摩郡正義派を名乗った。対立が深まっていく。中にはグラデーションな感じの人もいて、自由党主流派に一応いるけれど正義派に近い人たちもいた。大阪事件を起こすような血気盛んな人たちを抱え込んで政治運動を政府と偽りの対決をするぞという姿勢の人たち。割と官民協調路線というタイプもいる。その人たちとの対立です」。

吉野泰三と石阪昌孝の一騎打ち

明治10年代終わり頃には明治天皇誘拐計画も持ち上がった。「今の(多摩市)連光寺、聖蹟桜ヶ丘で明治天皇が兎狩りに行くところを誘拐して、もう一度戦争だ!と計画を練っていた。未遂に終わって逮捕され、軍法会議にかけられた。この計画が露見した理由は、こうです。別件逮捕された民権家が『俺を逮捕するよりアイツを逮捕した方が良い』と取り調べで白状して真犯人が指名手配されたというわけです。この対立状態のまま1回目の選挙(明治23年)に入ります。北多摩郡正義派リーダー・吉野泰三と南多摩郡主流派の石阪昌孝との事実上の戦いになります。多摩は3郡(南多摩・北多摩・西多摩)あって2人区。2人区だから1人ずつ当選しそうなのものだが、当時の選挙制度で1枚の投票用紙に定員分の名前を書くわけです。2人区だったら2人の名前を書く。石阪を応援する人が吉野の名前を書くわけがない。石阪と提携している別の立候補者を用意できれば、その人の名前を書く。でも吉野は、仲間のもう1人を立候補させることができなかった。吉野を応援する人も瀬戸岡為一郎か石阪の名前を書かなきゃいけなくなったら、吉野が負けますよね。党派どっちを応援するかと言えば主流派の方が強い。一番人口が少なかった西多摩から当選者が出て、北多摩は勝てない状態が続き、どうにかしたいと北多摩郡の人たちは思うわけです」

石阪昌孝
村野常右衛門
吉野泰三
瀬戸岡為一郎
比留間雄亮

選挙妨害の指示を出す

「そんな時、2回目の選挙(明治25年)があり、神奈川県の自由党が強いからどうにかしろと政府から命令が出ています。そこで自由党を邪魔する運動を展開します。多摩では不当解雇された人が拷問を受けているという資料が残っており、森久保作蔵は軟禁状態で運動ができない中でも自由党が勝った。その結果、県知事の辞職勧告決議案が可決されて辞めざるを得なくなった」

神奈川県側から出た移管案

「その時、知事が考えたのが、元々東京は多摩を欲しがっていたことだった。玉川上水の源水を管理したがっていた。このタイミングで自由党が一番強い南多摩をセットにして玉川上水が通っていない南多摩も一緒にあげると持ちかけた。東京は玉川上水が貰える、とお互いの了解が得られて、国にお互いに三多摩を移管したらどうかという上申書を政府に同じ日に出して、国が認めて国会に法案が出されたのが明治26年(1893)2月18日、可決されたのが2月28日、法案が出されてから審議に入るのに2〜3日かかるから実質1週間の審議で首都圏が変わった。その後、三多摩は4月1日から東京府になった。国民が東京移管を初めて知ったであろう日から40日間で所属する府県が変わるという、あっという間の出来事です。元々玉川上水の水道水が問題だと言われがちだけど、水道水の水源管理のために流域を一括して管理している府県があるなんて聞いたことがない。京都府は琵琶湖を持っていない。利根川の上流から全部同じ県になっているか、というとそうじゃない、多摩川の源流は山梨県です。三多摩の東京移管は政治の問題が絡んでいたからだということ」

多摩めぐりの一行の多くは、ウソ? ホント?の面持ちで、これから始まる松崎さんのレクチャーを別室で受けることになる。以下は、その概要。


発端は外国人の居留問題だった

三多摩移管は、かなり根深い話ですから明治初年から話さないといけない。幕末に横浜が開港し、横浜から10里(約40㎞)四方を遊歩区域といって外国人が自由に歩いて良い場所に設定されていました。横浜から40㎞圏内を多摩地域でいえば八王子の市街地に入り、日野にも行けます。多摩川を渡っては行けないという合意なので府中へは行けない。

史実を具体的にわかりやすく話してくれた
学芸員の松崎稔さん

その10里四方を一括管理しようと、元々神奈川府が行っていたところです。明治元年(1868)9月に神奈川県という名称ができ、廃藩置県でいう県ではなく、主要なところにだけ県という行政府ができた。多摩地区は武蔵知県事が管轄していた。韮山県は幕末まで江川代官の支配下にあったので韮山県の管轄郡という個所もあった。それが全部神奈川県に移管されていく。明治4年に廃藩置県が行われ、当時、全国に100県以上あって、特に幕府の支配下にあったかなりが4ヶ月経って明治4年11月4日、新たな府県に統廃合されていく。この辺りの多摩郡は入間県と東京府の所管に入る。入間県は今の埼玉。保谷は元々多摩郡に入っていなかった。元々神奈川県の管轄だったのが、ほんの一時だけ東京府の管轄に入った。

これに対して11月16日に神奈川県が従来の管轄地の移管を希望した。この時の神奈川県知事は陸奥宗光。外交畑で活躍し、不平等条約が撤廃される時に活躍した。移管問題の管轄は元々大蔵省だったようで、多摩郡と高座郡の神奈川県編入を決定した。高座郡は今の相模原市や座間市。神奈川県の一部も一時、東京府だった。この年から翌年にかけて少しずつ神奈川県に編入されていった。細かいことはよく分かっていない。

国が玉川上水を管理していた

一旦、多摩郡全部が神奈川県に移ったが、そのうち中野村ほか31ヶ村が東京府に戻る。今の中野区辺り。その後、明治11年の郡区町村編制法によって多摩郡が4分割され、東多摩郡が東京府、残りの3つが神奈川県に入ったので三多摩といわれた。多摩郡が神奈川県だった歴史の方が古い。

先ほど、東京府は玉川上水を管理したくてという話をしたが、当時、玉川上水の管理事務が国にあった。民部省の土木司という部署です。その時に玉川上水に運輸用の船を通していた。自殺の名所と言われるほど今よりはるかに水の量は多かった。船運は水が汚れてしまうからか、2〜3年で禁止されます。明治6年(1873)には玉川上水沿いの諸村に東京府編入の希望が出ました。郡全体ではなく玉川上水に接している村だけ東京府が希望しますが、認められるわけがない。水道水を管理したい東京は、玉川上水の管理、通船もどうかと、国が認めたものを東京府がダメといい、衛生管理をちゃんとしたいというのは明治の早い時期からあった。

自由党解党、北多摩正義派誕生

そんな折に自由民権運動が始まる。明治20年(1887)代に入ると、自由党は明治17年に解党して、運動母体の組織がない状態で明治21年に新たに神奈川県通信所という組織を作り、バラバラになった仲間たちに連絡を取り合ってネットワークを作る。翌年、神奈川県倶楽部という政治団体というよりは社交的に緩く集まった組織を作った。政党を名乗ると届け出をして法的な規制もたくさんあるので厄介。この倶楽部から分かれたのが北多摩郡正義派です。吉野泰三を中心とするメンバーと神奈川県倶楽部の自由党主流派の人たちの争いが起こる。1回目の選挙で石阪昌孝、瀬戸岡為一郎が当選し、吉野が落選したという先ほどの話に繋がっていきます。

同じ歳の石阪と吉野は、それまで一番分かち合える仲間でしたが、言論弾圧が厳しくなってから行動の選択が違ってきて、急進的な動きを認める石阪と、それを好ましく思わない吉野。後年、吉野泰三の孫が戦時中に町田に来て、帰りが遅くなり泊めてもらうしかなくなったらしい。囲炉裏を囲んで団欒している時に「三鷹の吉野っていうことは吉野泰三の家か」と問われたそうです。昭和の時代ですよ。「世が世なら生きて帰せねぇな」と言われたという話を私が直接聞きました。

上水がコレラに汚染される?

明治19年8月、東京府知事が西多摩と北多摩を東京に移して欲しいという願いを内務省宛に出している。玉川上水は西多摩の羽村から始まって、北多摩を横断している。玉川上水を管理するために西多摩と北多摩を欲しいというわけです。ところが、同年8月20日ごろ、今の青梅市長淵で多摩川に流れ込む小さい川でコレラ患者の嘔吐物で汚れた衣類を洗濯してしまった。玉川上水にコレラ菌が流れ込んだら東京に住んでいる人が感染してしまうわけです。当時、コレラに罹患すると、かなりの確率で死んでしまう。東京がパニックになる。東京では衛生問題が重要な課題になってきた。

北多摩から多摩東京移管要望書

一方で明治22年になると、今の中央線が夏までに新宿-八王子間が開通し、北多摩の人たちも交通網で東京志向が強くなっている。府中の比留間雄亮が三多摩移管運動を熱心に展開し始めます。吉野泰三、下田太郎右衛門という田無の人でしょうか、東京に移管したいという要望を出し始めた。

そんな時に郡制度ができた。これに合わせて北多摩では東京府に移管した上で、元の多摩郡、東多摩と一緒になって新しい郡にしようと考える田無の人たちがいた。一緒にすると府中は端だから我々の田無こそ真ん中だ。郡役所を田無に移そうと。北多摩郡独立を維持する運動を起こしたが、移管賛成派が分裂して住民運動は空中分解した。

両府県知事が移管上申書を政府へ

2回目の選挙で、吉野は南多摩から1人立候補者を出せば、石阪票を削れるかもしれないと、八王子の平林定兵衛を担ぎ出すが、また石阪と瀬戸岡が勝った。その7ヶ月後の明治25年(1892)9月20日に東京府知事と神奈川県知事が各々、移管上申書を政府に出しています。10月13日には警視総監も上申書を出して、12月になって神奈川県会が2回目の選挙で選挙干渉を行った知事らの罷免建議案を可決、16日に県議会が解散に追い込まれた。翌年3月10日に県知事が辞任した。

松崎さんの話を興味津々で聞く多摩めぐりの参加者たち

立憲改進党が賛成に回る

両府県から出された三多摩移管上申書について遡ると、内務大臣が三多摩移管法案を閣議に提出したとはいえ、秘密裡に行われていて、他の議員も知ることができなかった。2月18日、三多摩移管法案が帝国議会に提出され、特別委員会を設置して21日から審議が始まった。実はここで移管法案が否決されたが、本会議では衆議院と貴族院の両方で可決された。なぜかというと、自由党は反対だけれど、立憲改進党が賛成に回った。政府と対決するはずの2大政党が分裂したことで賛成派が多くなった。賛成・反対論は多摩の結社の中で分かれていた。議員が地元意識を鑑みた結果だった。

神奈川県会史2巻から作成した
三多摩移管の投票数

東京志向強める多摩地域

北多摩や南多摩、西多摩郡の交通の便を見ると、玉川上水沿いの地域と青梅街道沿道と甲州街道沿道、甲武鉄道がそれぞれに走っている。川越鉄道と青梅鉄道が1〜2年後に開通する。流通ルートは全て東京へ向かっている。それぞれの沿線に移管賛成派がいる。ところが全体で見ると北多摩、南多摩、西多摩の自由党は全部反対。こぞって町長が辞職して役場を閉めた。次の選挙ができないので、いっとき東京府の役人が移管の直後に派遣されてきて村長を代行しています。1年以内に選挙をやり直して、村長を決め直して正常化していく。この移管問題で行政が麻痺していた。

投票を棄権した西多摩選出議員

なぜ、こうなるのか。南多摩の選挙票で西多摩の代表を当選させてもらえている。だから南多摩を裏切れない。言うことを聞かないと自分たちの代表者を国会に送り込めないという忖度があったと考えて良い。実質は青梅鉄道が通るし、東京に移っても良いという声が少しずつ出てきていた。

移管問題は国会で可決されたが、南多摩の石阪、西多摩の瀬戸岡は、どう投票したか。石阪は反対、瀬戸岡は投票せず、議場から姿をくらました。おそらく裏切るわけにもいかないが、実際は移管した方が西多摩のためだと思い始めていたか。苦渋の決断で議場から消えた。この結果、次の選挙から瀬戸岡を推薦する声が上がらず、瀬戸岡は政治の表舞台から消えた。

神奈川県知事の“本音の書簡”が語る

明治25年2月12日、選挙3日前に神奈川県知事だった内海忠勝が松方正義に宛てた書簡がある。内海は、松方宛の手紙で八王子は昨今、苦戦している。巡査100名ほど繰り出させた。これで旧議員石阪、瀬戸岡両人とも打ち倒し、味方全勝と綴り、勝ったも同然の自信満々を記している。多少の争いは免れないが、三多摩壮士との間での暴力沙汰も覚悟していたと綴っている

2月20日付の内務大臣・品川弥二郎(2回目の選挙に干渉せよと命令を出した)宛では「大敵を一人も倒すに能わずは不手際千万。今更一言半句も無し」「将来を考えうれば、本件には政党の本域を乗り崩すと申すことはなかなか容易の技これなし」と綴り、神奈川県の警察の力では政党を倒すことはとてもできないと感想を述べて、自由党の強さに驚いている様子だ。

明治25年10月19日付の井上馨に宛てた書簡もある。井上は、選挙干渉の責任を取って辞職した品川の後の内務大臣だった。「三郡のやつらが知事を放逐の運動をしていて今度の県会で攻撃をしようとしている。知事を放逐するより三多摩を放逐してはどうかと考えて県会の前に移管発表に向けた準備をしたが、間に合わない事情は了解した。次の国会ではぜひお願いしたい」と早く移管を発表してほしいと訴えていた。

国の政策と国会の対面に腐心

これらの書簡は三多摩移管100年の平成5年(1993)頃に見つかったもので、三多摩移管は、それまで政治問題だろうと考えられていたが、この資料で知事の考えが明らかになった。知事の思うように早く移管発表ができなかったのは国会で審議する段取り無しに移管を決定することは政府としてもできないと断ったのだと思います。中央集権的な政府と民意を常に反映させる民権家との対立とも考えられるけれど、知事は民権家を追い出したい、政府は国会が政府主導だといっている。それを無視しないで、審議は大事なものだと思っている。ただ住民の意向が聞かれる機会はなかった。民意を反映できていないが、ただし国会という場で国の政策としてどういう行政区になればいいかという判断は、一応代理制度で民意を反映したと建前上はなっている。国の政策として、建前は政府が考えたという駆け引きの結果が、この書簡で見えてくる。知事が「やつら」「放逐」という言葉を使っている書簡が出てきたのは非常に興味深い。

元々横浜開港の遊歩区域の管理という課題から始まっているが、東京指向が強い北多摩が見えてきた。郡制が施行された時に住民の思惑が分裂して、停滞してしまい、東京府は明治19年以来、26年までの間、何の要望もしていない。東京としても諦め気味だった。そこで第2回選挙で神奈川が動いて移管が実現した。水道水の問題に端を発しているけれど結論としては、政治問題が浮上したから移管が行われたと言える。


史実に基づいた松崎さんの話は、ドラマの筋書きのようで口うるさい議員を県外に追いやるために政争の具にさらされた三多摩移管問題だったのだ。長年、胸の内でモヤっていた多摩東京移管の要因が晴れたような面持ちで、さらに石阪昌孝にゆかりが深い野津田神社へ、多摩めぐりの一行は向かった。

村人たちが心を寄せた野津田神社

神社に地元の安穏願った石阪

野津田神社の創建は不詳というが、江戸時代の元禄13年(1700)に湯花神事が行われており、享保2年(1717)には五社明神と呼ばれていたことも町田市史にある。明治21年(1888)に御霊神社と改め、さらに21年後に近くの春日社、幸山社、伊勢社、御嶽社を合祀して野津田地域の総鎮守、野津田神社に改めたという。

総鎮守の拝殿前の灯籠横でガイドの吉田敏夫さんは話し出した。「民権運動のリーダーだった石坂昌孝が文久2年(1862)に寄進したものです。見てください、ここにその趣意が刻まれています」。170年の風雪に耐えた文字が読み取れる。石阪が父・昌吉の遺志を継いで「不肖の昌孝が建てた」とある。その昌孝の意思を刻んだ灯籠には「威霊光被」「闔郷(こうきょう)安穏」の文字で表した。神の力を浴びて地域の安穏を誓ったのだ。20年ほど後に、この地に吹き荒れる民権運動を陣頭指揮することを予感していたか。

石阪昌孝が野津田神社拝殿前に建立した灯籠を見つめる参加者

名主、小野郷学、県会・国会議員へと

石阪は、天保12年(1841)に野津田村で生まれて間もなく母の実家、石阪又二郎家の養子になった。養父は昌吉で、昌吉は文政11年(1828)26歳で名主を務めていたが、安政4年(1857)に病死。若い昌孝が後継になった。昌吉は、昌孝に名主職を託すにあたり、後事と指導を小野路村名主・小島鹿之助(為政=1830~1900)に頼み、昌孝と義兄弟の縁を結んだ。

昌孝は、その後、小島鹿之助とともに小野郷学を設立。戸長を務め、明治6年(1873)4月には町田、多摩、稲城の全域、日野7村、八王子11村、川崎1村の第8区長になった。地域と共に歩む昌孝の姿勢は、それだけでは収まらず翌年、神奈川県令・中島信行(のちの初代衆議院議長)の下に就く権小属(ごんのしょうさかん)に任命された。

さらに小野郷学の運営に関わった人々を中心に、明治11年(1876)に自主対等に討議し、知識を深めるために「責善会」を作った。こうして昌孝の地方行政の評価が高まり、明治12年(1879)2月の神奈川県議会選挙に当選、初代議長になった。翌年、議員辞職した。

一方で折からの外国との通商上の不平等を打開するべく小野郷学に加わっていた村野常右衛門(1859-1927)と明治13年に東京生糸商会を設立して養蚕製糸業の発展に努めた。同14年には民権の拡大、立憲政体の基礎を確立しようと神奈川県内の民権家を統一する融貫社を原町田の渋谷仙二郎と共に開いた。

石阪、吉野の盟友が分裂へ

停滞気味だった民権運動は明治20年(1887)には自由党解党後、大同団結の機運を契機に活発化して神奈川県政に影響を与えた。民権運動の中堅、若手(壮士)の発言が強まり、他の県会議員と軋轢が生じ、壮士批判派の議員への打撲事件も起きた。壮士を擁護した石阪昌孝と批判派の吉野泰三(1841-96)が対立した。2人は神奈川県の民権運動を主導した盟友だったが、分裂に繋がった。

昌孝は、大日本帝国憲法発布(明治22年2月11日)の下で明治23年7月に行われた第1回衆議院議員選挙で自由党として当選以来、連続4期務めた。明治29年(1896)の伊藤博文内閣で群馬県知事に任命され、足尾銅山の鉱毒問題に向き合ったが、事態を収拾できず8ヶ月で罷免された。明治30年(1897)に政界を引退し、10年後の1月13日、東京市牛込区北町の自宅で亡くなった。

静かな野津田町にマッチした石垣の植え込みを見ながら・・・

緑覆う「民権の森」に眠る

野津田村の名主でもあった石阪昌孝が長く住んだ屋敷跡へと多摩めぐりの一行は足を進めた。高台に「民権の森」と名付けられた、そこは初夏には爛漫のボタンが咲き乱れる「ぼたん園」と隣接した緑濃い森だった。平成2年(1990)1月に開園した。クヌギやコナラなどが多い約1万4400㎡の緑地帯だ。

「人権の森」に隣接する「ぼたん園」ではヤマザクラか、エドヒガンザクラだろうか、
秋の陽気に誘われて咲いていた



  初夏には色とりどりの
  シャクヤクやボタンの花が
  にぎやかに

民権運動の最高指導者と呼ばれた石阪昌孝。66歳で亡くなって、今年で116年になる。口角泡を飛ばして自由対等に論争したであろう一方、仲間同士、個人的な悩みも打ち明けたという。その思想の源がこの森だった。

高台にあった石阪昌孝の墓

娘美那子と北村透谷の出会いの場

「民権の森」にある「自由民権の碑」には昌孝の長女・美那子と文学者で詩人でもあった北村透谷の名もある。明治18年(1885)夏、美那子は北村透谷と初めて、この石阪家で出会った。透谷は神奈川県議会の臨時書記で三多摩自由党員と面識を持っていた。以来、透谷は民権運動に加わる中、石阪家に出入りしていた。美那子は民権壮士とは異なる思索をする透谷に強い印象を抱いた。透谷は、親交があった人々が大阪事件に連座したことなどから自由民権運動から離れるようになっていた。2年後に2人は東京で再会し、明治21年(1888)11月、数寄屋橋教会で結婚した。透谷は文学者としての道を本格的に歩み、自身が編んだ「楚囚之詩」(明治22年刊)や「蓬莱曲」(明治24年刊)、さらに明治25年に「厭世詩家と女性」を出版して自身の恋愛体験を世に出して文学者の地位を築いた。透谷文学に大きな影響を与えたといわれるキリスト教への入信も2人の出会いがあったからだ。

美那子と透谷が出会ったゆかりの地が昌孝の屋敷であり、いまの「人権の森」だ。透谷は元々、健康が優れず、経済的に困窮もしており苦悩が深まっていた。明治27年(1899)芝の自宅で自死、美那子には5年半の結婚生活だった。

結婚して記念写真に納まる
北村透谷と美那子

美那子、渡米した9年間

美那子は、知人を仲立ちにして渡米を決意。6歳の長女・英子(ふさこ)を透谷の実家に預けて明治32年(1889)からインディアナ州やオハイオ州のカレッジで9年間学んだ。帰国したのは明治40年(1907)。16歳になっていた英子を引き取り、美那子は豊島師範学校英語科で教鞭をとった。その後、品川高等女学校で英語教師を務めた。昭和11年(1936)に退職した後、英子の自宅、世田谷区北沢に身を寄せた。6年後の4月10日に亡くなった。

参加者で自由民権の碑を囲んだ

石阪支えた村野常右衛門も

野津田村に欠かせない、もう一人の自由民権家・村野常右衛門に触れたいと、一行は、さらに民権の森の丘から下ること15分ほどの高野山真言宗の密教道場である華厳院へ向かった。境内の深緑の中で大木のイチョウが秋色を際立たせていた。

秋の色をいっぱいに見せていた華厳院境内

華厳院の創建年代は不明だが、奈良時代の天平年間(700年代前半)に荘厳な大寺院だった福王寺が焼失、衰退を嘆いた興満上人(天正4年=1576年寂)が再興して明王寺(みょうおうじ)とし、その後、華厳院に改めたと伝わる。現在の本堂は昭和51年(1976)に新築した。

本堂背面の、傾斜する高地に村野常右衛門の墓地があった。常右衛門は、野津田村で安政6年(1859)7月25日に生まれた。横浜が開港した年だ。村野家は名主や組頭などを務めた家の長男で、父が亡くなった翌年の明治2年(1869)に家督を継ぎ、五代目常右衛門を襲名した。10歳だった。明治4年には幕府の洋書所上級役人の真下晩菘(ばんすう=1799-1875)が興した融貫塾に入門、さらに明治8年に藤沢にあった耕余塾に入り、医師・平野友輔、すでに僚友だった民権活動家の石阪昌孝の娘・美那子らと知遇を得た。

村野常右衛門の人生を語る吉田さんの話に耳を傾けた

自由民権運動の片腕のリーダー

明治11年には町田の責善会に参加するなど自由民権運動に参加して、同15年(1882)自由党に入党。明治16年(1883)文武道場凌霜館を開き、石阪昌孝らと若手民権家を育てた。大阪事件に関与して禁固1年の刑を受けた。明治22年11月に神奈川県会議員補欠選挙で当選。2年後、衆院議員の石阪昌孝を支えるために辞職。自由党主流派との対立が表面化して三多摩など関東の自由党員は明治30年2月28日、新自由党を名乗り、村野は幹事になり、次世代の三多摩の政治的リーダーの地位を築いて行った。さらに明治31年の衆院選挙で憲政党員として当選、その後も伊藤博文総裁の立憲政友会の一員として連続8期当選。星亨や原敬らの信任が厚く、大正2年(1913)の西園寺公望総裁時代に幹事長、後の原敬総裁の右腕となり、総務委員を務めるなど党の中枢を歩んだ。晩年まで政党政治家だった。

一方で村野は実業家の顔も持ち、横浜鉄道(現在のJR横浜線)敷設の監査役であり船の輸出入に寄与する横浜倉庫の監査役を経て社長に就いた。華厳院の墓地に眠る村野の墓は、生け垣に囲まれて落ち着きが漂っていた。

「おいしい水」求めて研究の日々

この日の最後の訪問地へ向かった。ウォーターサーバー用の水を製造・販売している(株)NAC(ナック。Nisiyama.All.Compnyの略)だ。創業者の西山由之さんは18歳(1960年)で群馬から上京してダスキン販売のディーラーを経て、昭和46年(1971)、自身が移り住んでいた町田でNACを興した。

同社の愛称を「クリクラ」と名付け、町田工場をはじめ、全国43ヶ所で月産427万本を50万件に宅配している。クリクラとは「クリエーティブな暮らし」に役立ててほしいという思いを込めたという。

クリクラの水について説明する同社コンシェルジュ

同社はまた、東証1部上場企業であり、町田市内でほかに2社ある企業(ギフトHD=横浜家ラーメン、ケーユーHD=自動車販売)よりも早く平成11年(1999)に上場した。現在は東証プライムに上場している。

公営水道生かしてミネラル加える

工場内にある中央研究所では顕微鏡を使うなど水の成分を分析し、衛生度を高める研究に怠りがない。ボトルの洗浄や水を詰めるなど全工程で人の手を除く自動処理で安心・安全度を高めている。

民間の飲料水といえば、独自の掘削で源水を汲み上げる印象が強いが、クリクラでは各工場がある自治体の水道水で賄っている。地下水よりも雑味がなく、これにさらに安全・安心度を高めるために独自のシステムを組んでおいしくしている。

その一つにミネラルを加えていることだ。海外の多くの国の硬水に比べれば、日本の軟水にはミネラル分が少ない。急流が多く流路が短い日本の河川に比べて、海外の河川は流路が長い分、ミネラルを多く含みやすいという特徴がある。和食に合う軟水に比べて、洋食には硬水が合うといわれるが、硬水では煮崩れしにくい分、出汁が取り出しにくい。軟水は出汁を取り出しやすいのだ。まろやかな軟水に比べて硬水は、さっぱりしていた。飲み比べも体験した。海外の水の展示会場には48ヶ国1383本の飲料水を置いている。ボトルデザインの華やかさにも気持ちが弾んだ。

世界48ヶ国1383本のボトルは色鮮やかだった
吉田さん
吉田さん

最初に訪れた町田市立自由民権資料館(今年10月、愛称が「まちれき」に決まった)では学芸員の方から展示資料の解説や三多摩東京移管の理由などを分かりやすく話していただいた。特に、最近見つかった当時の神奈川県知事の手紙から、自由民権運動家に対する知事の本音が伺える解説は興味深かった。

野津田出身の石阪昌孝や村野常右衛門を調べて行くうちに、幕末から昭和までの時間の流れが短く感じられ、人とのつながりをたどれば意外な人が浮かび上がるなど、遠い昔の出来事でなく、身近に感じられました。

クリクラ町田工場では、軟水・硬水の飲み比べや含有塩素のちょっとした実験があって、水の特性を知るいい機会でした。また、製造ラインのコンパクトさにも驚かされました。

風もない小春日和の一日、皆さん愉しんでいただけたでしょうか。

【集合:2023年11月22日(水) 午前9時40分 小田急小田原線鶴川駅北口/
 解散:クリクラ町田工場 午後3時半ごろ】