「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第4回多摩めぐり~多摩を深める 八王子市恩方地区
案下道(あんげみち)に息づく文化と人を求めて

中村雨紅も鐘の音に心を響かせたのだろう(興慶寺で)

ガイド:関根充さん、須永俊夫さん、前田けい子さん、永江幸江さん

 八王子市北西部に位置する恩方地区は、北浅川の源流部で、両岸が小高い尾根に挟まれた「案下(あんげ)谷」の集落だ。7月22日、4回目の多摩めぐりは、この里で育まれた文化と人にふれることだった。題して「案下道に息づく文化と人を求めて」。参加者一行は26人。ここを初めて訪ねる人もいて「どんな情景に出会うのか楽しみ」と興味津々の面持ちで北浅川を遡った。この夏特有の猛暑を避けたコースで参加者の暑さ対策が功を奏して一日を楽しんだ。
 

1. 八王子車人形西川古柳座

主流の3人遣いに工夫重ねた

 最初の訪問地は、八王子車人形西川古柳座の稽古場。出迎えてくれたのは、舞台中央に鎮座する人形の翁だった。その背景は重厚感がある老松を描いた松羽目の舞台装置。八王子車人形は、江戸時代末期に現在の埼玉県飯能市に生まれた山岸柳吉(初代西川古柳)が考案したもので、現在5代目西川古柳を継承する瀬沼亨さん(64)の解説で幕が開いた。
 「ろくろ車」といわれる車人形は、前に2個、後ろに1個の車輪がついた箱型の車に腰かけて、1人の人形遣いが1体の人形を操る人形芝居。18世紀に大坂で成立したといわれる3人遣いのろくろ車を合理的に工夫したものだ。 
 古柳さんは「江戸時代中期に差し掛かるころ、近松ものの曽根崎心中に代表される町人の芝居といわれた世話物が人気だった。それまでは時代物といわれるお武家芝居が主流でした」と3人遣いが一般的だった歴史を振り返った。
 1人でも公演できるように工夫を重ねた最大の特徴は、人形の足が直接、舞台を踏めることだ。力強くリズミカルに演技ができるのは、他の人形芝居では見られないという。
 若手の中心メンバーである古柳さんの長男、創さん(学生)が能の「翁」を下敷きにした「三番叟」を披露してくれた。五穀豊穣を祈る祝いの舞だ。前半の「揉(もみ)ノ段」は、農事にかかわる地固めを表す足拍子を力強く踏み、軽快かつ活発に舞う。一人遣いならではの足拍子だ。後半の「鈴ノ段」は鈴を振り、種まきを思わせる所作に豊作を祈願するひたむきさが、創さんが操る人形の手や足、腰から匂い立つ。

西川創さんが演じた三番叟

渡邉紀久代さん(左)に人形の操り方をアドバイス受ける戸田守彦さん

 参加者の中に車人形を初めて見る人もいて会場は、水を打ったように静まった。操る人形の衣擦れの音、ろくろ車が動く風だけを感じた。
 再び古柳さんが舞台に立った。人形を分解した首(かしら)、左手、右手、ろくろ車を用意して人形の仕組みと動かし方を説明した後、会場の一人を呼び込んで体験させてくれた。
 戸田守彦さん(多摩市)は、座員の渡邉紀久代さんにアドバイスを受けた後、古柳さんのリードで実際に腕を動かすが、「自分の左手と右手のそれぞれの指を別々に動かして全体の動きを一つにすることのなんと難しかったことか。低い箱型の車に腰かけているだけだが、背筋と腹筋が痛い」と汗びっしょりだった。

 古柳さんは「東海道中膝栗毛」を自ら演じた。江戸時代の、弥次さん喜多さんの珍道中物語だ。古柳さんの手にかかると、人形に血が通い、堅いはずの人形の骨格がしなやかで、打ち出す驚喜と哀楽の細やかさが際立つ。それが見る側に滑稽さと切なさがない交ぜになって伝わった。
最近は海外の作品にも取り組んでおり、創さんが真っ赤なドレスを着せた人形を操り、テンポの速いフラメンコを披露してくれた。

生きているように人形を遣う西川古柳さん

ガイド:須永さん

一週間続きの記録的炎暑の中での多摩めぐりの会でしたが、無事に終えられて安心しました。今回のメインである車人形のご紹介については、家元本拠での口演つきの実演鑑賞など予想を大きく上回る嬉しい成果=感動が得られました。炎暑対策のコース一部変更で、バス便が少ない中でのスケジュール繰り回しにも我慢していただいた参加者の方々に感謝します。

2.宮尾神社・夕焼小焼の歌碑

涼感にのせて歌い始めた

 この日も今夏特有の暑い日だった。日差しを避けるために西川古柳座最寄りのバス停からバスに乗って夕焼小焼で降りた。そこから向かった宮尾神社境内は緑陰だった。宮尾山の斜面下から吹き上げてくる風に乗ってきた北浅川のせせらぎの音が汗まみれの体を癒す。
 宮尾神社は、正式には住吉神社琴平神社合社といい、宮尾山上にあることから宮尾神社と呼ばれる。創建は元暦年間(平安時代末期の1185年ごろ)。旧恩方村の村社で村人たちは、稲作豊穣や開運、街道の安全を祈願したという。

 この境内にあった自宅で明治30年(1897)2月6日に産声を上げたのは高井宮吉。後の中村雨紅(昭和47年5月8日逝去、享年75)だ。拝殿前に雨紅が作詞した「夕焼小焼」の歌碑がある。雨紅の生い立ちを解説していたガイドの須永俊夫さんが話し終えたとき、参加した女性たちが童謡「夕焼け小焼け」を歌い始めた。

童謡「夕焼小焼」の碑の前で参加者たちが歌い合った(宮尾神社で)

 宮尾神社の坂を降りて、全員で昼食後にいただいたのは、もぎたてのブルーベリーだった。

上恩方地区を中心に19軒の農家が栽培している。私たちが頬張ったのは中村昇さんが育てたもの。果実は大きく、ジュースはたっぷり。今年は特に際立つという糖度も高かった。
 恩方の土壌は、水はけがよく、保水力が高い。土地柄にあったブルーベリーだ。東京都の収穫量は、長野県に次いで全国2位の12%(2014年)を占めており、多摩各地の生産者とともに恩方産もシェアを底上げしている。

みんなで食べたブルーベリー

3.留番所跡・松姫の碑・金昇庵の碑

番所勤めにあたった村人36人

 案下道といわれる陣馬街道を西へ歩く。街道北側は宮尾山の尾根が立ちはだかり、街道を挟んで南側に沿う北浅川の水は、所々の大石を食んで光り輝きながら流れ落ちる。炎熱が肌をなでる分、水の涼感が恋しい。この北浅川を覆うのは八王子城跡の深沢山の斜面。街道を遮らんばかりに両斜面が迫り、そのすり鉢の底を縫う街道は、戦国時代から江戸時代に至るまでの甲州裏街道らしさを物語る。

 歩き始めて数分だった。街道沿いに重量感がある長屋門が出現した。尾崎家だ。関東で勢力を誇っていた北条氏が甲州口を警備するために案下峠(和田峠)に設けた口留番所を徳川幕府が継承した。その後、この里の高留に移した。地元では、いまもこの一帯を「関場」と呼んでいる。番所は、村持ちで尾崎家小川家が関守を務めていた。両家ともに今も長屋門を構えている。口留番所が廃止になる明治2年(1869)まで村人36人が交代で任務にあたったという。

涼感いっぱいで手足を浸したかった北浅川の清流

 口留番所跡は小川家の西側だった。甲州街道は、本道が上野原から南に回り、小仏峠を経て八王子・追分に至るのに対して、上恩方方面の裏街道は上野原で北側に入り、和田峠を越えた。ここでさらに分岐し、東に直進すると上恩方へ。北上して醍醐丸を経て山を下りる回り道がある。この2本が合流する地点に口留番所が置かれていた。武田勢の出入りが最大の眼目であり、番所勤めの村人たちはお触れに気を張り、往来に厳しい目を向けていたのだろう。

山川越えて逃げおおせた松姫

 この番所跡には「松姫乃碑」と「金昇庵跡」の石碑がある。松姫とは武田信玄の息女。後の信松尼(金龍山信松院)。織田信長に敗れた武田一族は滅亡。松姫は甲府から塩山へ。さらに塩山から山を越え、川を渡りして甲州裏街道を逃げ延びた。安住の地は容易く見つからず、逃避行の末、上恩方の山間の金昇(照)庵に身を寄せた。下恩方にある心源院の門弟になり、出家して信松尼となった。

番所跡に建つ松姫の碑と金昇庵の碑を見る参加者

その後、現在の八王子市台町の信松院で26年間暮らした。元和2年(1616)56歳の生涯を閉じた。武田家臣だった江戸幕府代官頭の大久保長安は草庵を造る援助をし、一方で信松院は、八王子千人同心の支えになっていたという。

2人の足利学校校長を輩出した

 長い谷あいの集落とかかわりが深い歴史上の人がほかにもいる。栃木県足利市に残る、日本最古の学校とか、日本最古の総合大学と評価されている足利学校18代校長(庠主=しょうしゅ)だった山室青郊和尚こと藤九郎は、上恩方で延享元年(1744)に生まれた。43歳で校長になり、18年間務めた。11代将軍徳川家斉に校舎の増築を陳情するなど教育環境を整えるのに尽力したという。藤九郎よりも2代前の校長も恩方出身の渡辺月江(げっこう)で、「2人のことは当時、山里のこの地で随分と語られていたのではないか」とガイドをした永江幸江さんは、2人を中心に地元の人たちに思いを寄せていた。

ガイド:永江さん

案下川の川べりで束の間の涼を得てホッとしました。足利学校庠主の出身地は全国に渡っていますが、月江、青郊という2人の庠主を八王子の恩方から時を経ずして輩出したというのは興味深いことです。青郊の生家である山室家は、平家の末裔と称していますが、一門の誰かが地方の一豪族として生き延び、都の文化をこの地の文化・産業の発展に役立てていたとも考えられています。

写真家、教育者、作家も・・・

 いま北海道美瑛町や富良野の自然景観に人気があるが、その先駆者は写真家の前田真三だった。この前田も下恩方出身だ。前田の父・林太郎は、織物商の傍ら、針葉樹ではなく、山里に合うサクラやカエデなど落葉樹を植林して観光資源にすることを提唱した。
 村人に読書を勧めた教育者・平井鉄太郎は、私費を投じて村に図書館を建設した。放浪詩人といわれた作家のきだみのるは、戦前から恩方に移り住み、小説「気違い部落周遊紀行」を著し、今も読み継がれている「ファーブル昆虫記」を翻訳した。

4.興慶寺・カシワの葉・歌碑「ふる里と母と」

江戸生まれの「柏餅」支えた供給地

 最後に訪ねたのは興慶寺。至徳元年(1384)開山。臨済宗で、山号を萬蔵山という。街道から奥へ、緩く長い坂を登ること数分。参道脇などに植わる木々の中にカシワの木がある。恩方中学校の校章にもデザインされた恩方を象徴する樹木だ。「武蔵名所図会」には恩方村の産物として炭と烟草(煙草=たばこ)とともに挙げられているのが「柏木皮」と「柏の葉」だ。カシワの葉は、新芽が育つまで古い葉が落ちないことから家族が絶えないことにたとえられ、江戸時代には子孫繁栄の縁起物として武士の間で重宝がられた。

この時代に生まれた風習が端午の節句の「柏餅」。多摩地域は、カシワの葉の供給地であり、中でも八王子では2カ所に市が立ち、4月中旬から節句前まで、山で摘んだ葉を馬の背に積んで運ぶ人、これを仕入れて江戸で売るために馬を急がせる業者でごった返した。明治初期まで続いたという。そのカシワの大木の下で参加者全員が記念写真に納まった。

 

カシワの大木の下で笑顔いっぱい(興慶寺で)

ガイド:前田さん

柏の葉で包んだ柏餅は江戸で生まれた文化で、全国に広まったようですが、カシワの葉で包む柏餅は関東が中心で、関西ではサルトリイバラの葉で柏餅を包んだということです。関西ではカシワの自生が珍しいためであり、地域による植生の違いが食文化の上でも違った習慣となるのですね。

一木一草を慈しむ心育てる谷あいの村

参道をさらに登ると、ここにも中村雨紅の碑があった。題は「ふる里と母と」。郷土を愛した雨紅が「どうしても心残りだ」といって、昭和45年(1970)、興慶寺に建てた碑だという。「川の瀬音も子守唄」という雨紅の郷土に寄せる思いと、子供たちが健やかに育ってほしいと願う気持ちを詠んだものか。「おいしそうでも蛇苺/きれいな実でも牛殺し/その葉取るなよ/実を取るな」と刻む。郷土を愛することは、里の実や葉を大切にすることと読み取れる。山上の鐘楼下から見下ろした案下道は、人の心を育むあったかい糸のように見えた。

ガイド:関根さん

過去に例のない猛暑続きの中、無事に終わって大変良かったです。暑さ対策の一つとしたバス利用にもご理解いただきありがとうございました。
今回は、八王子市恩方地区の案下道に沿って古から現代に至るまで根を張った文化の豊かさに感動を覚えました。案下道を筒に例えると、文化が次から次へと“万華鏡”のように形や色を変えて見えてきます、面白いですね。

【集合:JR高尾駅 午前9時/解散:JR高尾駅 午後4時】