ガイド:須永俊夫さん
JR八王子駅北口(集合) → ドクター肥沼信次顕彰碑 → 中町黒塀 → 横山町郵便局前 → 八幡八雲神社 → 傳法院 → 本立寺 → 金剛院 → 信松院 → 産千代稲荷神社 → 八王子べネック → 善龍寺 → 八木町公園(昼食) → 興岳寺 → 了法寺 → 八王子千人同心屋敷跡記念碑 → 多賀神社 → 日吉八王子神社 → 宗格院 → 吉祥院 → JR西八王子駅北口(解散)
多摩めぐりの会も30回を超える回数を積み重ねており、各地を歩きめぐり、一部はバス利用があったものの、限られた区域の散策である。八王子市の恩方での武田の松姫逃亡話や、八王子城下町が賑わったとの話も、はてさて、それから人々はどこにどうして移って行って、どうなったのかなー?? 今はどうなっているのかなー?? その変遷と現在の様子を知りたくなるのではなかろうか。
間近に正月を迎える12月で縁起の良いといわれる七福神を八王子に訪ねながら、八王子市中心の旧市街をめぐって、戦国期以降から江戸・明治に至る移り変わりと現在の様子を訪ねて探るのも一興と思い、多摩地域最大市になっている八王子で「多摩めぐり」話しの、その後を探ったのが今回の企画である。
小生は、生まれも育ちも、仕事も老後も、八王子には縁もゆかりもないが、見知らぬまちで新知見を探りつつ歩き回ってみた。七福神の案内ルートをベースにして、今の八王子を底支えする歴史や文化を訪ね廻ったため、結構な下見回数を積み重ねて今回のルート作りが出来上がった。当初のルートプランを少々は削ったものの、予定時間内の消化が難しいかと思われたが、寒いながらも天候にも恵まれて、お客様の尻を炊きつけるように次の立ち寄り先へと急かして、ほぼ予定時間でめぐることができた。ひと安心である。心残りは、八王子ラーメンを食する機会がなかったことだ。近々行ってみようか……。
ガイドの須永俊夫さんの八王子旧市内に寄せる思いは熱く、コースポイントは、盛りだくさんで、ケーキに例えれば、多くのデコレーションをトッピングした感じだ。それだけ八王子は多様な素顔を持っていたことになる。北条氏照が築いた八王子城。その城下町ともいえる里で織物の町として栄えた。いまも「桑の都」と名高い。小田原城の明け渡しの後、関東に入封した徳川家康の配下で務めた代官・大久保長安の指揮によって甲州街道随一の宿場として栄えた八王子。その大久保長安の晩年は恵まれなかった。さらに在郷武士団の八王子千人同心の足跡。復活した花街も注目を浴びている。時代を問わず福の神に詣でた先人の思いも推し量り、八王子の多様な顔に触れようと、この日のテーマを「八王子駅から西八王子駅へ 七+一福神をめぐりながら八王子旧市内の歴史と文化を探る」と題した。12月17日朝、須永さんを先頭に参加者23人は寒風をものともせず八王子駅北口から出発し、武士の町、神々の町、そして商業の町でそれぞれの時代を生きた先人の心の内を見た思いがした。
中心市街地で肥沼医師を顕彰
八王子駅から西方に延びる西放射線ユーロードは、飲食店や各種のショップなどが軒を連ねる市内最大の商店街だ。ここの人の流れは激しく、八王子駅の一日平均乗降者6万5千人余り(令和3年)の多さを物語るようだ。昭和20年(1945)8月20日未明に米軍の空襲で焼け野原になった、当時商業の中心地だった八日町地域と駅を結んで復興させたものがユーロードであり、いわば“ピースロード”だ。
この道の中ほどにある中町公園に人の背丈ほどの碑があった。「お帰りなさいDr.肥沼」と刻んである。肥沼信次博士の顕彰碑だ。肥沼医師は中町出身で昭和12年(1937)にドイツへ渡り、ベルリン大学医学部放射線研究室で学んだ後、東洋人として初の教授資格を取得。現地ではドイツのナチ旋風の中、ヒトラーへの忠誠を拒んだ。
昭和20年(1945)の連合軍によるベルリン大空襲で駐独日本大使館が出した帰国命令に応じず、ポーランド国境の町エバースバルデに疎開した。25㎞南のリーチェンではドイツからの避難民で混乱する中、発疹チフスが蔓延していた。ソ連が設けた伝染病医療センターには医師がおらず、肥沼医師が駆け付けた。医療用品が不足していながらも不眠不休で治療に当たった。
難民収容所からの帰路、発疹チフスに感染したが、治療薬を使わずリーチェンの自宅で亡くなった。享年39だった。
肥沼医師に助けられたリーチェン市民らは戦後も墓前に花を絶やさなかった。平成元年(1989)11月9日、ベルリンの壁が壊されて東西ドイツが統一され、肥沼医師の功績を公にするために行われた身寄り調査で肥沼医師と判明した。5年後、リーチェン市役所庁舎入り口に肥沼医師の記念プレートが置かれ、名誉市民に称えられた。墓はリーチェン市が永遠に管理することになった。こうした功績を後世に伝えるために八王子市民らは中町公園に顕彰碑を建て、市に寄贈した。
黒塀に囲まれた花街復活
八王子市中心部を通っている甲州街道は、江戸時代を物語る象徴だ。定期市が開かれ、織物産業はさらに栄え、旦那衆は料亭に繰り出した。明治初期には料亭と芸者の置屋の二業組合が出来た。そんな賑わいと八王子の伝統である花街を復活させようと元々あった中町で展開している。
一帯の所々は黒塀に囲まれており、路地には石畳みが敷かれて、情緒豊かな花街の色合いを濃く出している。いま芸者は20人ほどいる。八王子芸妓の案内で花街をめぐったり、芸妓の唄を聞き、踊りを見たりして酒を酌み交わしている人たちの笑顔が浮かぶ。最近では「桑都テラス」も出来てカフェなどでくつろげる。個展を開くアーチストもいる。
八王子宿形成に尽力した名主
横丁を出たら、横山町の甲州街道に面した横山町郵便局前だった。この郵便局の一帯は長田(おさだ。川島ともいった)作左衛門邸跡伝承地だという。作左衛門は北条氏の家臣で八王子城落城(天正18年=1590=6月23日)後に前田利家に起用され、大久保長安の指揮下に加わって八王子宿を中心とする新しいまちづくりに尽力し、初代の名主だった。
宿駅を移して15宿に拡大
関東に入国した徳川家康は八王子でも新たなまちづくりを展開した。元八王子地域にあった横山宿、八日市宿、八幡宿を横山村に移して宿駅を置いたことで、代官の陣屋が集中していた政治的な町の性格が次第に拡張され、甲州道中の宿場町の賑わいを見せていった。次々に宿場が拡張されて15宿に広まり、現在の市街地の原型になった。中でも横山宿と八日市宿は公用の人馬を継ぎ立てる伝馬宿で市を開く特権を持っていた。
八王子宿で開かれた市は、横山宿で4、14、24日、八日市宿で8、18、28日の月6回の六斎市だった。市に出された品々は、周辺で栽培された農産物、木炭、薪をはじめ、衣料品の太物や紬など様々な生活品が並んだ。地元で生産・収穫できない魚や塩、穀類など遠方の商人たちも訪れて売買された。18世紀も半ばを過ぎると、次第に織物業が発展して19世紀にかけては当初の雑市とは別に織物市も開かれた。
甲州街道は幕府公用の通行にも使われた。江戸への参勤交代で信濃高島藩、高遠藩、飯田藩だ。宇治茶を江戸城へ運ぶ茶壷道中の大行列も見られた。江戸時代後期には寺社への参詣が盛んになり、八王子宿も多くの人出でにぎわった。
大久保長安は代官頭として八王子に住み、武蔵国とその周辺の在地支配は17世紀末の徳川綱吉時代まで続いた。その後、代官に引き上げられ、八王子の陣屋跡は地元民に払い下げられた。
八王子創始の地主神祀る
多摩めぐりの一行は、甲州街道を横断して元横山町2丁目に入った。商店と住居が混在した密集地に変わりはない。その一画に忽然と鳥居が現れた。八幡八雲神社だ。この辺りは武蔵国八王子の中央部であり、八幡神社は八王子創始の地主神で、八雲神社もまた八王子の地名発生の神といわれ、ともに八王子には縁の深い神社だ。
八幡神社の祭神は、誉田別尊(ほんだわけのみこと。応神天皇)。延長2年(924)武蔵守隆泰が国司の時にこの地で国土安全を祈願して石清水八幡宮を祀ったのが起源だという。その後、隆泰の長子・小野義孝は武蔵権之守に任命されてここに移り、父の遺志を継いで八幡宮を再建した。義孝は任期を全うして、この地に永住した。同時に小野氏を横山氏に改めて、当地を開拓し続けて遂に一村を造り、横山村と呼び、八王子の始まりとなった。
氏照が崇拝した氏神、御光放つ
一方の八雲神社にはいくつかの変遷がある。最初は延喜6年(916)のことだ。大伴妙行が深沢山(現在の八王子城跡)山頂に八雲神社を祀り、天正年間(1573~91)には北条氏照が八王子城を築いてから氏神として崇拝していた。だが、天正18年(1590)6月に落城した時に城兵が神体を川口村黒沢に密かに持ち運び、北条氏残党は「天王様」と崇めていた。慶長3年(1596)の大洪水で流失した神体を八王子新町北の板谷ヶ淵で百姓・五兵衛が見つけた。暗夜に御光を放っていたという。これを自宅土間の臼の上に置いて初穂の小麦を煎って供え、朝夕に参っていると、不思議な神勅を受け、宿長の長田作左衛門に願い出て八幡神社内に遷座したという。承応2年(1653)に八幡宮と棟を並べて、社殿を建てて両社とも氏神様としてきた。
今日、夏(8月初め)の祭りで名高い「八王子まつり」で山車の巡行や辻合わせを一目見ようと賑わう。八幡八雲神社の祭りを「下の祭り」といい、「上の祭り」を多賀神社(元本郷町)の祭りを指す。元は別々に行っていた祭りを市民祭りの八王子まつりで同時に行うことにして久しい。令和4年の八王子まつりはコロナ禍で、8月4~6日に計画したが中止された。
名馬の産地に横山党を結党
横山町一帯は、往古から「多摩の横山」と歌われ、名馬の産地だった。平安時代には陽成天皇(第57代天皇)の私牧(御料牧場)があった。また、鎌倉幕府創始に尽力した横山一族は、源頼朝が建久元年(1190)に上洛した折に髄兵300騎余りのうち、1割強を出したという。源頼朝の死後や幾多の乱で横山荘は没収され、政所別当の大江広元の支配下になり横山神社が創建された。大江広元の四男が領した現・厚木市毛利からその子孫が分かれて、安芸国毛利氏の祖となった。
その横山神社は八幡八雲神社境内にある。建保年間(1213-18)の創立。八幡宮を中心に祭政一致を行っていた小野義孝(後の横山義孝)は、武蔵国に本拠を置いた7つの中小武士団のうちの横山党の始祖であり、当時、八幡神社は横山荘の総鎮守だったことから開祖横山義孝公を祀っている。
語り継ぐ歴史・文化が日本遺産に
八幡八雲神社前の八王子市立第一小学校正門脇に白地の大横断幕が下げてあった。「日本遺産認定 霊気満山 高尾山~人々が紡ぐ桑都物語」と記してある。令和2年に文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを日本遺産としたもので高尾山を取り巻く薬王院、八王子城、滝山城、獅子舞、絹の道、神輿、山車、車人形、八王子芸妓、高尾山のムササビなど広い分野にわたる29件を、東京都で初めて認定されたことを知らせるものだった。桑都日本遺産センター八王子博物館(略称はちはく。八王子駅南口、サザンスカイタワー八王子3階)で、原始、古代から未来へと続く八王子の歴史・文化を紐解いている。
日本生まれの恵比寿天拝む
一行は八幡八雲神社から再び甲州街道を横切り、高層マンションが林立する中を南西にある傳法院へ向かった。傳法院は文禄4年(1595)に俊盛法印が嶋坊宿(現在の日吉町)に開山した寺だ。成田山新勝寺の末寺で大日大聖不動明王を本尊にする。こじんまりした境内のお堂に恵比寿天が腰かけていた。この日、最初の福の神だ。七福神の中で唯一、日本古来の土着神でもある。首をすくめたようで親しめる雰囲気が漂い、右手には竿を握り締めている。海神であり、「大漁追福」の漁業神をはじめ、水の神として信仰されている。平安時代末期に市場の神として祀られ、中世には商売繁盛や五穀豊穣をもたらす神として信仰された。一行の大勢が手を合わせた。
明治期の繁栄表す名入りの石塀
境内を出て右手の石塀をガイドの須永さんが案内した。石塀には寄進者した人名や旅館名、商店名が彫られていた。静岡県の「伊豆の青石」といわれる凝灰岩質の石で明治39年(1906)に改修した折のものだという。明治期の繁栄ぶりがうかがわれると同時に、所々が剥がれたり、黒ずんでいたりするのは戦災で焼けたからだそうだ。
八王子千人同心の菩提寺
一行は、さらに南へ下り、中央線の踏切を渡った。イチョウの木が金色に輝いている本立寺境内(上野町11番)に立った。戦国時代を経た寺だ。永禄元年(1566)に滝山城下で創建され、八王子城下に移った後、慶長元年(1596)に現在地におさまった。身延山久遠寺の末寺で、法主が江戸往還した際に甲州道中の宿泊院となり、江戸城大奥に詰める人々も身延山参詣の折に本立寺に宿泊した。昭和20年の八王子空襲で焼失後、本堂を再建した。
本立寺は八王子千人同心頭の原家の菩提寺だ。原胤従(慶長8年=1603=没)は武田信玄・勝頼に仕え、槍衆を統率した。武田氏滅亡後は、徳川家康に仕え、関東移封後は北条氏照の残党対応のために八王子に移った。その後、八王子千人同心9家のうちの一家になった。
原胤敦(寛延2年=1749~文政10年=1827)は幕府に蝦夷地御用を願い出て八王子千人同心100人とともに赴任し、功績を上げて文化元年(1804)に函館奉行支配役になった。墓地には原胤敦・新助兄弟の墓石が、北海道勇払開拓の顕彰碑とともに並んでいる。墓地には千人同心だった考証家の三田村鳶魚の墓もある。
勇気を授け、武運の神 毘沙門天
この日の二つ目の福の神・毘沙門天を祀る寺でもある。インド出身の軍神で四天王の一人で北方を守護する。多聞天ともいうが、単独で祀られるときは毘沙門天という。勇気を授ける武運の神として崇められる。
カンザクラ咲く静寂な世界
金剛院(上野町39番地)は広々とた境内でカンザクラの若木が花びらを広げていた。高野山真言宗別格本山(平成4年=1992)だ。寺の始まりは天正4年(1576)に僧真清が建てた不動堂を明王院と号したことだ。不動明王が本尊。寛永8年(1631)には紀州高野山の末寺として現在地に創建された。昭和になって、ここも八王子空襲で本堂、観音堂など伽藍のほとんどを焼失した。その後に整備した境内の広さが静寂さを醸し出している。
金剛院には福禄寿が祀ってある。「福(子宝を得る幸福)と禄(生活の安定)と寿(長寿)を授ける神」と親しまれている。背丈が低いながらも長い頭で長い顎鬚をはやしている。耳たぶは大きい。年齢は千歳という。人を包み込む温かさが滲んでいた。古い中国の仙人を神格化したといわれる。
山門向かいのひときわ高い基壇に「時の鐘」が上がっていた。時鐘山念佛寺の鐘楼で、寛永3年(1636)八日市名主・新野与五右衛門を中心に千人頭、千人同心、宿内15組をはじめ近郷の村人が協力して鋳造したものだという。270年余り、15宿に時を告げ続けた。
大騒動、麦畑に隕石落下
ここで、もう一つの話題が飛び出した。いまから105年前の文化14年(1817)11月12日午後2時ごろだった。江戸方向のやや北方、甲州街道沿いの現在の八王子市、日野市、多摩市の各地に隕石が落下した。金剛院脇の麦畑に落ちた隕石は、長さ3尺、幅6.7寸、厚さ5.6寸だったという。一帯の村人の間で持ち切りの話題だったことは言うまでもない。この時の隕石(0.1g)は国立科学博物館に所蔵されている(非公開)。
逃避行の末、村人に慕われる
金剛院から西の信松院(台町3丁目)へ向かった。曹洞宗金龍山信松院。武田信玄の四女・松姫の逃避行の末に安住した地だ。7歳(永禄10年=1567)で松姫が婚約していた織田信忠(11歳)の婚家先である織田信長が、武田信玄と敵対(三方ヶ原の戦い)する徳川家康へ援軍を送ったことから武田・織田家は交戦状態になり、婚約を破棄。信玄没後の天正10年(1582)織田勢による甲州征伐が始まり、松姫は逃避行を続けた。
恩方村の金照庵にたどり着いた松姫は心源院で剃髪して信松禅尼となった。22歳だった。その後、当時の上野原宿の御所水の里へ移住して庵「信松院」を結んだ。天正18年(1590)だった。本尊の釈迦牟尼仏を祀る。
松姫は、武田一族の菩提を弔う日々で、糸を紡ぎ、絹を織る技を里人に伝え、子供たちには手習いを教えて土地の人々に慕われた。
関東入りした徳川家康が八王子で甲信の備えに置いた千人同心は元武田家の旧臣たちで、八王子代官の大久保長安も武田家の出身だった。旧家臣には旧主の姫が側にいたことで心強い日々でもあっただろう。松姫は元和2年(1616)に逝去、信松院殿月峯永琴大禅定尼を法名とした。信松院の墓地上段の小堂で眠る。墓を囲む玉垣は延享5年(1748)八王子千人同心が寄進した。
安置されている松姫の坐像は、尼僧の姿で玉眼が入った寄木造りで彩色されている。松姫百回忌に当たる正徳5年(1715)ごろに作製されたものだ。
同院には木製軍船ひな形(東京都指定有形文化財)がある。武将・小早川隆景の軍が使用した軍船の模型と伝わる。松姫の兄・仁科盛信の子孫である仁科資真が寄進した。
お腹ぽっこり、一木造りの布袋尊
信松院本堂地下の布袋堂には穏やかな笑顔に、ぽっこり膨らんだお腹を見せて和ませる布袋尊が祀られていた。像は等身大でクスノキの一木造り。だれでも触れることからお腹はピカピカに光っていた。
七福神の中で唯一、実在した人物だ。明州(現在の中国浙江省寧波市)の伝説的な高僧で名を契此(カイシ)といい、学林寺の住職だった。物事にこだわらない鷹揚な人柄で、未来を予知できる力があったという。鷹揚和合、度量無限の福徳を備え、弥勒菩薩の化身といわれる。
稲荷社創建した長安の陣屋
一行は北方の中央線踏切を戻る格好で小門町の産千代(うぶちよ)稲荷神社の山門前に着いた。安土桃山時代の1590年ごろ、大久保石見守長安が陣屋を構えた地で、高さ3mほどの石標が立つ。陣屋を構えた際に五穀豊穣、殖産興業を祈ったと同時に陣屋守護の神として倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀り、稲荷社を創建した。社がある地は、陣屋の西に当たり、鬼門除けの守護神でもある。東方に表門、北方に裏門がある。裏門前は公事訴訟の百姓屋敷があったことから小門宿の名がついたという。御門宿とも於門宿ともいわれ、大久保長安亡き後に小門宿と定められた。
治水や金採掘して甲斐平定
大久保長安は、甲斐武田氏に領国の黒川金山などの鉱山開発や税務などに従事した。武田氏が滅んだ後、長安の才を見込んだ徳川家康は仕官につけた。本能寺の変(天正10年=1582)で織田信長が死去して徳川家康は甲斐を領地とした後、武田家滅亡で混乱した甲斐を治めるために大久保長安を登用して釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田を開発、金山採掘に当たらせて甲斐の内政を再建した。
石見土手築いて八王子を整備
小田原征伐(天正18年=1590)後、関東入りした徳川家康は、青山忠成(江戸町奉行)らとともに大久保長安を奉行(代官)に推し立てて土地台帳の作成に掛かるなど関東代官頭として事務差配を任せた。こうしたことから大久保長安は、天正19年、八王子(後の横山)に8千石(9万石とも)の所領を与えられた。八王子に陣屋を置き、宿場を建設、浅川の氾濫を防ぐ土手の整備も図った。この土手を「石見土手」といわれる。
千人同心を創始して出世街道へ
長安はまた、宿内の安定と江戸の出入りを検問するために幕府に「八王子五百人同心」の創設を具申、徳川家康の許可を得た。慶長4年(1599)には同心を倍に増やし「八王子千人同心」となった。
その2年後の春に大久保長安は徳川四奉行補佐の甲斐奉行に、その後、石見奉行、美濃代官に任じられた。異例の昇進を続け、慶長8年には従五位下石見守に就任、家康の六男・松平忠輝付きの家老に任じられた。その後も佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)になり、同時に年寄(後の老中)に列せられたほど徳川家康に高く評価された。
全国の金山・銀山を統括し、関東の交通網の整備、一里塚建設などの一切を取り仕切り、家康直轄領の150万石も実質的に大久保長安が支配していた。この権勢に諸大名から「天下の総代官」といわれるほどだった。
家康の寵愛失くし相次ぐ罷免
晩年には風向きが変わった。徳川財政を支えた金銀採掘量の低下から徳川家康の寵愛を失くし、代官職を次々罷免された。正室が早世するなど不幸も相次いだ。慶長18年(1613)中風で死去した。享年69だった。死後も生前の不正蓄財を問われ、長安の子は調査を拒否したために長安の嫡男である7人が切腹を命じられ、縁戚の諸大名も改易などに晒された。
産千代稲荷神社鳥居横の「長安陣屋井戸」前にバケツが転がっていたのが目に焼き付いた。
3900人で織物組合を結成
「桑の都」「織物の町」と歌い上げられる八王子。JR横浜線が敷かれた元は、上州(群馬県)からの絹を横浜へ輸送するのが目的で、「絹の道」が拓かれ、鉄路の横浜線へと送り込んだ歴史がある。その代表格として今日に残るのが八王子織物工業組合だ。八幡町の甲州街道沿いにショールーム「八王子べネック」の名で情報発信し数々の商品を販売している。
江戸時代中頃から八王子周辺の村々で盛んに織られた絹織物が中心で4日と8日の市に出された。多くは先染めの着物で、実用の着物地が中心だった。絹産業を基盤に甲州道中最大の宿場町へと発展していった。
八王子織物工業組合の歴史は古く、明治32年(1899)に機屋、買継商、撚糸に携わる3900人で八王子織物同業組合を立ち上げたのが始まりだ。べネックでは絹織物の着物をはじめ和装用品やネクタイ、マフラーなど店いっぱいに並べていた。
解体した本堂跡から大黒天
この日、5つ目の福の神・走(はしり)大黒天に会えたのは善龍寺(元本郷町1丁目)だ。本堂奥に安置された走大黒天は黒っぽく見える。その昔、疲弊した諸堂の再建に苦慮していた日真上人の夢に現れたのが大黒天だったという。解体した本堂跡を探したところ、目にしたのは米俵に乗って笑顔を見せ、右足を前に出してすぐにでも衆生に向かおうと構えている大黒天だった。一念発起して諸堂再建を果たしたという。
善龍寺は、長享2年(1488)滝山城下にあった真言寺住職・日英上人が日蓮宗に改宗して開基した。天正19年(1591)に八王子城が落城して一段と荒廃するも翌年、現在地に移り、境域を整備した。江戸時代には代官・近山左衛門が客殿などを寄進して盛り立てた。寺にある「小伝」によれば、天然理心流の剣豪と言われた増田造六(実質的な天然理心流3代目)が千人町に道場を開き多くの弟子を輩出した。また、国定忠治の子分・清水のガン鉄が寺男だったエピソードがある。
日光東照宮焼失防いだ石坂義禮
薬師如来を祀る千人町の興岳寺は武田家の家臣だった石坂勘兵衛森道が文禄元年(1592)に随翁舜悦を招聘して創建した。勘兵衛の子で八王子千人同心頭・石坂弥次右衛門森信が開基とされている。以後、石坂家の菩提寺になり、本堂前に八王子千人同心頭・石坂弥次右衛門義禮(よしたか)の顕彰碑が立っている。
義禮は日光勤番として徳川家康を祀る日光東照宮を護る立場にあった。慶応4年(1868)の戊辰戦争で幕府軍の伝習隊を率いる大鳥圭介らが日光山に立て籠もり、板垣退助らの官軍と対峙。この時、義禮は大鳥と相談して伝習隊を日光山から下山させ、幕府軍と官軍の戦いを防いで日光山の焼失を救った。
しかし、八王子に帰還した義禮は、官軍と交戦せずに日光東照宮を明け渡したことを問われた。この責任を負って切腹した。義禮の墓が本堂向かいの墓地にある。日光市と八王子市は昭和49年(1974)姉妹都市になった。
「萌え寺」に音楽・芸術の神
一般的に寺院は静寂なイメージが強いが、ここ了法寺(日吉町2-1)は若者受けがする快活な空気が漂う境域だ。境内入り口に描かれた美少女のイラストが象徴するように「萌え寺」として知られている。平成21年(2009)誰でも気軽に入れる寺にしたかったという。本堂前に新護弁財天を設置して音楽・芸術の神であることもアピールしている。
了法寺は啓運日澄上人が大本山本圀寺貫首だったときに隠栖の寺として延徳元年(1489)に鎌倉松葉ヶ谷に開かれたと伝わる。元八王子に改めて開かれたのは延徳2年(1491)。さらに現在地へは天正18年(1590)に転寺した。本尊の大曼荼羅を祀る。
半農半士が多かった千人同心
了法寺に近く、甲州街道と陣馬街道(案下道)を分ける追分町の三角地点に立つのは「八王子千人同心屋敷跡記念碑」だ。八王子宿がほぼ完成していたころの文禄2年(1593)正月、八王子城下にいた小人頭と小人たちは現在の千人町を中心に周辺へ移住した。千人同心は当初、500人程度だったようだが、寛文7年(1667)の「拝領屋敷水帳」によると、千人町には組頭が10人、同心が100人住んでいた。居住区は周辺の村々に及び、普段は農耕に従事していた。
在郷武士団の八王子千人同心は、関東に入封した徳川氏の政治的、軍事的な重要地であった八王子に配置された。その系譜は甲斐国武田氏家臣団の小人組に遡る。9人の頭と約250人の同心を編成して八王子に配置したものだ。小人頭に屋敷を与えられ、同心が増えていった。関ヶ原の戦いの直前の慶長5年(1600)には総勢1千人になって八王子千人同心が成立した。拝領屋敷を持たない多くの同心は八王子周辺で半農半士の生活だった。
西洋式軍隊へ形変えた同心、解体へ
江戸幕府が安定して当初の役割が変わり、日光や江戸の火の番、将軍上洛、日光社参の際の供や大坂城や江戸城の修復、蝦夷地開発、地誌編纂など様々な役割を果たした。中でも日光火の番には慶応4年(1868)までの216年間に1千回以上にわたり、八王子から日光まで3泊4日の行程を歩いて移動した。
幕末の軍政改革で千人同心は西洋式軍隊へ近代化が図られ、慶応2年には「千人隊」と名を改めた。長州出兵、横浜警備、将軍の上洛にも動員された。明治に入って新政府軍は関東を攻めて、八王子にも板垣退助がやってきた。千人隊は徳川家へ寛大な処置を求める嘆願書を出した一方、武器を差し出して恭順の意を表した。慶応4年、静岡に移住する徳川家と共にした者、新政府に仕える者、そして、多くの隊士が武士の身分を捨てて農民となり、千人隊は解体した。
明治の混乱、昭和の大火乗り越えて
明治政府は、富国強兵、殖産興業を推し進める一方、自由民権運動に目覚めた勢力も活発化した。明治4年(1871)廃藩置県を受け、八王子は神奈川県へ、4年後には東京府に移管された。絹織物を中心とした産業立地の八王子には明治22年に甲武鉄道が延伸し、明治41年には横浜まで鉄路が繋がって経済効果を生んだ。
だが、戦争という悲劇が八王子を壊滅に追い込んだ。昭和20年(1945)8月2日、米軍による空襲で市街地の8割を焼失した。3日後には米軍機からの銃撃で中央本線の乗客185人が死傷した。
時頼が社領を寄進した祈願所
陣馬街道を外れて北へ向かうこと数分、多賀神社(元本郷町4丁目)の鳥居前に着いた。滋賀県の多賀大社から天慶元年(938)に分祀し勧請した。文應元年(1260)に北条時頼が国内巡行の折にこの地で病に倒れ、本社に古鏡1面を奉納して祈願したところ、治癒したことから社領を寄進して祈願所とした。主祭神は国土創造神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冊尊(いざなみのみこと)。多賀神社は全国の多賀神社(78社)の中で関東最大規模だ。新選組(甲陽鎮撫隊)の解散地と知られる。
本殿の奥にはいくつもの神輿蔵がある。八王子でいう「上の祭り」の本拠地であり、八幡八雲神社の「下の祭り」とともに例年8月初めに行われる八王子まつりで巡行する。
八王子の歴史詰まった総鎮守
多賀神社から日吉八王子神社(日吉町8丁目)へ向かう沿道は、西方へかすかに下っているように感じた。一帯は、江戸時代に浅川で捕ったアユを献上していた。その証しとなる「あゆ塚」が日吉八王子神社にあった。村ごとに定められた子細な取り決めを厳格に守っていたことだろう。
日吉八王子神社は、八王子には縁が深い。八王子の450年ほどの歴史が詰まっているといっても過言ではない。天正2年(1574)北条氏照の命を受けた大阿闍梨法印の天神坊高盛が比叡山山麓の日吉大社から八王子権現を迎え、八王子城に奉斎した。ここを氏照は日吉山王として八王子城の祈願所とした。八王子城の落城(天正18年=1590)後も法印の嶋之坊俊盛が徳川家康から除地を得て文禄4年(1595)に嶋坊宿(日吉町)にあった祠を再建、八王子城の八王子権現を勧請し、日吉山王八王子神社と称した。これによって由井領山根75ヶ村の総鎮守となり、八王子15宿の祈願所となった。明治維新の神仏分離で日吉八王子神社となった。本堂前ではカンザクラが小花を付けていた。
知恵授ける神と石見土手
七福神の1つ、寿老尊が待っていたのは宗格院(千人町2丁目)だ。本堂前の寶殊閣で柔和な顔の“おじいちゃん”が金屏風に囲まれていた。寿老尊は中国・宋代の元祐年間(1086~93)の人物を偶像化したと伝わる。長めの頭は「知恵者ほど重い頭を垂れるべき」という意味が込められているようで人徳のある老人は頭がよく、広い見識と礼儀を備えているものと言われる姿だ。長寿延命、富貴長寿の神とされている。
宗格院が草創されたのは文禄2年(1593)。甲州武田家家臣・山本忠玄の子・价州良天和尚によって建てられた。武田家滅亡後に兄・忠房が千人頭として八王子散田の興福寺に仮住まいして、千人町に草庵したのが宗格庵だった。その後、興福寺永雲和尚が一寺を成して宗格院とした。同時に臨済宗から曹洞宗に帰し興福寺末寺として今日に至る。本尊に聖観世音菩薩を祀る。
本堂奥には大久保石見守長安が浅川の氾濫を防ぐために築いた堤防「石見土手」の一部が残っている。また、天保8年(1837)に外国船が接近していたことから幕府に意見書「献芹微喪(けんきんびちゅう)」を翌年に差し出した松本斗幾蔵(千人同心組頭・儒学者)の墓がある。斗幾蔵は、その見識を買われて浦賀奉行の与力になったが、赴任直前に49年の生涯を閉じた。
災い転じて吉祥となす
多摩めぐりの一行は、宗格院から北西にある吉祥院(長房町58番地)へ向かった。これまで市街地を歩き続けてきた一行には途中の浅川土手から見た空の広がりに一息ついた。川向こうの山上にある福の神「吉祥天」に会えるのは、もうすぐだ。
一般的に吉祥天は七福神に含まれないというが、八王子では「八」に因んで「八福神」に列している。全高1mほど。凛々しいながらも心落ち着く姿に手を合わせる一行だった。吉祥とは繁栄、幸運を意味し、幸福、美、富を表す神とされる。前科に対する謝罪の念や五穀豊穣を叶える神としても崇められている。別名を功徳天ともいい、災い転じて吉祥とする福徳自在の功徳を持つとされ、その優しさで衆生に福を授けるという。
大日如来を祀る吉祥院は応永年間(1394~1428)に頼源法印が開基し、慶長年間(1596~1614)に行盛法印が中興したという。江戸時代中期の享保、明治と度々火災に遭い、さらに昭和20年(1945)の八王子空襲でも全焼するなどして昭和29年に日吉町からこの地に転寺した。かつては清冽な湧水が各所にあった。その尾根筋から南を展望すると、高尾山はじめ、丹沢山系が絵のように広がっていた。
この日のラストポイントの光景は、令和4年を振り返り、新しい年にまた多くの参加者とともに多摩地域の知っている風・新しい風に恵まれることを予感させた。
【集合:JR中央線八王子駅北口 12月17日(土)午前9時30分/解散:JR西八王子駅北口 午後3時ごろ】