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10ヶ月ぶり、今年初の開催で笑顔の再会
秋風の吹きわたりけり人の顔《鬼貫》――年明けから新型コロナウイルスの猛威に晒されて外出・活動自粛し、政府による7都府県に緊急事態宣言(4月7日。5月25日、全面解除)が発せられて、多摩めぐりの会幹事団は一様に脅威に縮こまった。コロナ禍による史上最大級の経済の冷え込みを盛り返す政府の再生政策で半年ぶりに市民活動もそろりそろりと動き始めた。これを機会に多摩めぐりの会は10月5日、今年初めての多摩めぐり(第19回)を開いた。題して「参勤交代の往還路・旧甲州街道~八王子・小仏の息吹と野草を楽しむ」。10ヶ月ぶりに再会した顔なじみと旧交を温め、初参加組とは交流の始まりとなった。
総勢25人が身を置いた舞台は、高尾山北谷の南浅川沿いに這う八王子市裏高尾町。江戸時代に整備された五街道の一つ甲州道中だ。いま街道は、旧甲州街道と名を変えてアスファルトの下になってしまったが、当時をしのぶ石碑や常夜灯に行き交った人々の思いに心を寄せた。沿道には文明の薫りを象徴する明治天皇の足跡、同時代に開業した甲武鉄道の延伸にあたる中央本線にまつわる施設も地元にはなくてはならなかった遺産に触れた。深い谷の景観を一変させた中央道の建設によって人々の心の支えだった寺院も山を下りざるを得なかったことも知った。小仏という一地域の甲州道中にスポットを当てて江戸~昭和の変遷を垣間見た一日であり、コロナ禍に振り回されているわれらの思いを掬い取るかのように色鮮やかに健気に咲いている野草に癒された。
一行がJR高尾駅から乗った小仏行き路線バスは、甲州街道を西へと向かい、程なくして西浅川交差点を右折。ここからがこの日のメインテーマである旧甲州街道・甲州道中に入ったのだ。終点の小仏で下車した。小仏峠まで約2.5㎞の地点だ。
甲州道中は、戦国時代に各領国の軍事的色合いが強い道路として開発された。江戸時代に入る前年の慶長7年(1602)に武蔵国―甲斐国を結ぶ街道として整備された。その2年後に「五街道」の一つに江戸幕府が位置づけた。日本橋から甲府柳町間の表街道が38宿、約135㎞。甲府柳町から下諏訪までの裏街道が7宿、約75㎞。下諏訪まで5~6日の行程だった。
助郷で支えあった伝馬態勢
小仏宿は、日本橋を起点に約53㎞、13番目の宿場であり、西端に立ちはだかる小仏峠(548m)にあった小仏関所を安土桃山時代の天正8年(1580)に峠のはるか下の駒木野(小仏宿の東約3㎞)に下していた。「小仏関所跡之碑」は、いま、ここにある。江戸を発ってきた旅人には武蔵国最後の宿場であり、相模国との国境の関所であり、江戸の入口に差し掛かった安ど感も沸いただろう。小仏宿と駒木野宿は「合いの宿(あいのしゅく)」で月の前半を小仏宿、後半を駒木野宿が役を請け、小仏宿にあった11軒の旅籠は、いずれも農家が兼ねていた。本陣や脇本陣は、小仏になく、駒木野に置かれていた。
宿に欠かせないのが伝馬機能だ。五街道の中で最も寂しい街道といわれ、東海道や中山道の宿駅に比べて、小仏宿には馬25頭、人足25人と少ない宿駅だった。山間の里では伝馬役を受ける財が少なく、近隣村の助力を受ける助郷態勢をとっていた。収益から見て並み大抵ではなかったようだ。
絵巻物の参勤交代の行列
3代将軍徳川家光が武家諸法度を敷き、1年おきに全国の各藩は自国から江戸の将軍に拝謁することを命じられたのが参勤交代。登城ルートは、多くの藩が東海道や中山道を利用したのに対して信州の高遠藩(伊那市)、高島藩(諏訪市)、飯田藩(飯田市)の3藩だけが甲州道中を東上した。高遠から江戸まで約200㎞。内藤家では江戸初期に6泊7日で中山道を使っていたが、3代目の鳥居忠春以降は1日短い行程の甲州道中を使用した。
大名行列は、藩の威信と権勢を誇示するため、幕府に義務付けられた以上の共を引き連れ、服装にも贅を尽くした傾向が強かった。宿場の出入りなどでは行列の隊列を整え、毛槍を持った中間たちに独特の所作を取らせ、人々の注目を浴びた。その列は絵巻物のようで、遠方からでも藩の見分けがついたという。
公用に使った甲府勤番の旗本ら
関所では役人が通行人や荷物の検査に目を光らせた。特に厳しかったのは「入り鉄砲に出女」といわれるほど江戸の町に鉄砲が入ることと、城中の人質であった奥方たちが江戸から出ることを取り締まった。関所を通過する際には関所に備えられた丸石の上に通行手形を出し、手前の平石に手をついて頭を下げて通行を願った。
武田家の領地であった甲州では金が産出され、江戸後ろに当たることから幕府が直接治める天領で、甲州道中を行き交う人が多かった。公用通行していたのは甲府勤番に当たっていた旗本、御家人たちだ。また幕府は、江戸の緊急時に甲州道中を軍用路として重要視しており、八王子千人同心を引き連れて甲府城に立てこもり、再起を図る策も立てていたという。
将軍お通りと同じ権威誇示したお茶壺道中
江戸が繁栄してくると、商品の輸送や富士登山の冨士講、身延山参りの身延講の人たちで道中はにぎわった。中でも「お茶壷道中」が目を引いたそうだ。京都・宇治のお茶を江戸城に運ぶ行列だ。
お茶壷道中は、江戸時代前期に制度化され、東海道から中山道を通り、下諏訪宿で甲州道中に入った。一行の規模は1日当たりの人足約600人、馬50頭。街道沿いに住む人々に道の掃除を義務付け、通過日の耕作作業を禁じた。将軍のお通りと同じ権威があり、道中で行き合った大名は乗り物のまま道端に寄って控え、家臣は下乗、供の者は冠物を取り、土下座して行列の通過を待った。沿道の庶民は、家に隠れたという。一行を迎える各宿場には重い負担だったともいう。茶壷道中は慶長18年(1613)から慶応2年(1866)まで250年余り続いた。
お茶壷道中といえば、わらべ歌「ずいずいずっころばし」のモデルといわれ、行列を皮肉った歌は、今日も歌い継がれている。
馬を慈しみ、飛脚の安全願う
小仏峠を越えれば、隣国の相模国小原宿まで急勾配が続くのだ。逆もしかり。いまは城山や景信山登山コースだが、人馬共に艱難辛苦だった。
その証が寶珠寺(ほうしゅうじ)にあった。15世紀に開基され、室町時代末期まで景信山の麓にあった寺だが、再三の野火で焼失し、現在地に移転した。参道口にある「馬頭観世音菩薩」の碑は、当時の人々の思いを赤裸々に表している。碑には「諸馬と伝馬の家の者は親しく接してお互いに固く気持ちを通じ合っている。よって、謹んで碑を建て営む」と刻んである。
もう一つ、境内の山王権現社には350年ほど前の息吹を感じる証しがある。甲州道中沿いにあった常夜灯だ。明治時代に入ってここに移されたもので、道中を行き交った「甲府三度飛脚」といわれた飛脚たちが寄進した。甲府三度飛脚とは元禄元年(1688)に始まった江戸と甲府を結んだ飛脚制度だ。出立は甲府が3の日、江戸が8の日。三度笠を被って馬に乗って書状などを携えて道中を急いだ。小仏宿の定宿で一息つくのは小仏峠の難所を乗り切った、あるいは、これから登り切るという地点だったからだろう。飛脚仲間が互いの安全を願わざるを得なかった険しい地点だった。
斜面に威風堂々とカゴノキ
植物愛好者には見逃せないのが寶殊寺本堂左わきの崖に根を張る「小仏のカゴノキ」と命名されたクスノキ科の大木だ。幹回り4.3m、高さ約13m。枝を南北約22m、東西約17mにも広げた大樹だ。暖地に自生する常緑高木で、埼玉県以北にはない。都内では他にあきる野市雨間の地蔵院に自生しているだけだ。高尾山一帯の植生の豊かさを表し、東京都天然記念物に指定されている。
ガイド:相山さん
天明の飢饉に追い打ちかけた浅間山噴火
寶殊寺境内の東側斜面を下ると、こぢんまりとした社があった。浅川神社だ。元々近くにあった浅間神社(天明4年=1784年創建)を明治42年(1909)子之神社(寛政2年=1790年創建)に移して明治45年、浅川神社に名を改めた。その後、昭和43年(1968)に中央自動車道の建設に伴って現在地に移した。
浅間神社が創建された前年、東北から始まり、江戸時代最大級といわれる天明の飢饉で東北や関東で餓死者十数万人が出た。これに追い打ちをかけたのが浅間山の噴火だ。関東一円に大量の火山灰が積もり、農作物に大被害をもたらした。各地で堆積した火山灰で水害も起きた。天明4年、多摩地域では豪商たちの米の買い占め、売り惜しみなどが元で2万人とも3万人ともいわれる農民らが豪商宅を襲撃、江戸町奉行に捕縛された63人が牢死した。こうした災難から人々を救おうとして神社を祀ったか、とガイドは力説した。
水音聞きながらの水系談義
木々の葉が生い茂る閑静な神社境内にいると、秋風に乗った水の流れ落ちる音が耳に心地よかった。東京都と神奈川県の都県境の小仏峠は分水嶺であり、小仏峠の北隣にある景信山の麓を水源とする小仏川の水音だ。小仏川は現在、1級河川の南浅川として管理され、源流域にある1級河川の上端を示す標識を境に下流を東京都が、上流を八王子市が管理している。
境内での話題は東京都の水系に及んだ。河川を区別する1級河川は流域住民の暮らしを守り、産業に深くかかわる重要な水系で、国が指定した河川をいう。2級河川は1級水系以外の比較的流域面積が狭い水系で都道府県が指定している。東京都管内の1級河川は利根川水系、鶴見川水系、荒川水系、多摩川水系。目の前の南浅川源流域は1級河川であり、多摩地域の河川は2級河川の境川(町田市―神奈川県・相模湾に注ぐ約28.5㎞)以外は、鶴見川・荒川・多摩川水系のどちらかであり、いずれも1級河川だ。
ガイドが水系を分かりやすく示した例は1枚の木の葉だった。葉全体(葉身)を1本の川の流域に見立てて、本流を葉脈の主脈に、支流を側脈に置き換えた。支流の流れが側脈で、これらの水を取り込むのが主脈だ。1枚の葉が流域の水系を表し、多摩川の水の流れを俯瞰する格好で見せた。「な~~~るほど」とうなずく人が多かった。
ガイド:吉田さん
時代映す列車運行施設の進化
空が木々に覆われた浅川神社境内から甲州道中に出ると、向かう先に鉄骨のジャングルが飛び込んできた。JRの発電所から送られてきた6.6万Vの電流を車両が動かせる1500Vに下げるJR高尾変電所だ。中央線を運行するために八王子、立川、武蔵境駅近くにある変電所と同じ機能を持った施設だ。降圧された送電線は甲州道中をはさんで中央本線脇の鉄骨へ繋がり、さらに線路上の架線に渡っているのを確認した。一帯ではJR関連施設がいくつも見られる。
文明開化の象徴だった汽車。新橋―横浜駅間を正式に開業した後、明治22年7月、東海道本線は神戸駅まで全線開業した。その12年後、浅川(現在の高尾駅)―上野原駅間が開業した。変電所向かい側に小仏トンネル(2.54km)がある。蒸気機関車や電車(昭和6年、浅川―甲府駅間が電化されて電気機関車運行)が登れる最大斜度1000分の25(1㎞区間で25mの高低差)に掘ったトンネルだ。中央本線最大の傾斜区間であり、小仏峠越えが難所であったことを象徴する。3年がかりの掘削だった。トンネル東側(高尾駅口)上部に突き出た黒々とした排煙口も残る。「石炭を焚いて走った蒸気機関車が出す煙で目が痛かったもんだよ」と参加者の声が飛んだ。
高尾―相模湖駅間を複線化するにあたり、昭和39年(1964)新たに新小仏トンネル(2594m)ができた。下り線専用。道路からかすかに2口のトンネルが見られる。この開通によって、トンネル東口から約150m東にあった小仏信号場は廃止された。信号場の役目は、上下線どちらかの列車がトンネルに入る、あるいは出た際に機関士がタブレット(通行証)をホームのポールに架けたり、駅員に手渡ししたりした。列車交換の時に付近住民は、約5㎞東にある高尾駅へ行かなくても乗車できたことを黙認していたが、信号場が廃止されて、住民の愛称だった「小仏駅」はなくなった。
信号場跡は、いま保線作業の退避線になっている。水平に敷設されている退避線は本線の傾斜を際立たせている。「東に行くにしたがって徐々に高低差が広まる。トンネル内の1000分の25の角度は、いかほどか、示すね」と見入る。
路肩にたたずむ明治天皇休憩所跡の碑
天皇を迎えるにあたって紫色の縮緬幕を張り、住民らが振り合う日の丸の列ができただろう。休憩後、天皇は鳳輦(ほうれん)馬車から板神輿に乗り換えて小仏峠へ向かった。小仏峠では野点を楽しまれた記念の碑がいまも立つ。
ガイド:菊池さん
赤紫、白、黄色の花々続く自然豊かな山系
甲州道中から脇に入って日影林道を歩いた。沢の水音と梢越しの風が体を癒した。きょうのもう一つのテーマである秋の野草に親しむコースだ。一行を2班に分けて、参加者がより一層野草を堪能できるようにした。林道沿いはカラマツ林が続き、甘い香りに包まれ、気分がさわやかになるフィトンチッド効果も体感できた。足元や水辺沿いに花がある、ある。
山麓の水辺などを好むツリフネソウ。特性そのままを映して咲いている。花の形は帆掛け船を吊り下げたように見えるが、口を開けた赤紫の花びらはドレスにも見え、妖艶でもある。細い花穂にまばらに小粒の赤い花をつけたミズヒキ。赤色は木陰に灯る一灯か。
白い4枚の花弁を楚々とつけたマツカゼソウ。ミカン科の植物で木に区分けされているが、この仲間で唯一、草として育つ種だ。名前を漢字の「松風草」に置き換えられるほどにやさしさそのままの姿に趣がある。臭いが強く、昔は虫よけに使ったそうだ。
足を進めてもアズマヤマアザミ、キツリフネ、アキノタムラソウ……次から次に花たちが待っていた。ゆっくり歩いて30分余りの短距離だったが、30種ぐらいの花が見られた。
日影林道は、高尾山域にあり、全山で1300種を超える草花が自生している。高尾山の地味豊さを表す好例にイギリスの例が挙げられる。英国全土で見られる1700種ほどに比べれば、高尾山一帯の植生の濃密さが感じられる。
■ 原田さんが見た花
キツリフネ | アズマヤマアザミ | イヌショウマ | ツリフネソウ |
ユウガキク | アキノタムラソウ | ミズヒキ | ダイコンソウ |
マツカゼソウ | ミツバフウロ | ノブキ(花と実) | シロヨメナ |
キンミズヒキ | ゲンノショウコ | ハナタデ | コメナモミ |
キバナアキギリ | ヤブミョウガ(花と実) | ヤブマメ | ミヤマタニソバ |
シュウブンソウ | サラシナショウマ(蕾) | レモンエゴマ | メナモミ |
イヌタデ | シラネセンキュウ | オオブタクサ |
■ 原田さんのコメント
時間(約35分間)の割には沢山のお話が出来てメンバーの方々のうなずく姿に大変勇気づけられました。また、ご質問もたくさん頂きありがとうございました。
私は本日の中で一番印象に残った野草はキバナアキギリの一株です。この野草は小仏川沿いをはじめ、他でも見かけていますが、日影沢で見たのはきょうが初めてでした。改めて高尾山の植生の豊かさを感じました。皆様は、どんな野草が印象に残りましたか?
ガイド:関根さん
甲州街道と中山道歩いた郡司さん、体験語る
昼食後にサプライズがあった。参加者の1人、郡司典子さん(杉並区)は10年ほど前に日本橋から藤野までの甲州道中と中山道を諏訪まで歩いた体験を話した。
概要は、次の通り。
甲州街道を日本橋から相模湖まで6日間、中山道は、帰りのバスの便を気にしながらも途中で風呂に寄るなどして楽しみました。
旧甲州街道では江戸情緒が散見できました。一番記憶にあるのは中野通りと甲州街道が交差する笹塚にある牛窪地蔵です。以前、この地は極悪人の刑場でした。牛で両足を引き裂く酷刑場であり、罪人の霊を鎮める意味で地蔵を祀ったといいます。ここにお地蔵様を置いたことは疫病の流行りも収めたということでしょうか。暗い感じがする地点であり、ほとんどの人が見過ごしてしまうところです。歴史を知ると知らないでは大違いです。
府中当たりに来ると、忽然と立派で大きな屋根の建物が見えます。東京競馬場とは知らず、びっくりしました。さらに映画「羅生門」(1950年公開。芥川龍之介原作、黒澤明監督、三船敏郎、京マチ子主演)撮影地の東郷寺山門もあっていろんな発見がありました。
藤野―相模湖間は、古道があまり残っておらず、所々で古道に入る程度です。古道が整備されているのは、ここ小仏峠の前後と小原宿を越えたあたりです。旧甲州街道は、多摩地域にお住まいの人たちに比較的近く、歩きやすいのでぜひおすすめします。
旧甲州街道を歩きましたが、行く先と足元しか見ていなかったことが、きょうよくわかりました。変電所など目に入っていませんでした。川についても人さまに話しができるようになりました。ありがとうございました。
そんな訳で、小仏宿を案内する企画と謳いながら、今に残る当時のものを説明して小仏宿を実感していただくには難しいところがありました。
しかし、それを補うものとして、郡司さんの「甲州道中の楽しみ方」のお話を聞かせていただいたり、交通インフラであった甲州道中が近代になってから鉄道(中央本線)という新しい交通インフラに変わった、その技術的な話を多めに織り込んだりして、ちょっと違った切り口で小仏宿を楽しんでいただきました。
参加された皆さんのアンケートでは、「面白かった、愉しめた」との感想をいただき、ホッとしているところです。
ガイド:味藤さん
【集合:2020年10月5日午前9時45分 JR高尾駅北口/解散:JR高尾駅北口 午後2時30分ごろ】