深緑に覆われた都立狭山公園を抜けると、多摩めぐりの参加者16人は、秋空の下に広がる村山貯水池(多摩湖)と、堰堤西方に連なる多摩川源流域のたおやかな山容に見とれた。12回目の多摩めぐりは、6月15日、雨にたたられて10月5日のこの日に延期してよかったと実感したものだ。湖面のさざ波は日光を受けてきらめき、風を通さない小さな入り江の水面は空の青さを映した鏡面。貯水池のシンボルであり、お菓子の国から飛び出してきたようなデザインの2つの取水塔は絵に描いたように湖面に浮かんでいた。心が晴れる分、貯水池建設によって90年ほど前に湖底から去った160戸余りの人々の重い胸の内を察するに余りあるように感じた。この日のテーマは「景勝の湖に見る光と影」。狭山丘陵の地形や水、深い緑が、まさに当時の人々の暮らしを支えていたことをつぶさに見てとれた。
目次
山また山の屏風絵と“お菓子の家”
村山貯水池は、上下の貯水池2つで構成しており、上貯水池は大正13年(1924)、下貯水池は昭和2年(1927)のそれぞれ3月に完成した。双方合わせた面積は東大和市の面積の約11.2%に及ぶ。満水時の貯水量は1,546万9千㎥で東京ドームの約13杯分に当たるという。
多摩川水系の水源地である小河内貯水池(奥多摩湖。満水貯水量は村山貯水池の約12倍)を補完する意味合いが強くなった村山貯水池は、多摩川の羽村取水堰と小作取水堰から送水された水を東村山浄水場と境浄水場へ送水する調整役を担っている。村山貯水池には朝霞・東村山間原水連絡管(朝霞・東村山線)もあり、多摩川や利根川の渇水時に朝霞浄水場を通して両水系の水を相互に送る設備も整っている。
下貯水池の堰堤の堤頂に立つ。高さは約33m。西には水源地の山また山が連続して展開している。西北から西南に広がるのは川苔山(1363m)、天祖山(1723m)、雲取山(2017m)、鷹ノ巣山(1737m)、六ッ石山(1479m)、日の出山(902m)、御岳山(929m)、御前山(1405m)。まだ連なる。大岳山(1267m)、三頭山(1531m)、小金沢山(2014m)、馬頭刈山(884m)、黒岳(1792m)、雁ヶ腹摺山(1874m)と山梨県と奥多摩の水源地の山々が屏風絵のように横たわっていた。さらに堰堤北端で待っていたのは黒い富士山(3776m)だった。
羽村取水堰は、ここよりも約10m高いというが、村山貯水池の水源林が周囲を覆い、目につかない。もちろん、送水管は地中に埋められ自然流水で送り込まれている。堤頂の長さは南北に約600mと長く、幅約8m。堰堤とは思えない、道路だ。柵に身を預けて湖面を覗く。満水時の水深は約21m。7、8階建てのビルがすっぽりと沈みそうだ。上貯水池よりも4mほど深いという。
目につくのが取水塔だ。手前にあるのが第一取水塔。奥が第二取水塔だ。第一取水塔は高さが27.1m。大部分が水面下にあり、7口ある取水口は見えない。大正13年(1924)7月に完成したレンガ造りのドーム型で、日本一美しい取水塔とうたわれ、平成21年(2009)、東京都選定歴史建造物になった。長く境浄水場へ送水していたが、昭和35年(1960)から転換して東村山浄水場へ送っている。
第二取水塔は、昭和48年に増設されたもので第2村山線を通して東村山浄水場へ送水している。塔のデザインは第一と似ている。
大久野案より安価で貯水に好適な地形
建設計画が持ち上がったのは110年以上も前だ。東京市中の人口は相変わらず急増し、コレラ菌の大流行にも脅威を感じていた東京市は、明治42年(1909)に新たな水源確保に乗り出した。2案が出たのは2年半後だ。ともに多摩川上流を水源とした大久野貯水池案(現日の出町)と村山貯水池案(現東大和市)だ。平井川に巨大な堰堤を造るよりも狭山丘陵の地形が貯水に向いていること、工費が安価(村山案が2,072万円で、大久野案よりも400万円安かった)だったことが決め手だった。羽村堰ではすでに玉川上水へ取水しており、10m低い村山貯水池へ自然流下で送水できることもメリットだった。村山で貯水した水を40~50m低い武蔵野台地にある境浄水場で浄水処理して和田堀浄水池を経由して東京市内へ自然流下させることも可能だった。
7集落160戸余りを飲み込んだ湖面
計画地の上流部には石川集落があり、下流部には宅部川が流れ、7つの集落は肩を寄せ合うように密集していた。丘陵の南面を「表」といい、北面を「裏」と呼ばれていた。日照の長いところが「表」だった。買収対象になったのは「裏」で、現在の東大和市域にあたる石川46戸、上宅部42戸、内堀38戸など7地区で162戸(161戸ともいわれる)。旧大和村の総世帯の約23%だった。谷底集落とは言え、棚田を中心に40町(約40万㎡)以上という水田があり、旧大和村では最も水田が多かった。稗や粟、麦、野菜も栽培していた。現金収入を得るために稲作のほかに養蚕や製茶も手掛けていた。刈り取った米を売り、魚など日常食の購入に充てた。ランプとろうそくの生活で、肉などは物日以外にはほとんど口にしなかったという。
東京市や国は、計画実現へ手続きを進める中、村人たちは大正3年(1914)1月22日、「住民の死活問題なり」と移転反対住民大会を開いた。村長排斥派と村長擁護派が対立する中で、村内工事は村人にと隣接の住民などが工事請負請願を出した。最も早く動いたのは三多摩地域や東京市の有力者たちで、建設資材を運ぶ軽便鉄道敷設の免許申請をした。
狭山の山が割れんばかりの騒動だったが、土地買収価格は1坪(約3.3㎡)あたり、山野・原野43銭、畑73銭などで決着。当時の日本酒の特級酒が1升1円ほどだった。
大正4年(1915)7月、移転が始まり、東大和市内5ヶ所に143戸が移ったのをはじめ、武蔵村山市、小平市、東村山市、埼玉県所沢市、千葉県八街市、栃木県西那須野へと散った。多くの人は人力で家財道具を運び、神社や寺、墓石や石造物も移転を余儀なくされた。土地の買収協定に応じなかった6人に対して大正8年12月25日、内務大臣が東京市の申請を認め、強制執行した。
空襲をカモフラージュして免れる
下貯水池の堰堤の光景に不釣り合いな黒ずんだコンクリートの柱がある。貯水池完成時の昭和2年(1927)3月に建てられた親柱で、いまはモニュメントとして残されている。当時は今より北側の堰堤にあったという。なぜ、黒ずんでいるのだろう。太平洋戦争が激化する中で、貯水池堰堤を防護するために堰堤に玉石を2.5mかさ上げしてコンクリートで固めた耐弾層を設けた上にコールタールを塗って爆撃機から堰堤と分からないように工作した。その時、親柱の露出した上部にコールタールを塗った痕跡だという。空襲を受けたのは昭和20年4月から3カ月の間に上貯水池を含めて5回あった。破壊を免れたが、いまも第一取水塔には弾痕があるという。
建設当時を物語る遺物がもう一つある。貯水池北東寄りにある排水路トンネルと排水管だ。建設工事をするには宅部川の水を堤から出すために敷設した排水管だ。その管を人がくぐれるほど太いコンクリート製のトンネルで覆って強度を高めた。平成21年(2009)まで行われた堰堤強化工事の時に発見されて、当時の土木技術遺産として展示している。
中野技師・中島博士忘るまじ
村山貯水池を語るには欠かせない2人の碑がある。1つは、排水路トンネルと排水管が展示してある西隣に中野昇技師を顕彰した碑だ。工学博士で貯水池を設計した中島鋭治氏に就き、立ち働いた技師で、東京市内への給水を始めたころの大正14年7月4日に亡くなった。この碑から湖岸沿いのさらに西方に中島鋭治博士頌徳碑がある。ヒマラヤスギとクロマツに見守られるように建つ、高さ数メートルもある碑だ。碑は語る。「東京市水道の恩人なり。我が国の都市の大半にわたりて上下水道を計画施行。水道鉄管の基準のごときも先生の調査創定したる不朽の典型なり」と刻んでいる。
再建250年の寺で“龍の声”聞いた
参加者一行は、中野昇顕彰碑を後にして西武山口線レオライナーに乗って西武球場へ向かった。球場近くにあるのが金乗院(こんじょういん)だ。山口観音として親しまれている真言宗豊山派の吾庵山金乗院放光寺で、宝暦年間(1751~1763)に再建された本堂は重層感が漂っていた。35代住職の田中正樹(せいじゅ)さんは、奈良時代の僧・行基が修行の折に野宿を求めていたところ、夢に光る霊木を見て、この地に開山を進めたのが始まりと、放光寺の由来を語ってくれるなど、寺のゆかりを本堂で話した。本尊の千手観音菩薩は33年に一度の開帳だが、いつでも親しめるように「裏観音」があることにも触れた。
本堂に掲げられた絵馬にも目が行った。江戸時代後期に青梅で生まれ、晩年の20年ほど所沢で絵師として活躍した石川文松の手になる「六歌仙図大絵馬」(文政3年=1806)は中央の僧正遍正を囲むように在原業平と小野小町を配して和歌の上達を願ったものだという。天井画の龍の下で参加者が入れ替わり立ち代わり両手を打ち、その響く音を実感した。鳴き龍の音だと。
主いない社に建設犠牲者の碑
再び湖岸に出て、多摩湖自転車歩行者道を北西に進む。左手に見える湖面は上貯水池だ。程なくして現れたのが玉湖(たまのうみ)神社の鳥居。湖底に沈んだ村人の思いを新たに刻んだものだろう。昭和9年(1934)12月、東京市の水道吏員だった福島甲子三の発案で社殿を造った。設計は明治神宮を造営した大江新太郎技師だった。
ガイド:前田さん
参加者一人一人が龍の下で手を打ち、龍の鳴き声を聞きました。低く体が震えるような“声”に皆さん、驚きの声を上げていました。
さらに、壁面に掲げられた絵馬の数々、個人的には所沢村の煙草の商い人が商売繁盛を願って奉納したという「煙草屋図大絵馬」に江戸時代中期の地方の商人の様子がうかがえて興味深いものがありました。多くのことを目にし、耳にして金乗院を後にしました。
そのあと訪ねた玉湖神社は、昭和9年(1934)に水の神を祀るために竣工しながらも昭和42年、公共団体が神を祀ることに問題があるとして「みたま遷し」が行われました。今は本殿のみが寂しく残っていますが、その姿に今もなお建設に尽力した福島甲子三の想いをそのままに神が存在し、村山貯水池を見ているような気がします。
木々と山門と湖面に映る悲哀
来た道を戻り、上堰堤を目指した。上堰堤の北詰めあたりで右手の展望が開けた。眼下に延びる上堰堤は貯水池を二分した様子が手に取れた。双方の貯水池を結ぶ送水管が埋設されている。湖面を渡った冷風か、汗ばんだ頬と腕をなでていく。緑濃い対岸の丘陵と、青い空と、そこに浮かんでいる白い雲を見つめていると、狭山丘陵の人と自然と時代の悲哀を感じずにはいられなかった。
そんな思いをさらに強くしたのは背にある慶性門(けいしょうもん)だ。この付近に祀られていた慶性院の境内は水道用地になり、止む無く東大和市芋窪に移転し、山門だけが昭和29年にこの地に移設して復元された。ケヤキの柱の束(つか)に記してあった年号から文久元年(1861)に建てられたものと分かった。住持と名主、大工の名も墨書されていた。門の屋根は茅葺きだが、所々がはがれ、痛ましくさえある。門の正面から上貯水池の湖面が輝いているのが見えた。
上貯水池堰堤北詰めにあるのが前述した「中島鋭治博士頌徳碑」。この堰堤は、車道専用で、歩行者は長さ約320mの堰堤の下を歩いて南へ渡る。堰堤は大正11年(1922)11月完成だが、平成29年3月から補強工事が続いている。
ガイド:相山さん
湖の周りには、にぎわいを見せる西武ドーム(メットライフドーム)などとともに湖建設のために取り残された寺の山門、太平洋戦争にまつわる遺構などを見ることができます。美しい水面を見せる湖は、過去の思い出と今日の繁栄を静かに映し出しているようですね。
【集合:西武多摩湖線武蔵大和駅 午前9時30分/解散:東大和市郷土博物館 午後3時30分】