「第62回多摩めぐり~大神・宮沢の多摩川畔に昭和のビッグニュースの跡を訪ねる」を5月23日(土)に開催します

第61回多摩めぐり 詩人が暮らした秋津とアニメ作家がアイデアを練った東村山市秋津・淵の森緑地を訪ねる

水に洗われて根をむき出しにした樹々の前を流れる柳瀬川に降りた参加者たち
(淵の森緑地で)

ガイド : 吉田 敏夫さん

主なコース

JR武蔵野線新秋津駅(集合)→ 秋津神社 → 淵の森緑地 → 氷川神社 → 草野心平住居跡 → 光あまねしの碑 → 地蔵堂(一石六地蔵)→ 西武線所沢駅(解散)

柳瀬川流域に広がる田畑。過ぎし日の静かでのびやかな東村山市秋津町を連想したのは昭和36年(1961)に空撮された一枚の写真だった。多摩地域のどこにでも見られた光景ながら、この一角に自ら住み、「五光」と名付けた詩人の草野心平は「後世に語り継いでほしい」というほどのお気に入りの地だった。そんな時代を経たこの地にも開発の波が押し寄せた。同時に自然回帰を呼び寄せた。アニメ監督の宮崎駿さんにとって、散歩に欠かせない地であり、作品の構想を練った、とっておきの雑木林もこの界隈にある。この土地を買い取るために全国の人々に呼びかけた募金を東村山市と所沢市に寄付して両市が土地を買い取った。いま、雑木林にはキンランやフタリシズカなど季節の花が清らかに咲き誇り、後世に繋ぐ地に生き延びていた。そんな東村山市秋津の歴史を踏まえて現在を見たガイドの吉田敏夫さんが4月25日、61回目の多摩めぐりに参加した19人を案内した。

奈良・平安の住居跡出土

秋津の前身である南秋津村が誕生して人が住み始めた年代は定かではないが、秋津町の柳瀬川流域に当たる下沢遺跡から奈良・平安時代の住居跡が発掘されていることから当時すでに住みやすい土地だったようだ。

寛文8年(1668)の検地では15~16軒の家に100人ほどがいたという。それぞれが細々と田畑を耕した寒村だったか。家が136軒に増えたのは明治9年(1876)。896人が暮らしていた。村は明治22年に周辺の野口村、久米川村、廻り田村、大岱(おんた)村と合併して東村山村になって今日の姿を現し始めた。村から町へ(昭和17=1942年)、町から市へ(昭和39年)と機能を拡大してきた。

水と神域か、武蔵守の名か

この日、訪ねた地域を、なぜ「秋津」と呼ぶようなったのか。『東村山の地名とそのいわれ』(東村山郷土研究会刊)によると、川沿いの低地を意味するアクツが転じて秋津になった。さらに神域を示す「アキ」が柳瀬川の流域を指す「津」であることから秋津になったという。

諸説のもう一つは、地方では武蔵国に初めて悲田処が設けられたのが多摩・入間郡の境にあった秋津だったことだ。悲田処とは困窮、孤独の人を救済する施設で奈良時代に光明皇后が設置した。東村山の悲田処では公私の旅人らが飢えを凌ぎ、病気を治すための無料救済を目的にしていた。

当地に悲田処を設置する願いが朝廷に出された天長10年(833)。当時の武蔵守・文屋真人秋津(ふむろのまひとあきつ)が設置に尽力したであろうことからその功を称えて秋津を地名にしたといわれる。水に恵まれない武蔵野台地にありながら、この流域は水が豊富で、住みやすい上に、地元の人々はおろか、旅人にも手厚く手を差し伸べた秋津の人々の人柄の尊さを知る歴史ポイントだ。

秋津の土地柄や秋津神社の成り立ちを聞く参加者(秋津神社で)

崇められた秋津のお不動様

集合地の武蔵野線新秋津駅に近い秋津神社の境内には大木のケヤキが凛と立っていた。同神社の創立年は不詳だが、植田孟縉(もうしん)が著した『武蔵名所図会』(文政3=1820年刊)によれば、新田義貞が元弘の乱(1331年に起きた北条氏との戦い)で日本武尊の武勇にあやかりこの地に陣を張り、不動像を木に掛けて征伐を祈念したことが神社の創始といわれる。別の口承の寺社台帳(明治38=1905年)には天授年中(1375~1380年)の創立としている。

秘蔵のご神体は石製の不動明王像(高さ56.5㎝)と伝わり、元禄12年(1699)に長源寺(所沢市下安松)の実応住職が寄進した銘があるという。

秋津神社は、元は村民持ちの不動堂であり、「秋津のお不動様」と親しまれた。文化10年(1813)の南秋津村村鑑帳には持明院(所沢市北秋津)の支配下にある百姓、四郎左衛門持ちと記載されている。明治政府の神仏分離令で不動尊から秋津神社に改称されて、ご祭神を日本武尊としたと考えられている。

卓越した技量の宮大工が彫る

ガイドの吉田さんは多摩めぐりの参加者を拝殿前へ案内した。再建された文政4年(1821)まで本殿があったところだ。その本殿は現在、後方に移っている。本殿に覆いをしたのは大正10年(1921)12月で、本殿の彫刻群を守った。

この彫刻はといえば、藤沢村(入間市)の工匠棟梁・杉田藤太夫藤原政永の手になるものだった。政永の腕前は、宮大工や彫師として卓越した技量を持っていたことから石見頭に任じられたほどで、政永(江戸時代中期)以降、杉田家は3代に渡って大工職と村役人を継承した。

政永が彫った本殿彫刻は、升組(ますぐみ)に乗る本殿の柱や側面には細やかに彫り込んだ龍、象頭、鯉などの生きものや蘇鉄、水仙、芍薬、菊といった中国の故事や歴史に則り、リアルに描き出すためにひと彫りずつノミをあてた手作業を彷彿とさせた。

手を尽くして彫った本殿の彫刻に見とれた(秋津神社で)

池から救った不動や庚申塔

境内には寛延3年(1750)に建立された倶利伽羅不動の石像があった。風化を凌いだ風情が漂う。石像は、神社のハケ下の湧水池に埋まっていたのを境内に引き上げて祀っている。本殿右奥には傘が付いた庚申塔もあった。建立年は宝永7年(1710)とあり、多摩郡向安松村と彫られている。建立3年前の宝永4年11月に富士山が大噴火して江戸周辺にも大量の火山灰が降ったことから噴火による飢饉で苦しんだ人々が災難除けを祈願したものか。

蛇がまとわりつく俱利伽羅不動(左)などを祀った当時の人々の思いに気持ちを寄せた
(秋津神社で)

境内下を通る貨物専用線

秋津神社の拝殿は昭和52年(1977)に新築された。神社の改築資金にはJR武蔵野線敷設のための土地譲渡金を充てたそうだが、いまも境内の地中には西武池袋線の貨物専用線のトンネルがある。延長202mを超す。JR新秋津駅と西武鉄道所沢駅、西武池袋線秋津駅を結ぶ貨物専用線を生かして2028年度を目途に西武線は武蔵野線に乗り入れて、秩父エリアと東京湾岸エリアを結ぶ計画が進められている。

市民が守った楽園の雑木林

西武線貨物専用線を眼下にする一方で右手の頭上を走る西武池袋線を見ながら進んだ先に柳瀬川を渡る安松橋があった。渡り切った安松橋から西武池袋線のガードを潜った。眼前に展開したのは急カーブする柳瀬川だった。この日の穏やかな流れとは違い、一旦雨が降ると増水する暴れ川を想像するほどの急カーブだった。

若葉に彩られた頭上を見上げた淵の森緑地。右の碑は緑地を開設した意図を綴っている

柳瀬川のカーブ地点にある「淵の森緑地」は東村山市と所沢市が接しており、カシやコナラ、ケヤキなどの広葉樹が茂る中、下草刈りをした散策路の足元などにキンランが、フタリシズカが、さらにサワフタギなどが咲き乱れていた。キンランに至っては「これぞ群落の光景だ」と参加者の声が林に響いた。

アニメ作家の宮崎駿さんが中心になり、地域住民や自治会などに呼び掛けて淵の森保全連絡協議会を作り、3億円を東村山市と所沢市に贈ったことからその面積は両市合わせて約5千㎡(平成8=1996年度)になった。

11年後には別の開発計画が持ち上がり、対岸の八郎山緑地と一体的に保全するように協議会で要望して寄付活動を始めた。その結果、緑地は合わせて約7千㎡になり、淵の森の会(会長・宮崎駿さん)が保全・管理をボランティアで進めている。

宮崎 駿さん

「となりのトトロ」の源に立つ

この雑木林をはじめ、1970年から所沢市に移り住んだ宮崎さんは近隣を散歩して自然や土地柄に触れるうちにアニメ映画「となりのトトロ」を着想した。そのアイデアから十数年後の昭和63年(1988)に「となりのトトロ」を公開して一躍、世界各国の人々に愛された。「となりのトトロ」の誕生地に立った参加者たちの眼と体の動きは言わずもがな。

人が手入れしていることを表す切株を囲んで参加者で記念撮影(淵の森緑地で)

山の神が並ぶ境内社

氷川神社の境内を引き締めていたのは幹回り5mもあろうかというケヤキの大木だった。この神社の創建年も不詳だったが、弘仁9年(818)ごろには真言宗龍泉寺境内に氷川社があったことから当時、龍泉寺の別当だったとされている。本殿を再建したのは明治41年(1908)。元の本殿の棟木に万治2年(1659)の再興年を記していたことから創立は、それ以前で、南秋津村の鎮守として崇敬を集めていた。大正5年(1916)にご神体を遷座した。現在の社殿を築造したのは昭和59年(1984)。境内社に愛宕神社(天明3=1783年建立)、三峯神社(明治37=1904年建立)、八雲神社(昭和30=1955年建立)があり、いずれも山の神を祀っている。これらを連ねた石垣には文化10年(1813)の制作年を示していた。

南秋津村の鎮守様だった氷川神社について語る吉田さんを囲む

カッコウが鳴く五光を命名

多摩めぐりの一行は、真新しい戸建て住宅が続く中を昭和30年代の地名だった「東村山町大字南秋津字中沢」へ向かった。いまの東村山市秋津町4丁目だ。東村山市が市制を敷く1年前の昭和38年(1963)10月、当時の南秋津中沢に移り住んだのが詩人の草野心平だった。隣家には3軒しか家がなく、農家がポツンポツンとあるのみで、50mほど先に水田が大きく開けて、雑木林からカッコウの鳴き声が聞こえていたという。この界隈に新しい名前をつけようと隣人と相談した草野心平は、この地を花札から取った「五光」と名付けた。

昭和40年、五光自治会が発足した6年後、近くの農家が伐採したヒノキを見た当時の自治会長が五光の標識を立てることを思い付き、草野心平宅に木材を持ち込み、揮毫を頼んだ。断り切れない草野心平は、「五光」と書き、その横に「光あまねし」と記した。その角柱は数年後、風雨にさらされていたことから昭和56年(1981)11月23日、柳瀬川に架かる秋津橋右岸に新たな石碑として建てられた。碑は、群馬県鬼石町の三波川で産出した水成岩に、草野心平が揮毫した「光あまねし」の文字を黒花崗岩にはめ込んである。

「光あまねし」の碑は、強い日差しを避けるように若葉が生い茂ったケヤキの根元にあった
(秋津橋で)
五光自治会の入口に当たる秋津橋右岸に建つ「光あまねし」の碑

波乱な人生から見た社会

草野心平は明治36年(1903)5月12日に現在のいわき市小川町に生まれた。4歳で両親と別れて祖父母に育てられた。その後の人生も波乱含みだった。13歳で母と兄、姉を失い、18歳で中国へ渡り、嶺南大学に入学。

大正14年(1925)に帰国して同人誌『銅鑼』を創刊。宮沢賢治、高村光太郎らと交流した。
昭和3年、25歳で江島や満(やま)と結婚、その年に前橋市に転居して新聞記者、校正係などをして生活を支えた。

75歳の草野心平(昭和53年撮影)

あるがままの自然を歌う

詩作に心血を注ぎ、詩誌『歴程』を創刊する一方、昭和13年には詩集『蛙』を刊行した。昭和25年、一連の「蛙の詩」や「富士山」「天」「石」などの主題で活発な詩作にふけった。書や画、小説、随筆など幅広い創作活動で版画家・棟方志功の版画による詩画集『富士山』や詩「わだばゴッホになる」も書いた。

草野心平の計り知れない行動範囲は広い。焼き鳥屋の屋台を開いたかと思うと、居酒屋経営に乗り出すなど豪放磊落ぶりを見せていた。生活のために居酒屋に身を置いただけではなかった。随筆集『わが生活の歌』では食べ物、酒場、花の栽培、野菜作りなど食に関するものにも目を向けて作品に生かしていた。

生涯30回以上も引っ越しを繰り返し、60歳で初めて家を建てて、五光に移り住んだ草野心平は、隣近所の人々とも盃を交わし談笑した。

子らにも眼を向けていた。その象徴は依頼されれば校歌も詩作した。都立清瀬高校、都立拝島高校、練馬・石神井中学校、練馬東中学校、東村山第五中学校など小平市、調布市、東大和市内の学校にもおよび全国各地の100校以上の校歌を作詞している。草野心平は昭和63年(1988)11月12日、85歳で亡くなった。

草野心平の詩の特徴である同じ音節を繰り返して詠むオノマトペの効果が生きた詩『雪の朝』に五光が光る。昭和59年(1982)81歳で刊行した『玄天』に収めた作品を紹介したい。

   ショビショビショビショビ秋津霙。

   ショビショビショビショビ秋津霙。

         それがいつのまにか。

         ふんふんの雪にかわり。


   ふんふんふんふんゆきふりつもる。

   ふんふんふんふんゆきふりつもる。

   ふんふんふんふんゆきふりつもる。


         そうして夜になり。

         夜中もふり。

      
         朝。

 

   わが五光畑いちめんの雪に。

   太陽光はまぶしく。

 

   ダイヤモンド微塵が。
   キンキン光ル。

「光あまねしの碑」から近い、緩い坂道の途中に丸みを帯びた石像を見やりながら歩くと、そこは地蔵堂墓地だった。この入口に立つのが一石六地蔵だ。東村山市内にある11組の六地蔵のうち9基が一石六地蔵で、ここにはそのうちの1基がある。高さ62㎝。秋津の旧家角田家の先祖が江戸時代中期の宝暦10年(1760)と明和3年(1766)に亡くなった幼児の冥福を祈って造立したものだという。六地蔵は、他の多摩地域にも多く見られるが、一石に6体を彫った地蔵は数少なく、東村山市指定有形民俗文化財になっている。

幼児2人の冥福を祈った一石六地蔵
(持明院管理の地蔵堂墓地で)

多摩めぐり一行の解散地である西武鉄道所沢駅東口ロータリーで出迎えてくれたのはアニメ映画「となりのトトロ」の猫バスだった。所沢市が令和2年(2020)秋に建てた。車内にはサツキとメイらが表情豊かにシートに座っていた。これを見た参加者は大はしゃぎ。また、全国に保健所の本所が462か所(令和8年現在)がある中で、この地が中央区京橋とともに保健所の発祥(昭和12年)の地だという碑があってこの日の充実感が一層、増幅した。

「となりのトトロ」発祥を歌う所沢市が設置した猫バス(西武鉄道所沢駅東口で)
吉田さん
吉田さん

蛇行の姿を残す柳瀬川上流、秋津という地名に加えて2人の著名人が暮らした東村山市秋津町に興味を覚えて訪れてみようと思ったことがきっかけでした。

アニメ作家の宮崎駿さんや地域の人たちの働きがあって、貴重な自然を残した柳瀬川沿いの「淵の森緑地」は、アニメ「となりのトトロ」を思い浮かべながらの散策に若葉の今がよい季節です。

秋津の地名の由来を調べると、平安時代初期の貴族・文屋秋津が由来の一説に登場するなど、古くから人々が往来した土地であったこと。また、神社や庚申塔などの彫刻や刻まれた文字などから現在の所沢市や入間市と深い関わりがある地域であると実感しました。

すっかり様変わりした五光地区では詩人・草野心平が暮らし始めた昭和30年代後半から現在までの空中写真を見て、「自然のままに」を表現した詩人が住んだ25年間の秋津を思い浮かべました。東村山市の北端にある秋津町を歩き、柳瀬川にふれた一日を楽しんでいただけたでしょうか。ご参加ありがとうございました。

【集合:4月25日(土) 午前10時30分 JR武蔵野線新秋津駅/
 解散:西武線所沢駅東口 午後2時30分ごろ】