
ガイド : 菊池等さん
JR五日市線武蔵引田駅(集合)→ 阿伎留医療センター → <バス> → 日の出山荘入口 → 日の出山荘見学(昼食)→ 長井公会堂前 → <バス> → 阿伎留医療センター → JR武蔵引田駅(解散)
日の出町の人里離れた山間にある農家屋風の山荘から世界各国へ国際的な情報が発信された。昭和58年(1983)11月11日、第40代アメリカ合衆国大統領、ロナルド・レーガン氏が第71代内閣総理大臣・中曽根康弘氏の日の出山荘(日の出町大久野)を訪れたのだった。2人はロン、ヤスと呼び合うほどの信頼を表した。それまでに10回以上会談して築いてきた友情をさらに深めて日米関係を強化した。この翌年、大韓民国大統領の全斗煥氏、続いて平成4年(1992)に当時のソビエト連邦最後の大統領になったミハイル・ゴルバチョフ氏を山荘に招いた。それぞれの大統領は満面の笑みで歓談して信頼し合った。この山荘はいま、「中曽根康弘 ロナルド・レーガン日米首脳会談記念館」として公開されていることから多摩めぐりの一行19人は、11月26日に菊池等さんのガイドで訪ねた。
のびやかな町の風情
多摩めぐりの一行は、阿伎留医療センター(あきる野市引田)から日の出町が運営しているコミュニティーバス「ぐるりーん ひのでちゃん」に乗って日の出山荘へ向かった。車窓に映る大型ショッピングセンター、両サイドに畑が展開する一方、鍋底にあたる平井川沿いに拓ける町の中心地的な役場。その裏手の小高い丘には太陽光発電のソーラーパネルが斜面を覆っていた。役場と向かい合う東斜面を埋める戸建て住宅の日の出団地から新宿のビル群や東京スカイツリーが見えるなど日の出町ならではの光景を楽しみながら進んだ。車中は、さながら多摩めぐり参加者の貸し切り状態で日の出町の概要が分かる話題のレクチャー会的な趣だった。
都内有数の人工林地帯
日の出町は、北西に位置する日の出山(902m)を最高峰に、南東へ下る山間地だ。町の面積は多摩地域の中で府中市に次いで8番目に広い28.08㎢。日野市よりも広い。その68%は森林。さらに、そのうち人工林が81%を占めている。道理で見渡す限り山また山が重なる林地に生えるスギやヒノキが目につく。都内でも有数の人工林エリアだ。

26市町のごみ焼却灰埋める
高度経済成長時代に市民生活を大きく変えたごみの問題で白羽の矢が立ったのは町役場の北方にある谷戸沢処分場だった。平成10年(1998)4月に埋め立てを終了し、現在、さらに奥地の二ツ塚処分場で多摩25市1町から収集されたごみの焼却灰を埋め立てている。これらは東京たま広域資源循環組合が管理している。ここに加わっていないあきる野市、日の出町、奥多摩町、檜原村が別に西秋川衛生組合を昭和48年(1973)に作り、高尾清掃センター(あきる野市高尾)や御前石最終処分場(同市網代)で収集処理や最終処理をしている。
全国の6割占める生産地
バスのひのでちゃんは、林間が濃くなった平井川の支流である北大久野川沿いを走る。北方の梅ヶ谷峠を越えた先にある青梅市日向和田方面へ抜ける都道だ。車内で「私の知人は、この道を嫌がるの」という声が聞こえる。「なんだか、霊がつくといって」と言葉を重ねている。近くには卒塔婆の製造工場がある。卒塔婆は日の出町の一大産業で、全国生産量の6割以上を出荷しているという。その歴史は古く、江戸時代の元禄期(1688~1704)に伊勢参りした大久野村羽生の名主・文右衛門と惣兵衛が旅僧から卒塔婆の存在を聞いたことから早速、作り始めて江戸の寺院に売り出して注目され続けてきた。今日も基幹産業の一役を担っている。

主要な石灰石採掘から建設資材へ
西に鎮座する勝峰山(かつぼうやま。454.3m)で太平洋セメント(旧浅野セメント)が産出していた石灰石も日の出町の基幹産業だった。採掘と輸送のために大正14年(1925)に新設・延伸したのが鉄道の武蔵五日市―武蔵岩井駅(2.74km)間(昭和46=1971年2月1日に大久野―武蔵岩井駅間0.6km廃止)。日本屈指の石灰石産地だった。採掘は平成8年(2008)に廃止されたが、工場ではいま、熱に強いセメントや急速に固まるセメントなど多様な建設資材を作っている。

快晴の空とぽかぽか陽気に恵まれた第58回多摩めぐりの今回は、ロン・ヤス日米首脳会談が行われた日の出山荘だけを訪ねる企画だった。出発時に乗ったコミニュティーバスは多摩めぐりの会20人が乗車して満員状態で出発。初めて乗車された参加者もいて、路線バスが通らない細い道をくねくねと走るなど普段見ない街並みを車窓から見た。
日の出山荘入口バス停に到着して、降りた広場で日の出町の概要を説明し、その中で多摩地区25市1町のごみ処分を日の出町が受け入れていることを初めて知った方が多かったようだった。説明の後、坂道を十数分歩いて日の出山荘に向かう途中の紅葉に皆さんが感動されていたこともシーズンにジャストミートした企画になった。
山荘の敷地に入り、受付事務の原ヨネ子さんの案内が始まり、中曽根康弘氏が泳いだプール、全斗煥元韓国大統領から贈られた鐘、庭園の木々やモミジの紅葉、バナナの大木、母屋である青雲堂の囲炉裏を囲んだレーガン大統領夫妻と中曽根氏夫妻の昼食会の様子、庭の池、天心亭でロン・ヤスの2人だけで行われた日米首脳会談など長年、中曽根氏の側で働かれた原さんならではの案内で参加者の皆さんが納得されていた様子に安堵した。書院などを見学された皆さんは、部屋の作りや展示パネルを見て当時の中曽根氏の活動を思い出された様子でもあった。
「農業するぞ」と意気軒高な中曽根氏
バスの車内で日の出町談義に花を咲かせているうちに日の出山荘入口のバス停に到着した。車内の和やかな気分を一転させた音が耳に飛び込んできた。ぽつん。コト。ゴツン。カサカサ……。周囲を見回すが、なんの姿もない。「なん~だ、ドングリだった」と安堵。大木から実が落下する音だった。

一行は北大久野川沿いの道路から分かれて小長井入沢沿いの道に入った。山間の最後の民家から数分のスギ林に覆われた先に、きょうのメインポイントの日の出山荘の入口がひょっこり姿を現した。

国会議員だった中曽根康弘氏がこの地に家を買い求めたのは昭和37年(1962)。当時、すでに過疎化が進んでいた日の出村の状況を気にしていた志茂忠雄村長は中曽根氏に相談したことがきっかけで中曽根氏が買い求めた。その農家屋は嘉永3年(1850)ごろに建てられたものだが、藁葺屋根が抜け落ちて廃屋同然だった。柱など主要な部材を残して修繕した中曽根氏は「ここで農業をする」と宣言していたそうだ。その名も「日の出農場」。政治活動の合間に月に1、2度やってきて草を刈り、茶をたてて休養した。大好きな入浴後、和服に着替えて、庭を散歩した。ミズバショウなど庭に咲く草花に語り掛けるように眺めながら散歩を楽しんだ。夏場は10mほどもある自前のプールで泳いでもいた。

茶をたて、客をもてなし、思索
敷地は2万5千㎡。ここに青雲堂、天心亭、書院の3棟が建っている。主屋である青雲堂は、往時の茅葺きの風合いを生かしている。山荘の拠点であり、出身地・高崎市の活動拠点だった「青雲塾」に倣って命名した。ここで茶をたてて客人をもてなし、趣味の俳句を数多く詠んだ。

炉を切って茶室に仕立てたのが天心亭だ。天心亭と名付けたのは明治時代の美術家・岡倉天心に由来しているという。天心亭は他の建物に比べると、やや小ぢんまりした約25㎡の敷地に木造、平屋建て、杉皮葺きの屋根を乗せている。部屋に中曽根氏は仏像を置いて座禅を組んだ。夜更けには読書をし、ラジオを聞くこともあった。寝泊りは、この天心亭だった。


国会議員在職、半世紀
別荘の建物の中で一番新しいのが平成元年(1989)に建てた書院だ。外見は洋風だが、造りは木造建築。スレート葺き。中曽根氏の首相在任が5年。昭和22年(1947)に28歳で衆議院選挙に初当選した。若手のころは「青年将校」と呼ばれ、後に原子力関連法案の議員立法も呼びかけた。首相の公選制や憲法改正にも声を上げた。自民党総裁選で小派閥ゆえに「政界の風見鶏」とも揶揄された。国会議員在職50年にわたる間、政治の舞台で共にした友人を書院に招いて労った。





どの建物にも会談の和やかさを表す顔だったり、真剣な眼差しの中曽根氏だったりする写真が展示されている中で、書院にはダンスを踊る姿の写真があって国内では一般的に見慣れない友好ぶりが伝わるものがあった。
胸襟開いたレーガン大統領

日の出山荘が世界的に注目されたのは昭和58年(1983)11月。9日から都内で始まった日米首脳会談でロナルド・レーガン大統領が来日した。翌日も中曽根首相と会談。席上、不沈空母問題や貿易摩擦などで悪化していた日米関係を改善し、より一層強固なものにしたといわれた。
こうした友好のお膳立てが出来た11日、中曽根氏はレーガン大統領夫妻を日の出山荘に招いた。互いにちゃんちゃんこを羽織って、いろりを囲み、両夫妻共々料理に舌鼓を打ち、親交を深めた。この象徴的な関係を言い表したのが互いに「ロン・ヤス」と呼び合ったことだった。

ロン・ヤスが初めて会ったのは同年1月18日。中曽根氏が首相就任後、初めての訪米で首脳会談に臨んだ。この時、中曽根氏は日本の市場を開放し、たばこ関税を引き下げるほか、防衛費の増額、武器技術供与へ踏み切ることをレーガン大統領に伝えた。中曽根首相の思い切った発言にレーガン大統領は「やれる男」という信頼を強くしたとされる。
その表徴は、翌19日にあった。レーガン大統領は中曽根首相夫妻をホワイトハウス3階での朝食に招いた。ここは大統領夫妻が毎日使っている居間であり、食卓だった。これまで居間に招かれたのはイギリスのアン王女1人だった。レーガン大統領が中曽根首相に心を許していた表れだっただろう。
このお返しに中曽根首相夫妻は日の出山荘の青雲堂へ大統領夫妻を迎え、昼食を共にして話に花を咲かせた。畳に座り、膝を交え、笑顔で歓談した様子を撮った写真が青雲堂に展示してある。天心亭では日米首脳会談を行い、茶をたてた。接待は中曽根流のシンプルなものだが、温かいもてなしにレーガン夫妻は感激していたという。役場裏手のロケット型の給水塔近くにある見晴らし台にはレーガン大統領と中曽根氏が子供らの前で握手をするレリーフがある。
昭和61年(1986)には中曽根首相が再訪米した際にレーガン大統領夫妻にキャンプ・デービット(ワシントンから約100km)に招かれた。ナンシー夫人の手料理でもてなされたのは日本の首相として初めてだった。
韓国、ソ連大統領も山荘へ
レーガン大統領の来日の翌59年(1984)9月6~8日に大韓民国大統領の全斗煥氏が来日した折の7日、中曽根首相の招きで日の出山荘を訪れた。その返礼の鐘が山荘入口近くに設置されている。山荘を管理する原ヨネ子さんの許しを得て打ってみた。やや高めのコ~ンという音が庭続きの山中に響いた。


もう一人、歴史上の大統領が山荘の客人に名を連ねている。ソビエト連邦最後の大統領となったミハイル・ゴルバチョフ氏だ。ソ連国民の自由など民主化を訴え、国内の経済や政治体制を立て直す「ペレストロイカ(ロシア語で再構築)」を唱えて世界の冷戦時代を解消する改革運動を行った。同大統領は日の出町役場を訪ねた後、大久野小学校で児童の授業を参観した。農作業も見学して農業者を慰労した。この後、日の出山荘入りしたゴルバチョフ氏は中曽根氏のもてなしを受け昼食を共にした。

「くれてなお叫ぶ」心境
山の斜面を生かした庭の奥には碑がある。『くれてなお命の限り蝉しぐれ』。薄暗くなった山中でもセミたちは命を振り絞るように一心不乱に鳴き続けている様子を歌ったものだ。「自身の心境を反映させている」と句碑の解説板にあった。中曽根氏の代表作だという。句碑の周囲は、イチョウが黄葉を敷き詰めたように落葉していた。

平成15年(2003)小泉純一郎首相の国会議員の定年制導入による引退要請を飲んだ中曽根氏は56年間の国会議員生活を終えた。16年後の令和元年11月29日、101歳で亡くなった。大好きだった日の出町の秋川霊園に眠る。
「ロン ヤス」饅頭にほっこり
日の出山荘で行われたロン・ヤス会談を記念してスイーツの店「幸神堂」(日の出町大久野)が販売している「日の出 ロン ヤス」饅頭を多摩めぐり参加者にプレゼントした。「これ、お土産に買って帰ろうと思っていた。うれしい」という女性の声が響いた。一方で70歳代の参加者のアンケートの一枚にこうあった。「ロン・ヤス会談では『浮沈空母』発言もあり、問題だが、展示はあまり中曽根氏の政治姿勢にふれておらずよかったと思う。山荘に掲げられていた写真で当時を思い出しました。私の36歳の頃でした」。中曽根氏の日の出山荘建設構想から干支が6廻りした今日、戦乱の国ではミサイルが飛び交って市民が泣き叫ぶことしかできないニュースのなんと空恐ろしいことか。静かな日の出町の山中のように寛ぐ世界情勢に耳を傾けるときがやってくることを願う。


83.11.11日の出山荘」スタンプ
【集合:11月26日(水) 午前9時40分 JR五日市線武蔵引田駅/解散:武蔵引田駅 午後2時30分ごろ】
多摩めぐりの会