明けましておめでとうございます 本年もよろしくお願いいたします

第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する

ちょっと外の空気を吸いに出たかと思うような吉村昭が執筆に明け暮れた机

ガイド:味藤 圭司さん

主なコース

京王井の頭線井の頭公園駅(集合)→ 吉村昭書斎 → 三鷹台駅 → 井の頭通り → 多摩地区最東端の地 → 東京女子大学 → 善福寺公園(善福寺池下の池)【昼食】 → 北多摩郡・東多摩郡境 → 西三条通り → 中道通り → JR中央線吉祥寺駅北口(解散)

吉祥寺界隈は武蔵野新田の開墾に手が入って350年余り。八王子や府中市に比べれば吉祥寺周辺は歴史が浅い。その分、人とのしがらみが薄いからか、変化もまた激しい。吉祥寺をこよなく愛した作家・新田次郎は富士山が遠望できることを自慢していたが、ある日を境に新しい建物で遮られてしまって怒りにも似た思いを抑えきれなかった。善福寺に38年間住んだ脚本家であり、劇作家、演出家でもある倉本聰さんもまた、この一帯がお気に入りだった。倉本さんは、しばらくぶりに訪れた善福寺界隈に立って、以前点在していた畑や雑木林、農家の茅葺き屋根など国木田独歩が謳った武蔵野の風景が見事に一掃されていたことに落胆した。一方、この地域で暮らす地元の人々と仲間になった作家もいる。吉村昭だ。吉村は「この三鷹を生涯の地」として著作を生み続けた。この一帯は、今日も建物などの景観がさらに変わりつつあるものの、江戸時代に開発された短冊状の地割や農道がいまのまち並みに欠かせない公道として役目を変えているのが見て取れた。令和6年(2024)12月21日、ガイドの味藤圭司さんとともに23人が50回目の多摩めぐりで三鷹市吉村昭書斎(井の頭)を訪ね、新田開発の現場だった多摩東部エリアを歩いて昔の様子と今の姿を見た。

味藤さん
味藤さん

今回のコースは、今年の3月にオープンしたばかりの「三鷹市吉村昭書斎」を訪ねて吉村昭が執筆活動を行っていた、移築された部屋に入って、その空気を感じ取ることと、併せて、吉村昭と同じくドキュメンタリー作品を多く残した隣町に住んでいた新田次郎の生活をそのエッセーなどから紹介するという、昭和期における二人の人気作家をメインテーマとしました。

この二人の作家の生活圏を歩く中で、多摩地域東端の境界線を辿り、加えて江戸期における吉祥寺の新田開発時の道や地割が今に残っていて独特な街並みができていることも眺めながら歩くという構成にしました。その結果、今までの多摩めぐりにはなかった「1日中住宅街の中を歩く」ことになりました。

このような行程であったからでしょうか、昼食をとるために立ち寄った善福寺公園の木々や池がとてもよかったと、多くの参加者から感想が寄せられました。

年中花が咲く庭に

この日、最初に訪ねたのは吉村昭書斎だった。井の頭公園の林を背にして京王井の頭線に沿って歩くことわずか。住宅街の一角に書斎があった。敷地258㎡に黒っぽい板張りの「交流棟」と白壁の「書斎棟」で構成された切り妻屋根の平屋建てだ。敷地の各所にシダレザクラやコブシ、ハナミズキ、サルスベリなど一年を通じて花の咲かないシーズンがないように吉村昭と夫人の作家・津村節子さんが好んで自宅の庭に植栽していたのと同じように移築した書斎にも10種を植栽していた。書斎の入り口でもある交流棟には夫妻の著作を開架し、映像も見られる。開架してある本は、どれも自由に読める。

交流棟で熱心に吉村・津村夫妻の著作を見る参加者たち

書斎棟に繋がる扉を開けると、長い年表が掲出されていた。そこには夫妻の誕生から今日までの97年間の出来事・出版刊行物が記されている。高熱を発したことなど日常生活も読み取れる。

圧巻は著作棟だ。広さは約35㎡。6畳の書斎と4畳半の茶室と展示室を備えている。書斎は執筆中の吉村を彷彿とさせる。机にペンが置かれており臨場感があった。天井までの書棚にはびっしりと本が埋まり、梯子も架けてある。茶室は茶道を嗜んでいた津村さんが希望して住居の書斎と同じにした。その茶室には吉村の筆による短冊や書を展示して吉村の生前を偲ばせている。

書斎の書架にびっしり並んだ本

「ここ以外にない」住み家に

吉村は、昭和2年(1927)東京府北豊島郡(現在・荒川区)日暮里に生まれた。昭和23年に肺の治療で肋骨5本を切除する手術・治療のため、旧制学習院高等科を中途退学。療養後の昭和25年、新制学習院大学文政学部文学科に入学して文芸部に所属、作家を志望するようになった。2年後、文芸部委員長になった吉村は同人誌「赤繪」製作で北原(後の小説家・津村)節子さんと出会った。創作三昧の日々だった吉村は講義を受けず、学費を長期滞納したため、昭和28年に大学を除籍になった。北原さんと結婚したのは、このころだった。昭和34年に西東京市保谷に住んだが、そこは環状道路の計画地だったため、昭和44年夏、三鷹市井の頭に移り住んだ。「ここ以外にない」というほどのお気に入りの地だった。

生前の吉村昭さん
津村節子さん

規則正しい日々の生活

吉村は小説「星への旅」(昭和41年)で太宰治賞を受賞するなど「戦艦武蔵」で記録文学に新境地を拓いていた。井の頭に移り住んだ後も「関東大震災」などで昭和48年に菊池寛賞を受賞。証言を取り、史料にあたり、緻密に構成した記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表した。

自宅の庭に離れの書斎が完成したのは昭和54年(1979)。亡くなった平成18年(2006)までの27年間、膨大な量の作品を書き続けた。7月31日、自宅で79歳の生涯を閉じた。こうした功績をいまに語り継ごうと三鷹市は、令和6年(2024)3月に、井の頭公園に隣接した吉村・津村さん宅の離れにあった書斎を移築して開館した。

吉村は生前、母屋から毎日、決まった時間に書斎へ向かった。交流棟にある「書斎と吉村の一日」によると、毎朝8時に起床。30分後に朝食をとり、9時半から12時半まで書斎にこもって執筆した。昼食を母屋で済ますと、再び書斎に戻って午後6時まで執筆した。家族と夕食をともにし、夜9時からお酒を楽しんで0時に寝る、規則正しい毎日だった。

津村さんと共にお茶を楽しんだ人が多い

深めた地元の人との交流

多忙な作家生活ながら、吉村・津村さん夫妻は、近隣の人々とも親しくしていた。自宅で育てていた月下美人の花が咲けば、友人や近所の人々を招いた。夜、仕事で疲れることもあった。そんな時、吉村は近所の寿司店へ通った。ここでまちの人とも親しくなり、町会の広報誌で取り上げる記事がなく、紙面が埋まらないと聞けば、井の頭の歴史を知る人を尋ねて自ら取材して原稿を書くこと2年にも及んだ。吉村はまた、講演を断るのが常だったが、地元では「歴史のうらばなし」を語ったり、著作の「桜田門外ノ変」のサイン会に応じたりしたという。下町っこは、三鷹が大好きだった。井の頭公園はもとより、玉川上水沿いを散歩して水の音を聞き、鳥や虫の声に包まれた。「山の中の一軒家にいるような錯覚さえ覚えた」と広報「みたか」(平成9年1月1日号)に津村さんが寄稿している。

吉村昭書斎の前で集合した多摩めぐり参加者

「神田上水」から「神田川」に

吉村昭書斎を後にした多摩めぐりの一行が立ち止まったのは、神田川に架かるあしはら橋だった。護岸の高さは6~7mもあろうか。深い。水源の井の頭池から数百メートル下流だというのに。集中する雨のときには周囲の雨水が神田川に集まり、水量が一気に増えることを物語っている。

神田川は昭和39年(1964)の河川法改正で、江戸時代以来玉川上水に先駆けて江戸市中へ送水した「神田上水」の名で親しまれてきたが、その名を返上して神田川に変わったいきさつをガイドの味藤圭司さんが話した。このあたりの神田川は、両岸の武蔵野台地を侵食して小さな谷となっていた。両岸の斜面上は住宅の海だ。

井の頭線三鷹台駅西方約200mで一行を止めた味藤さんの指示で参加者は目を転じて足下の地中を想像した。深さ40m以上を掘削してトンネル構造の自動車専用道路「東京外郭環状道路(東京外環道)」が通過する計画があるという。令和2年度の完成予定は、すでに過ぎているが、着工後、陥没事故などが起きて、この地点での工事の見通しは立っていない。

移転後1世紀になる女学院

多摩地域の鉄道駅舎の中で最も東に位置している三鷹台駅は、橋上駅のように見えるが、神田川右岸の斜面上にあることから地上駅だ。この駅を玄関口にしているのが立教女学院(杉並区久我山)。文京区湯島でアメリカ人宣教師チャニング・ウィリアムズが開学して137年。大正13年(1924)の関東大震災で焼失して久我山に移転して100年になる。正門や本館がレンガ積みのような建物に見えてシンプルながら品格を見て取った。フルーティスト・山形由美さん、バイオリニスト・前橋汀子さん、俳優だった野際陽子、俳優・市毛良枝さん、シンガーソングライターの松任谷由実さんらが卒業生だという。

立教女学院の正門や奥の建物を見ながら行く参加者たち

井ノ頭通り命名ばなし

立教女学院の北側へ回った。キャンパスを背にして北へ延びる立教通りを進んだ。個人商店を散見するも住宅の軒が連なる。400mも歩いただろうか、立教通りを遮断するように東西に走る井ノ頭通りに出た。行き交う車の騒音が渦巻く。井ノ頭通りは、元は水道道路といった。村山貯水池(多摩湖。東大和市)の原水を境浄水場(武蔵野市関前)に送水して、さらに東京市中に配水するために水道管を敷設した直線の水道道路だった。この道を利用して首相官邸や国会に通っていた近衛文麿があるとき、便宜上の名前しかない水道道路を「井之頭街道」と命名したことから、その後、東京都は「井ノ頭通り」に変えたいきさつがある。

中道通りが江戸時代からある道だと説明を受ける。奥が井ノ頭通り

江戸時代の道、いまも

この地点は、東が杉並区松庵、西が武蔵野市吉祥寺南町。目と鼻の先が井ノ頭通り。井ノ頭通りの手前数メートルで西に延びている幅7mほどの道路がある。東西を貫く、どこにでもありそうな道路だが、味藤さんは声のボルテージを上げた。「この西に延びる道を中道通りといっていました。ここが吉祥寺村の東端で、村を貫いていた江戸時代からある道です」と。中道通りは南北に延びる立教通りとT字路になり、松庵に入り込んでいない。ここが中道通りの起終点であることを知ったと同時に、隣接する村と連携せずに道路が敷設されていた当時の地方行政の一端も見た。今日でいう広域行政が普及する前に建設された道路だった。

先々でT字路になった道に出合った

中道通りは現在の三鷹駅あたりまで延びて、吉祥寺村は地続きで一体感があったが、甲武鉄道(JR中央線)が敷かれて南北が分断された上、停車場線という道路(現在の都道115号線)が接続されたことでますます分断された格好になった。その結果、分断された南側の道は、中道通りとはいわなくなってしまった。道は、それまでの人々が繋いだ文化圏を変え、新たな繋がりも生むことをまざまざと見た思いがした。

窪地の公園地下に排水施設

多摩めぐりの一行は五日市街道を横切り、西荻窪駅に近い武蔵野市立本田(ほんでん)東公園で小休止した。東側が杉並区西荻北、西側にある本田東公園は武蔵野市吉祥寺東町で市区境の窪地だった。以前は松庵川があったが、いまは暗渠になっている。中央線が高架になる前の昭和24年(1949)の地図を調べた味藤さんによると、軌道を敷くために土盛りをした場所で、見た目にも低地であることが分かる。だから、この公園の地中に雨水貯留施設を埋設、公園脇には排水施設を備えていた。

中央線高架下に近い本田東公園は電車が通るごとに通過音が降り注いだ

多摩地域最東端の路上に立つ

本田東公園から緩い坂を登り詰めた。立錐の余地がないほどに戸建てやマンションが立ち並ぶT字路があった。ここが多摩地域の最東端だという。東経139度35分44秒、北緯35度42分21秒。東側が杉並区西荻北3丁目、西側が吉祥寺東町4丁目、北側が杉並区西荻北4丁目。T字路の路上には東京都と杉並区、武蔵野市の測地標が埋め込まれている。武蔵野市では同市と杉並区の境界線を公図に示していないが、一般的には道路中央にしている。だが、この地点では武蔵野市が全面的に道路管理をしている。

マンションなどが立て込んだ道路が多摩地域最東端だった

残す最端地は奥多摩山中に

多摩めぐりでは機会あるごとに多摩地域の最端部に立ってきた。最南端を訪ねたのは今年5月18日。44回目の南町田で町田市鶴間6-33と横浜市五貫目町18の都県境だった。この現場は北緯35度30分4秒、東経139度28分25秒。さらに45回目の10月16日に訪ねた清瀬水再生センター(清瀬市旭が丘)の放出付近の柳瀬川は北東端だった。

多摩めぐりでまだ最端に立っていないのは2か所。最西端は北緯35度51分36秒、東経138度56分34秒で、雲取山(標高2017m)から北北西へ約540mの標高1870mの山中。もう1か所の最北端は北緯35度53分54秒、東経139度1分6秒。奥多摩の酉谷山(とりたにやま=標高1718m)から東北東へ約760m先の標高1655m地点。どちらも到達の機会があれば、立ってみたいものだ。

武蔵野新田の面影ある土地

多摩めぐりの一行が神明通りを北西へ500mほど行けば、東京女子大学(杉並区善福寺)。その途中で何本もの細めの道が南に下っている。吉祥寺界隈が開けた原点ともいえる新田開発当時の道で、元は農道だった。明暦3年(1657)に江戸本郷元町(現在の文京区本郷1丁目)で発生した明暦の大火で被災した人たちを幕府の指示でこの地に移転させた。移転を余儀なくされた被災者が拠り所にしていた諏訪山吉祥寺の名をとって、この地を吉祥寺とした所以がある。

あてがわれた土地は札野とか、牟礼野とか言われた土地で、幕府御用の萱場だった。5年間の扶持米は与えられ、家屋の建築資金の貸与があったとはいえ、新田開発は苦労尽くめだった。いま見える土地の多くは間口が20間(36m)、奥行きが600間以上もあるが、土は関東ローム層で痩せていた。これらの人たちは吉祥寺村をつくり、肩を寄せ合った。

江戸時代からある南に下る一本棒の道を何度も通過した

中道通りで見たように道路一本を造るにも各村が独自路線を敷いており、道は十字路になっておらず、村境ではクランク状の所が多い。五日市街道を跨ぐこともなかった。その後も吉祥寺界隈の人口が急増した。関東大震災(大正12=1923年)を契機に東京市街地からまたも被災者が移り住んだ。道の一本棒は当時の人々の汗腺にも涙腺にも見えた。

杉並区に踏み込む多摩めぐり

一行が目指している東京女子大学の所在地は杉並区善福寺だ。多摩めぐりの会は多摩地域をテーマに活動をしているにも関わらず、杉並区へ足を延ばす目的は何?と問われそうだが、善福寺には武蔵野三大湧水池の一つ、善福寺池がある。井の頭池(三鷹市)と並ぶ歴史の舞台だから実踏したいと思った。武蔵野三大湧水池には石神井公園の三宝寺池(練馬区石神井台)もある。その途中にある東京女子大学のキャンパスも見た。

ライト調に彩られたキャンパス

正門前から見たキャンパスは、正面に白を基調にした3階建ての本館が横たわり、静かさを感じた。大正7年(1918)に北米のプロテスタント諸教派の援助を得て豊多摩郡淀橋町角筈(現在の新宿区西新宿1丁目)で開学した。初代学長は新渡戸稲造。6年後に現在地に移転した。

新渡戸記念室がある本館を正面に見る東京女子大学正門

建物は帝国ホテル(千代田区内幸町)を建築したフランク・ロイド・ライトの下で学んだアントニン・レーモンドが設計・建設した。本館など7つの建造物は、いずれも国の登録有形文化財になっている。

一行はキャンパスに入れなかったが、参加者である金指頴子さんは同大卒業生であり学生時代に見た光景を話した。正門右手はチャペルであり、講堂でもある。正面の本部奥は開学時に設立委員であったライシャワー氏が住んでいたライシャワー館。「その次男のライシャワー米国駐日大使がキャンパスに見えた時、大使が喜ばれていた」という。安井記念館は初代学監だった安井てつの住宅を記念館としている。16号館の外国人教師館は、2階建ての閑静なホテルを思わせる造りだ。上階が集合住宅。庇の花台の装飾やポーチの柱頭飾りなどライト調を色濃く出した、レーモンドの初期作品だという。キャンパスには建物が30棟ほどある。

大学のシンボルのような白い塔のチャペル(東京女子大学ポストカードから)
本館前に広がるVERA広場(東京女子大学ポストカードから)

自然の風景に安らぐ池畔

同大学北側の窪地は都立善福寺公園で、その杜は深く感じた。住宅に囲まれた緑の島のようだ。広さ約10ha。自然の風景や味わい(風致)を提供する公園だ。この公園を構成する2つの池は湧水で善福寺川の水源池になっている。上の池ではボートに乗れるなど観光的な色合いが濃い。一行が昼食を採った下の池は上の池よりも狭い。周囲は500mほどで、池にヨシやマコモが群生しており静かに自然が楽しめた。カモが泳ぎ、冬の太陽を照らす水面が眩しい。葉の形が半纏に似ているハンテンボク(ユリノキ)は裸木だったが、時折、頬をなでる風がイチョウの葉を落とし、舞い狂わせていた。池畔のトウカエデ、メタセコイヤ、サクラ、ケヤキなど古木や大樹が目についた。

ケヤキの大木や水生植物が多い善福寺池を歩いた

善福寺池は武蔵野三大湧水池に挙げられるほど、江戸時代は周囲の農村の貴重な水源だった。善福寺の由来は、池のほとりにあった寺の名前に因んだが、寺は江戸時代に廃寺になった。現在、付近にある善福寺は地名にあやかって名付けた寺だという。

秋の名残りの色を見せていたイチョウの木に集った参加者(善福寺池で)

38年住んで変貌悔やむ倉本聰さん

善福寺池の近くに昭和52年(1977)まで38年間住んだ脚本家、劇作家、演出家と多彩に活躍している倉本聰さん(90)は、久しぶりに善福寺に帰った感想を月刊「財界」(令和6年7月号)のコラムで、自分を、こう綴っている。「点在していた畑や雑木林、そして農家の茅葺き屋根、即ち国木田独歩の謳った武蔵野の風景が物の見事に一掃されていった東京・山の手の今昔の姿をしっかり覚えている生き証人である」と。

こうも言う。「昭和10年代の善福寺には、今で言う豪邸が立ち並び、(略)何故かどの庭にもヒマラヤ杉の大木があった。10年程前、ふと思い立ち、昔わが家のあったあたりを歩いてみたのだが、界隈は見るも無惨に小分割され、その間に何本かの昔なつかしいヒマラヤ杉が残っていた。あの木だけが当時の善福寺を知るものの哀しい記憶の死骸だった」。「あの頃の東京を、凍結したまま、まだ持ちつづけている自分は倖せな人種であるのかもしれない」

吉祥寺駅方面へ向かう道すがら目につくのは中低層や戸建ての住宅が密集していることだ。杉並区側に武蔵野市が管理するカーブミラーがあったり、反対側の杉並区側に区内の消火器ボックスがあったり。市区境界地ならではの公共物が設置されている珍しさを各所で感じた。

畑の立ち話で転居決めた新田次郎

きょろきょろして歩くうちに作家だった新田次郎が住んでいた付近にやってきた。長野・諏訪出身の新田次郎は長らく気象庁で働き、富士山レーダー建設後も気象観測に余念がなかった、その一方、作家として「八甲田山死の彷徨」など山岳小説の分野を拓いた。「強力伝」「孤高の人」など著書多数、直木賞など受賞歴も多い。

新田が吉祥寺に土地を求めたのは昭和27年(1952)だった。気象庁の官舎から移り住んだ。当時の周辺には家が少なく、麦畑が広がる土地だった。デビュー作「強力伝」の舞台だった富士山が自宅から良く見えた。きっかけは、散歩中に出会った農家のおじさんがかけた一声だった。「この畑を買ってくれませんかねぇ。わしも年を取って、百姓をする後つぎもおらんし」(夫人の作家・藤原ていが寄稿した平成5年夏号の季刊むさしの「私のまち武蔵野」から)といい、金融公庫の融資を受けられることも聞かされて、2人はすっかりその気になったという。得た土地は1000㎡ほど。80万円だったそうだ。

新田次郎
藤原てい

「大変だ、富士山が見えなくなった」

雨や雪が降っても1日1時間の散歩を欠かさず、子供たちも土埃の中で跳ね回っていた。そんな矢先に近くで新築ビルが建ち上がって富士山の姿を半分隠してしまった事件が起きた。新田は大騒ぎした。ビルの建て主の金融機関から預金を全額おろせと大声を出した一幕もあった。新田を怒らせたビルは、五日市街道沿いにあるはずだが、いま人混みと軒を連ねる建物と交通量の多さで定かではなかった。

五日市街道がNHKテレビのホームドラマ「バス通り裏」(昭和33年4月~38年3月放送)の舞台設定になったのも新田が縁だった。バス通りは五日市街道をイメージし、主人公の十朱幸代が住む家の住所は新田の住まいと同じだった。新田の友人が番組担当の放送作家だったかららしい。また、歌手であり女優だった10代の江利チエミも五日市街道をもうもうと砂埃を上げて外車をすっ飛ばしていたそうだ。

ビルの貸間が草創期だったジブリ

吉祥寺駅北口に近づくにしたがって、さらに人混みが増した。そんな中で小さなビルの前で一行を止めた。いま世界のアニメファンを虜にしているスタジオジブリ草創期に入居していたビルだ。スタジオをここに移す前は杉並区阿佐ヶ谷でアニメを制作していた。第1弾となった漫画雑誌「アニメージュ」で先行連載していた宮崎駿の「風の谷のナウシカ」が昭和59年に映画公開され、91万5千人が詰めかけた。配給収入は7億円余り。翌年、スタジオジブリを立ち上げた。「天空の城ラピュタ」を制作するには阿佐ヶ谷のスタジオでは狭すぎると、吉祥寺本町に新築された第二井野ビル2階の全フロアを借りた。ここで制作したのが「天空の城ラピュタ」で、多くの賞を受賞した。

スタジオジブリが吉祥寺で初めてスタジオを構えた吉祥寺本町のビル

制作するごとにヒット飛ばす

ジブリの勢いは止まらない。第二井野ビルから50mほど離れた同じ町内の別のビルを借りて第2スタジオとした。2つのスタジオで「火垂るの墓」と「となりのトトロ」を同時進行で制作、昭和63年(1988)に公開された。「火垂るの墓」はモスクワ国際児童青少年映画祭グランプリ、日本アニメ大賞グランプリを、「となりのトトロ」は日本映画1位を獲得した。

スタジオジブリの活躍は、平成(1989~)に入っても「魔女の宅急便」「おもひでぽろぽろ」を手掛けて、どれも上々の結果だった。この後の「紅の豚」(平成4年公開)の制作中に、またもや手狭感を持った宮崎駿さんは新スタジオを提案し、「紅の豚」公開直後に東小金井駅に近い小金井市梶野町に新社屋を建設して移転、今日に至る。

この日の多摩めぐりでは300年余りを一跨ぎした思いだった。新田の開発と吉祥寺駅前の雑踏、さらに行く末が楽しみなアニメの進化に思いを深めた。どの時代も、どこの場所でも変わらず人は、人を基点にして限りのないエネルギーを出してこれからも社会を変えていくのだろう。

【集合:2024年12月21日(日)午前10時 京王井の頭線井の頭公園駅
/解散:JR吉祥寺駅北口 午後2時15分ごろ】