2024年の多摩めぐりは終了いたしました。ご参加ありがとうございました

第49回多摩めぐり 晩秋の奈良ばい谷戸を散策し、
小野路宿の歴史を辿る

稲架掛けを見ながら稜線に向かう多摩めぐり参加者

ガイド:永江 幸江さん

主なコース

多摩センター駅(集合) → <バス> → 扇橋バス停 → 奈良ばい谷戸 → 炭焼き小屋 → 小町井戸・小野路城址 → 見晴らし台 → 萩生田牧場 → 小野路宿里山交流館(昼食) → 小野神社 → 六地蔵 → 小野路一里塚 → 小野路宿 → 関谷の切通し → 小野神社バス停(解散)

収穫を終えた稲株から青々と萌えている苗のような「ひつじ」が田んぼ一面に生えている。収穫した稲を天日干しする稲架(はさ)掛けや稲の穂先を中央に寄せ合わせて積み上げた「にゅう」(「にお」「にご」ともいう)が二つ三つあり、秋ならではの光景をまじまじと見た。南西には白雪富士が胸を張って浮かんでいた。深まる秋色に包まれた町田市小野路町の奈良ばい谷戸付近は黄葉が色映えして眩しかった。ここは多摩丘陵に多く見られる谷戸の一つで、昔の農法を甦らせた山間地だ。近くには江戸時代以前から鎌倉道が通っている。山上の小野路城址のお膝元であり、小町伝説もある。麓では江戸時代に賑わった小野路宿の面影を残す。亡き徳川家康の駿河国(静岡県)の久能山から下野国日光東照宮(栃木県)への改葬に千人にも及ぶ葬列が続いた御尊櫃御成道(ごそんひつおなりみち)でもあった。幕末には新選組隊士も通った。この地を11月24日、49回目の多摩めぐりでガイドの永江幸江さんが参加者19人を案内した。

永江さん
永江さん

おかげ様で天気に恵まれました。奈良ばい谷戸では、稲刈り後に作られた狸の親子の藁ぼっち、木々の合間から見える富士山が気分を盛り上げてくれました。懐かしい谷戸田の里山風景ですが、人による農の営みなくしては維持できない景観でもあります。

昼食場所の小野路宿里山交流館は、「紅葉まつり」開催日。模擬店でのだんごや豚汁、併設のカフェで弁当やうどんを各々食べるスタイルで。地場野菜も人気でした。

小野路宿は、山間の300mほどのこぢんまりとした宿場ですが、その歴史は古く、長く宿駅としての機能を果してきました。

晩秋の里山散策と共に小野路の歴史を辿る一日を、楽しんでいただけたら嬉しいです。

蘇った谷戸の農の風景

多摩ニュータウンの中高層住居が続いた多摩丘陵を下ったバスが着いたのは丘陵南麓の町田市下小山田町の扇橋。同地の光景は、これまでと打って変わって三角屋根の日本家屋が多い。行く先の奈良ばい谷戸入り口は、バス停から約200m先だった。

緩やかな谷戸の風景を写真に収める参加者たち

谷間に田んぼや畑が細く長く延びていた。刈り取った稲の稲架掛け(はさかけ)の様子や積み上げた「にゅう」に働く人の重労働ぶりが映る。その一方、タヌキの親子をあしらった藁ぼっちもあって散歩に来る人をにこやかに迎えていた。田畑の脇には小川がちょろちょろと流れている。奥に進むにしたがって畑が上がる。谷戸は南に面していて、この日は風がなかった。小春日和は目も体も解き放した。

珍しい藁ぼっちにも参加者は好奇心がいっぱい

奈良ばい谷戸の地名は、新田義貞軍が調練の点呼で「並べー」と言っていたのに因むといわれる。ここは町田市の図師町、下小山田町に接しており、東西約500~800mに延び、斜面にはコナラ、クヌギ、ミズキ、クリなど落葉広葉樹林で覆われている。その斜面からの絞り水が畑や田んぼに注いでいる。長らく農家の人々が耕してきたが、世代交代や後継者不足の波を乗り越えられず、耕作放棄の状態で、田んぼはタチヤナギやヨシ、畑はアズマネザサなどが覆ってしまっていた。

里山などを繋ぐフットパス

奈良ばい谷戸を含む同市の北部地域には1千haもの自然が広がっていた。町田市は平成17年(2005)10月から市民ボランティアを募り、水田の開墾から収穫までを体験する伝統農法の学習会を開いた。これに参加した人たちが2年後、奈良ばい谷戸に親しむ会を作った。平成21年には地元農家・行政・市民で里山再生を目指すNPO法人まちだ結の里を立ち上げて谷戸の維持管理をしている。

谷戸から耕うん機を降ろす人にすれ違った

一方、市内には昔ながらの里山風景が多くあり、古街道や歴史の面影がある地点を繋いだフットパス(ウォーキング)の22コースを設けて町田に息づく資源の魅力を伝えるNPO法人みどりのゆびが同市と協働で活動している。ここ奈良ばい谷戸もその一つで、農道は歩きやすく、畑や田んぼには荒地がない。

黒川炭、いまも焼く

尾根に近いところにわら屋根を竹で押さえた小屋が出現した。炭焼き小屋だった。ここも「まちだ結の里」が管理していた。江戸時代から数十年前まで多摩丘陵の各地で「黒川炭」として江戸へ送られていた時代もあったという。焼く木は周囲の雑木を伐採したものだろう。この日は、炭焼きの煙は上がっていなかった。

狭く細い谷戸ながら上段の平坦地にあった炭焼き小屋

眼病治った小町井戸

炭焼き小屋を過ぎると、周囲の光景が一変した。雑木林の真っただ中に入った。山道は落ち葉のじゅうたんで柔らかく、カサカサという音が樹間に響く。上段で振り返ったら、南方の丹沢山系の奥に白く化粧をした富士山がより一層大きく浮かんでいた。

谷戸から山道に入ると、景観が一変して雑木林だった

しばらく進むと、左手が切れ落ちた崖になった。ガイドの永江さんは多摩めぐりの一行の足を止めた。「この下の見えるのが小町井戸です」と手を指し示した。

小さい小町井戸ながら水が澄み、冷たかった

水量はわずかだが、小町井戸は直径2~3mの池に湧き水を貯めていた。平安朝の昔の、小野小町にまつわる伝説の地だった。ここから東南へ100m先の崖下にある「滝つぼ」と呼ばれる湧き水と共に日照りにも涸れることがないという。井戸の斜面上部は小野路城址であることから城の水源でもあったろう。

この井戸をなぜ、小町井戸というのだろうか。出羽国福富の荘(山形県湯沢市小野字桐木田)に生まれた小町は13歳で都へ上り、16歳で宮中に仕えた。歌人として優れた才能と美しい容姿に恵まれて衆目の的だった。

小町がこの地を訪ねたいきさつは不明だが、小町はここで眼病に罹り、千日も逗留して井戸で目を洗ったところ、全快したという伝説がある。いつの日か、この井戸を小町井戸といわれるようになった。「武蔵名所図会」には「仙人水」とも記してある。小町は、36歳で故郷に帰り、生涯を過ごした。

都内で最も古い小野路城址

お椀を伏せたような地形の中腹にある小町井戸から斜面を登った。小野路城が築かれたのは承安年間(1171~74)といわれ、都内の古城址の中で最も古いものの一つに挙げられている。平坦な天頂部は本丸跡だ。西斜面には廓が2つあり、これを囲む別の2つの廓と、この外周に空堀があったと見られている。中世前期の山城の形状が残っていた。

山道から一段高い山の頂きにあった小野路城本丸跡

西へ約1.7kmに小山田城があったことから小野路城は、その支城で、小山田城主・小山田有重の次男・二郎重義が守護していたといわれる。二郎重義は小山田四兄弟とともに源頼朝の御家人であり、源平合戦で活躍した。その活躍ぶりは「吾妻鏡」にも記されている。

小野路城は、長尾景春の乱(1476~80)の際に一時、扇谷上杉の拠点になったが、文明9年(1477)に長尾勢に攻められて小山田城共々、落城したと見られている。

本丸跡に天王様祀る

本丸跡に八雲神社が祀られていた。薬師如来を本地仏とする牛頭(ごず)天王に当たる。里の人たちは八雲神社を「城山の天王様」と呼んでいる。言い伝えによると、小町井戸のそばを通った里の源兵衛が松の根と思ったものが動いたので驚いて切ってしまった。すると、それは大きな蛇だった。この翌年、疫病が蔓延した。里人は、蛇の祟りと信じ、城山の頂きに祠を建てて祀った。その後、疫病は治まったという。

身も心も開放する見晴らし台

城山からの山道は、緩い傾斜と平坦な道が続く。これが功を奏して気分は一層爽快になった。所々に手入れが行き届いた畑が見え隠れして広がる。彼方には別の丘陵がたなびいていた。のどかな光景に自然と参加者の顔が緩む。さわやかな秋に抱えられながら歩いた先が「見晴らし台」だった。彼方に街並みが横たわる。もちろん、一行の誰もが「ね、あれ、どこ?」と言葉を掛け合う顔は、それまでの「学びたい」思いを前面に出した硬い表情と違って緩んでいた。

一段と高い横浜ランドマークが見晴らし台から見えた

南東に重なる低い丘陵のその奥の遠望にマッチ箱のようにいくつもの四角いビルが重なる。横浜のランドマークタワーだ。「その左は、どこ?」。「武蔵小杉の高層マンションかな?」。いつでも、どこでも、何でも知りたい思いに駆られる面々の表情は和やかだった。まさに人と触れ合う場の見晴らし台だった。

気持ちを解き明かした見晴らし台で参加者みんなが笑顔になった

町田市唯一の肉牛牧場

緩い傾斜の山道の両脇に雑木林が続いた。下り終えた地点では200㎏以上もあろうかという黒牛が牛舎の軒下にいた。萩生田牧場だ。町田市で唯一の肉牛農家で現在4代目。平成2年(1990)ごろまで乳牛を育てていたが、肉牛の方が世話をしやすいと転向した。これがきっかけで市民の農業体験にも開放できるようになったという。

小屋の軒下にいる黒牛を見つめる参加者たち

萩生田牧場の牛は、伊豆諸島の青ヶ島、埼玉、群馬県などの市場でセリにかかった生後10か月ぐらいの子牛を買って生後30か月ぐらいまで育てている。その後、芝浦の市場に出荷する。

市役所食堂で東京ビーフ提供

同牧場では町田市が提唱する「里山を活かした循環型ローカルSDGsの構築」分野に応募した今年、牧場で実践している「食育プログラム」が「里山グランプリ」に輝いた。受賞効果は絶大で今年10月下旬から同市役所の食堂で「東京ビーフ」としてメニューに載り、市民が食べられるようになった。

毛並みが良く骨格もしっかりして重量感があった黒毛和牛が放牧されていた(3月写す)

「東京ビーフ」は、都内で肥育した「東京都産黒毛和牛」をいい、都内の生産者は8件。年間数十頭しか出荷できず「幻の黒毛和牛」と言われている。少ない生産者が品質にこだわって飼育している。

萩生田牧場では多摩丘陵に囲まれた畑で年間10種類ほどの野菜や、野菜栽培に向く土(堆肥)も作っており、近隣の農家の評判は上々だという。

旅籠跡を交流館にして11年

一行は里に下りて小野路宿里山交流館で昼食を採った。この日は、交流館で開かれていた「紅葉まつり」の当日で、庭には地元産の秋野菜がふんだんに並び、栗がいっぱい入った「栗おこわ」、地元のジャガイモを使った「コロッケ」、「里山まんじゅう」「焼き芋」なども実演販売しており、大勢が詰めかけていた。名物の「小野路うどん」や地場野菜の天ぷらなどを多摩めぐりの参加者もそれぞれいただいた。

交流館は江戸時代に小野路宿にあった元旅籠「角屋(かどや)」を改修・整備して平成25年(2013)9月29日に開館した。紅葉まつりでは町田産農産物を「まち☆ベジ」としてブランド化を目指す同市内在住の農業者らが育てた野菜・畜産・園芸品などの地産地消推進のPRを兼ねていた。買い物袋に入りきらない大きな大根などにも目移りしながら買い込んだ参加者もいた。

町田産の素材で作った弁当などを買って里山交流館の庭でいただいた

宿場に響いた宮鐘

交流館に隣接するのは小野神社だ。天禄年間(970~972)に武蔵国の国司として赴任した小野孝泰(小野篁の7代後の子孫)が先祖の小野篁を祀ったのが始まりとされる。

こじんまりした中に風格を放つ小野神社

小野神社は多摩丘陵から枝分かれした斜面の高台に立ち、旧小野路宿の人々を守るように立っている。拝殿の右側に宮鐘の「時の鐘」があった。総高100.6㎝、鐘身78㎝、口径52㎝。昭和60年(1985)に小野路出身の塩沢貞さんが複製を納めた。

小野神社拝殿の軒下に吊るされた「時の鐘」

逗子にあった元の鐘

なぜ、複製なのか。元の鐘は応永10年(1403)に小野路村の僧・正珍が旅人の通行の安全を願って奉納したものだった。地元の人々も寄付をした。朝と夕刻に鐘を衝いて旅人らに時を告げていた。その70年あまり後の戦国時代に山内上杉家と扇谷上杉家の合戦で鐘は持ち去られた。その鐘は現在、神奈川県逗子市の海宝院に保存されていることが分かった。鐘に鋳込んである文字は「武蔵国小山田保小野路県小野大明神鐘」とあり、小野路の小野神社の鐘だったことが分かった。旅人に明け方を知らせ、往来の人々に時を告げることも刻まれているという。

力自慢の小野路の若者たち

拝殿前の境内にはもう一つ、逸話を生んだ細長い石があった。「力石」だ。ことの発端は明治時代、夏の夜に小野路の若者らが柚木村(八王子市柚木)へ遊びに出かけたことだ。柚木の若者は「偉そうなことを言ってるが、その石を小野路まで下ろさずに担いで行けたら、その石をくれてやろう」と小野路の若者を囃した。小野路の連中は、いずれも力自慢で交代しながら小野路まで石を運んだ。見分で同道していた柚木の連中は怪力に驚き、すっかり仲良くなったという。「ところで、この石の重さは?」と質問した人がいたような、いなかったような。持ってみたかった!?

道中の安全願った“七地蔵”

小野神社の裏手の森を駆け上がるように登った雑木林の中にあったのは「六地蔵」だ。周囲の斜面は枯れ葉のじゅうたんだが、それぞれの地蔵には落ち葉がなく、柔和な表情が印象的だった。刻まれているはずの文字は風化して読めないほど古くからこの地に立ち続けている。

風雨に遭いながらも柔和な佇まいを見せる七体のお地蔵さんを見つめる参加者

小野路地域には東海道と甲州街道を結ぶ脇往還があり、江戸時代中期以降、大山詣での往来でも小野路宿がにぎわったというからそうした人々が地蔵に手を合わせて道中の安全を願い、地元の人々も掃き清めていたのだろう。六地蔵は、すべての生き物は六つの世界に生まれ変わるという仏教の六道輪廻を形にしたものといわれるが、ここの「六地蔵」には7体のお地蔵さんがあった。

小野路宿を通った御尊櫃

六地蔵を後にして林を下ったところは万松寺谷の谷戸の出口だった。さらに一行は南北に延びる都道156号町田日野線を南下した。緩い登り坂が長い。その途中にバス停の向坂(むかいざか)があった。この付近は御尊櫃と縁が深い地域だ。

家康が亡くなったのは元和3年(1616)。まず久能山に葬られて、遺言通り一周忌に大僧正・天海の指揮で日光へ改葬された。久能山を出発したのは3月15日。日光東照宮へは4月4日未の刻(午後2時ごろ)に到着した。改葬には約千人の大行列が組まれた。この通り道を御尊櫃御成道と言っている。

平塚を出て小野路に入ったのが3月21日。この後、府中御殿(現在の府中市家康御殿跡)へ向かうが、この日の移動距離は約44kmに及び、一日の移動距離では最長だった。途中に相模川・厚木の渡しと多摩川・関戸の渡し、さらに中小河川を渡らなければならなかった。行列は鎌倉街道をさらに北上して府中に2泊、23日に喜多院(埼玉県川越市)へ向けて出発した。御成道は生前、家康が鷹狩などを楽しんだゆかりの地が多い。

折れた車軸を鍛冶屋が修理

こうしたルートの中で、小野路の向坂では何があったのか。改葬に当たって幕府は、事前に町田・木曽村と小野路村、付近の村々に道路整備などの触書を出していた。御尊櫃が通る当日、小野路村でも人々は緊張の面持ちで葬列を待っていたことだろう。

ところが、小野路宿直前の向坂の下り坂で櫃を乗せた車の車軸が折れてしまった。難儀した。小野路村では乞田村(現在の多摩市乞田)へ出向いて鍛冶屋に知らせて、鍛冶屋は道具一切を持って向坂へ急いだ。鍛冶屋は現場で車軸を修理して事なきを得たという。

難儀した村に助郷免除

この働きに報いるために幕府は、小野路村、木曽村、さらに難儀をかけた村々に対して東海道、甲州街道への助郷を永久に免除する特例を下した。この裁可があったことで224年後の天保12年(1841)には神奈川宿への助郷も免除された。後年、この特例に乗じようとした別件があった。25年後の慶応2年(1866)に出した東海道川崎宿当分助郷歎願は聞き入れられなかった。

一回り小さめの一里塚

御尊櫃御成道に当たる村々へ出していた触書には道の拡幅や橋を架けるなどの指示があった。その中に「一里塚」の建設もあったようだ。だが、小野路宿は鎌倉時代にできたと考えられている。鎌倉から小野路を通り、武蔵国府の府中を抜けて上州方面へ続いていた道だった。小野路の一里塚建設にはいくつかの説がある。大山詣での大山道や御成道とした約90年後に幕府が東海道の補助道とした際に建設したものだという説もある。

住宅地の奥まったところにあった一里塚。天頂に立つのはエノキ

そんな異説がある小野路の一里塚を前に多摩めぐりの一行は立った。東海道の一里塚は5間(約9m)四方だが、小野路の一里塚は一回り小さい。高さも2m弱とやや低い。天頂のエノキが葉を茂らせていた。このほか、町田市内には木曽に一里塚があり、近在の多摩市に瓜生の一里塚がある。旅人は、それぞれの一里塚で一息入れていたのだろう。

交通の要所だった小野路宿

昼食を採った小野路里山交流館の前を再び通り、いよいよ小野路宿のメインストリートに入った。小野路の地名の由来には異説が多い。一帯が平安時代の牧場「小野牧」があったとか、同族の武蔵七党の一つだった横山党の祖である小野氏が支配していたとか、大栗川流域にあった小野郷が元とか。中世には国府があった府中と鎌倉を結ぶ要路で、江戸時代には東海道と甲州街道を結ぶ脇往還となり、宿場は栄えた。いつの時代も変わらない交通の要所であり続けてきた。

盗賊が恐れた「小野路様」

小野路宿には元々鎌倉街道が通り、旅籠6軒(幕末)は「野郎、遊女の宿泊まかりならぬ」という健全さもあって谷間の街は大賑わいしていた。小野路村は幕末には小野路村外34ヶ村組合の親村で、関東取締出役らが見回っており、盗賊らから「小野路様」と恐れられていたことから犯罪も少なかったという。

板塀をあしらってかつての小野路宿の風情をいまに伝える小野路町

小野郷学開く学識者たち

元々、進取の気性が高い地だった。近代に入って勃発した武州一揆が発生した(慶応2=1866年6月13日)1か月後に小野路では農兵隊を結成した。村内では諸外国の侵略に備えるというよりも農民一揆から村を防衛する意識が強かったようだ。明治4年(1871)には地元の小島為政、橋本政直ら有力な学識者たちが華厳院などで教壇に立って初等教育を実践する小野郷学を開設し、政府の学制公布(明治5年)に繋がった。

新選組ファンに馴染みの資料館

交流館向かいの塀に囲まれた民家が小島資料館だ。小野郷学の中心的な一人だった小島家20代当主・為政(通称・鹿之助)の生家だ。為政は新選組の近藤周助に剣術を習い、養子の近藤勇、日野宿の佐藤彦五郎とは義兄弟の契りを交わし、新選組の支援者だった。土方歳三、沖田総司らの書簡やゆかりの品々を小島資料館に展示、全国の新選組のファンには馴染みの資料館だ。

4代88年間書き続けた日記

中でも「小島日記」は小野路をはじめ、各所の日常を記したものとして高い評価を得ている。小島日記は、19代の政則が天保7年(1837)から書き始めており、為政、守政、孝と4代に渡って大正10年(1921)まで88年間書き継がれた。小野路の動きや世情などの事実を記しており、貴重な史料になっている。

名主も縁が深かった新選組

中宿にあるのが同じく名主だった橋本家だ。ここには高札場も設けられて幕府や領主が決めた法度や掟書を記した木札を下げて指示していた。

幕末当時の橋本家名主は15代当主政直(通称・道助)だった。政直が2歳の時に父・政之を亡くし、その後世話になっていた叔父・政元も亡くなり、政直が7歳で名主を継いだ。小島政則が後見役になり、小島為政が養育した。政直は9歳で当時の必要書類を作成したほどの利発だったという。

文久元年(1861)17歳で天然理心流に入門して沖田総司から稽古を受けた。橋本家9代政常の妹・ノエが土方家に嫁いでいたことから、土方歳三とは姻戚関係にあった。日野宿名主の佐藤彦五郎の長女・奈美が政直に嫁いでいたこともあって新選組との縁が深かった。

赤土露わな関谷の切通し

手掘りしかなかった時代に山を削って拓いた道の「関谷の切通し」

この日の最後のポイント「関谷(せきや)の切通し」は、鎌倉街道と江戸時代に使われた布田道(調布・布田と小野路を結ぶ)が交差した地点の山の上部にあった。この付近に関所があったことから「関谷」と呼ばれる。切り通しは幅3mほど、切り通しの長さは50mもありそうに見えた。両壁の赤土はむき出しで木の根も露わになり、土は雨風で崩れ、道幅を広げつつあるように思った。往時には脚絆を巻いた大山詣での参拝人、新選組の近藤勇や土方歳三、沖田総司らが行き交ったか。それにしても切り通しは山中であり、夜には真っ暗闇だろうに。いまなら懐中電灯を持っていても不安を消せない。

関谷の切通しを下ったところにあった秋色のスクリーン

きょうは、山と里を繋いで歩いた。多くの人のいまの暮らしで山と関わっている人のなんと少ないことか。作物も人も山が地中で貯めた水を得なくてはならない。山の水は海も潤している。一方で山は川にも似てそれぞれの地域で独自の文化を作った。山に道を拓き、川に橋を架けて人が往来したことで情報が入り、人の繋がりを強くした。小野路の地形と歴史は明日を展望する礎になるように思った。

【集合:2024年11月24日(日)午前9時 小田急多摩線・京王相模線・多摩都市モノレール多摩センター駅前ミネドラッグ・ローソン横/解散:小野神社バス停 午後2時過ぎ】