ガイド : 味藤圭司さん
東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅 (集合)→ 鶴間の一里塚 → 横浜水道 → 大ヶ谷戸庚申塔 → 日枝神社 → 多摩の最南端 → 第六天神社 → 円成寺 → 境川 → 境川水管橋 → 鶴間公園 → グランベリーパーク(解散)
多摩地域の南端域にある町田市鶴間界隈は、平安時代以来、今日も交通の要衝であり、拡幅された国道16号は東名高速に繋がり、高速道のインターもできた。この足の便の良さから若いファミリー層が増えるなど、過去の農村地帯のイメージが払拭されていたことを肌で感じた。そんな周囲のシンボルともいえるのが東急田園都市線南町田グランベリーパーク駅前のアウトレットモールだ。ここは華やぐ近代色の街でファミリーや若者らがのびやかに、かつ清々しい五月の風を受けて「まちにいること」を楽しんでいた。多摩ニュータウンの南大沢駅前のアウトレットモールやJR立川駅北口のグリーンスプリングスとは規模も趣も違う。JR・小田急線町田駅周辺の繁華街に次ぐ「副次核」の商業地として生まれ変わっていたのだった。
44回目の多摩めぐりで訪ねたのが5月18日。「新しい街グランベリーパークを訪ね、多摩最南端の地に足跡を残す」というテーマを掲げて味藤圭司さんのガイドで参加者26人が歩いた。モールを一歩出ると、企業や住宅街を突き抜ける“むかし道”の細い街道や沿道に点在する庚申塔や一里塚、大学跡地にできた巨大マンション、暴れ川といわれ続けて改修された境川の穏やかさ。さらに近代水道を象徴する水管橋などを見て時代とともに歩んだ鶴間の変遷に触れた一日だった。
多摩めぐりの会のホームページに掲載するブログを書くために3年前に多摩地域で一番南にある「南町田グランベリーパーク駅」に初めてやってきました。駅に降り立って、目の前に広がっているグランベリーパークの風景を見て驚きました。真新しい商業施設が連なる街並みが奥へとずっと続き、「何だ?これは! 多摩にこんなピカピカの場所があったんだ」と大発見をした感じでした。
多摩地域の最南端部分で、そこへ行くには東急田園都市線という多摩北部在住の人には印象が薄い鉄道に乗らなければならないこともあって、普段訪れることがないだろうから多摩めぐりで訪問するのは面白いのではないか、と思ったのが今回の企画の発端でした。
調べていくと、グランベリーパークの開発の歴史はもちろん、ご当地の鶴間は過去も現在も交通の要衝であるという特徴のある姿が浮かび上がって来て、面白いコンテンツを組み込んだ多摩めぐりを作れそうだとプランを練り上げてきました。
全コースで歩く距離が約4kmのコンパクトなエリアであったことから、弁当を持たない半日コースという多摩めぐりでは初めての試みも行いました。
参加者の感想を読むと、内容、運営いずれも「良かった」と評価をいただき、ホッとしているところです。
斬新な駅とショッピング街
参加者の集合地は、南町田グランベリーパーク駅。電車から降り立った切通し状のホームで駅舎や天井を見上げた。鋼鉄で組んだ斬新なデザイン。グランベリーパーク口の改札への全階段は光が灯る花畑のようで息を呑んだ。令和元年(2019)6月に新装した駅(昭和51<1976>年、南町田駅開業)で、グランベリーパーク開業の1年前だった。国内の鉄道会社初のホーム上屋に太陽光発電システムを取り入れ、構内地下には雨水貯水槽を備えるなど目新しい施設がある。
改札を出ると、そこはグランベリーパークの一角で「ステーションコート」。東急ストアなどが立ち並ぶ玄関口だ。アウトレットなどが軒を連ねるメインエリアの「セントラルコート」には6つのパビリオンがある。この二つのコートは「グランベリーブリッジ」で繋がり、地上に降りることもなく回遊できる。
複数の街道が交差する要衝地
新しさに度肝を抜かれて昔を振り返ってしまう。一帯は山林と田畑が広がる里山の村々が隣接していた。これらの村が明治22年(1889)に合併して南多摩郡南村になった。昭和29年(1954)に町田町と合併。このあたりには元々、鎌倉街道や大山街道、さらに絹の道といわれる神奈川街道などが交わる交通の要衝だったところに昭和31年から東名高速道の建設工事が始まった。一帯を道路網で埋めるかのように昭和40年、一般国道になった国道246号が整備され、神奈川往還や町田街道は首都圏の環状道路である国道16号として重要路のレベルを上げた。大きく様変わりし始めたのが昭和43年(1968)東名高速道路の横浜町田インターチェンジができ、さらに周辺住民の要望を形にする格好で昭和50年、周辺の土地区画整理事業による開発計画によって東急は長津田-中央林間駅に鉄道を延伸し51年に南町田駅を設置した。
40年間で人口3倍に増えた
それから四半世紀、東急は南町田駅南側に新たな街を出現させた。グランベリーモールを開発して平成12年(2000)4月、開業にこぎつけた。敷地8万7千㎡にフードコートやスーパー、アパレルや雑貨、郵便局、市役所の連絡所などがテナントに入った。昭和51年の南町田駅開業時期に比べて平成28年(2016)の周辺人口は約1万7千人で3倍に増えていた。ただ、このときは10年間の期間限定のまちづくりプロジェクトだった。
モール改変して5つのゾーンで構成
第2期の開発計画を決定したのが平成27年(2015)6月。町田市は基本計画を策定し、翌年、東急と共同プロジェクトを立ち上げた。グランベリーモールをはじめ、周辺の鶴間公園、住宅や駅前広場など、鶴間公園・商業地・低層住宅ゾーン・中高層市街地ゾーン・産業・業務ゾーンの5つのゾーンを一体的に再整備するものだった。この構想の中核となるのが、いまのグランベリーパークだ。
令和元年(2019)11月、南町田グランベリーパークの「まちびらき」が華々しく行われた。店舗面積は約3.3万㎡から約5.3万㎡に拡大。店舗数は98店から241店に。駐車台数も約1.5倍の2027台に増えた。「まちびらき」から13日間で100万人が来店し、1か月後の12月14日には「スヌーピーミュージアム」もオープンして、エリアのあちこちのコートでスヌーピーが出迎えている。
700年以上前の一里塚?
多摩めぐり一行のスタート時刻はグランベリーパークの営業時間前だったので、外観を楽しみながら、まずは南へ下る鎌倉街道を歩き、南北に流れる境川を遡上するように北上して、この日のコースを1周する行程を組んだ。昼ごろにグランベリーパークに戻り、ここのフードコートで和洋中華の料理が揃っているコーナーで参加者それぞれが好みの料理を楽しむという多摩めぐり初の半日行動を取り入れた。
グランベリーパークから一歩外へ出ると、そこは異空間に思えた。駅南東に位置する鶴間3丁目辺りは工場らしき鉄骨組の建物と住宅街、さらには畑があり、これらが混然とした中に円錐形の小山が地上に5mほど突き出ていた。鶴間の一里塚だ。幅3mほどの鎌倉街道の脇にあった。塚の頂部にあった御岳信仰の石祠がひときわ目を引く。往時に村人や往来したであろう旅人が火難、盗難除けを願って祀られたと伝わる。一里塚と呼ばれるが、起点は定かでない。
国内初の近代水道 トロッコ跡と共用栓
南下を続けて鎌倉街道に沿って進む。車の往来が激しい国道246号に架かる「銀河歩道橋」を渡る。246号を天の川に見立てて国道の西側に織姫星、東側に牽牛星のレリーフをあしらって七夕神話を印象付けている。
その歩道橋の下に数メートルもある鉄管が横たわっていた。明治20年(1887)国内初の近代水道を生んだシンボルパイプだ。津久井郡三井村(現・相模原市津久井町)から横浜村の野毛山浄水場(現・横浜市西区)までの約44㎞に敷設した水道管だ。当時、鉄管や資材・機材を運ぶのにトロッコが有力だった。このトロッコ道をいま、遊歩道にしている。
近くには「獅子頭共用栓」が移設されている。給水は当初、横浜中心部で街頭に設置された共用栓を利用していた。共用栓の上部をあしらっていたのが獅子頭だった。水道は横浜市民への給水と近代消防の一歩にも繋がったという。いまも導水管は遊歩道の下に埋め込まれており、横浜市民の命を繋いでいる。
コレラ蔓延防ぐ願いの庚申塔
南下を続ける鎌倉街道と矢倉沢往還(大山街道)が交差する鶴間5丁目の三角地にあったのが大谷ヶ戸庚申塔。2基の灯籠を配して中央に庚申塔が据えられている。塔に張られた注連縄が御幣をまとって神々しかった。
文久3年(1863)8月に建立された塔で、当時流行っていたコレラを防ぐために祈ったものだろうか。庚申の日は60日ごとにめぐってくる(令和6年の今後は6月25日、8月24日、10月23日、12月22日)。この日、青面金剛に講中が集い、災厄を除けるために寝ずに祈りをするといわれる。3月に訪ねたときは敷地には草がなかったが、多摩めぐりのこの日、塔などは草に埋もれていた。
地元の職人が手掛けた神社
大谷ヶ戸庚申塔が面している大山街道を横切り、鎌倉街道をしばらく南下。人一人が歩ける細い路地へガイドの味藤さんが一行を誘導して、鶴間6丁目にある日枝神社境内に案内した。境内は住宅に囲まれてこじんまりしている。鳥居は、一行が境内に入った地点とは反対方向の大山街道に面していた。
本殿にはケヤキ材をふんだんに使い、細部に渡って丁寧な細工を施している。屋根はこけら葺き。江戸時代中期に熊野神社(南町田4丁目)の末社として創建されたものらしい。小さな本殿は昭和46年(1971)に熊野神社から移設された。棟板は享保11年(1726)の墨書で「大工・蔵並七郎兵衛、屋根葺・西本市兵衛」などと記名してあるという。蔵並七郎兵衛は鎌倉の有力大工であり、一方の西本市兵衛は鶴間村の屋根葺き職人だった。
写真撮り合う多摩地域最南端
一行は鎌倉街道沿いの鶴間6丁目の住宅街をさらに南下した。目指すは多摩地域最南端地。東京都と神奈川県の都県境であり、町田市(鶴間6-33)と横浜市(五貫目町18)の市境だ。歴史的には武蔵国と相模国の国境であり、多摩郡と鎌倉郡の郡境でもあった。
地図好きの味藤さんが、この地を探し当てた位置は北緯35度30分4.27秒、東経139度28分24.90秒。道路を挟んで北の町田市側は住宅地、南の横浜市側は畑。ナヨクサフジ(マメ科)の紫色の花が絨毯を敷き詰めたように一面を覆っていた。花言葉が奮っている。「あなたに成功を」だそうだ。この日に当てはまる花言葉だ。
境の東西にラインを引くようにあった路上には給水管や排水管の蓋にそれぞれ自治体のマークを入れたものがあり、参加者の面々は蓋の写真を撮り合っていた。きょうのテーマの一つである多摩最南端の地に足跡を残した。その記念に味藤さん手作りの認定書を参加者一人一人に手渡した。
大正の大火を機に例祭
鶴間に大火があったことを示していたのは第六天神社だ。面足命(おもだるのみこと)を祭神にして、元々、鶴間の大ヶ谷戸に住んでいた人々が守り神として創建したものだ。穏やかな暮らしをひっくり返したのは大正9年(1920)3月20日の大火だった。大きな被害が出た。この大火を契機に翌年3月20日から第六天神社と隣り合っている古峯(ふるみね)神社(栃木県鹿沼市の火伏の神を分祠)と御嶽神社の例祭が行われるようになった。ともに1間ほどの社ながら住民の思いを伝える財産だ。
桜を吹き抜ける風に身癒す
一行は住宅街を抜けると、再び大山街道に出た。街道の向かいで大屋根を広げていたのが円成寺だ。正式には山王山紫王院円成寺(浄土真宗)という。この地は、周辺一帯に延びる鎌倉街道や大山街道などが通る土地柄で鎌倉や小田原に縁が深い。
北条氏綱の家臣だった山中修理亮(しゅりのすけ。天正12年<1582>に亡くなったとされる)が小田原城の落城(天正18=1590年)前に発心遁世して僧になり、円成寺を創建したと伝わる。本尊に阿弥陀如来立像を安置している。室町時代の寄木造りの聖徳太子立像(高さ52.2㎝)は町田市有形文化財になっている。梵鐘に元禄13年(1700)の銘がある鐘楼が本堂前に建ち、境内を引き締めていた。桜の大木の下を吹き抜ける風も手伝って、歩き続けている一行の身を再生するようだった。
北に高層、南に巨大マンション
円成寺を回り込んだ裏手に出ると、北東から南東に縦断するように延びた国道246号を再び渡った。歩道橋の上から北を望むと、南町田グランベリーパーク駅付近にある高層マンションが一際目を引いた。歩道橋の南側にも巨大なマンションが陣取っていた。平成29年(2017)までの15年間、東京女学館大学があった。ここも南町田駅周辺地区拠点整備計画のエリアで、広さ約2万8千㎡に7階から10階建ての大規模分譲マンションが令和4年(2022)に完成した。582戸が入居しているという。マンションのフロントに当たる庭には芝が敷き詰められて清楚感が漂っていた。
都県境を流れる境川
巨大マンションの西側に境川が流れている。手前にあたる左岸は町田市鶴間4丁目、右岸は大和市下鶴間。大和市側の法面が町田市側よりも2mほど高いか。土手から下流を見ると、大蛇がうねるように右旋回している。上流は左旋回だ。
境川の源は町田市の草戸山(標高364m)付近で、東京都と神奈川県の都県境を南下して、藤沢市の江ノ島付近で相模湾に入っている。延長約52㎞の2級河川だ。以前は流域では水田を潤し、小さな蛇行を繰り返していた河川だったが、このところの河川改修で直線的な流路に変わった。町田側で直線的になった区間では所々、遊休地や公有地が見られる。町田市の拠点整備計画によって生まれたスポーツ広場も川沿いに広がる。この川沿いの道は「境川ゆっくりロード」と名付けられて、歩く人、走る人、自転車をこぐ人らが風を感じて楽しんでいた。水面ではアオサギが生き物を狙うのに首を曲げていた。
ゆらぐ光映す水管橋
この日の日差しは、やや強めだが、境川に吹く風は気持ちが良い。数百メートルも遡っただろう。鶴間1号橋を越えた辺りで、前方に両岸を跨ぐ、弧を描くパイプ状のものが見えた。あれが境川水管橋だ。近づいて見ると、水面の反射光が水管の下側を1本ずつ照らして、水を映すように揺らいでいた。光のページェントだった。
これらの水管は、近代水道を編み出した横浜水道が誇る施設の一つだ。水道管の橋の長さは約56m、直径150㎝。上流側の3本は横浜市水道局が管理している。そのうち1本は道志川水系の水管で、あと2本は相模川系統の水を送り込んでいる。下流側の1本は酒匂(さかわ)川水系から引いた水で神奈川県広域水道事業団が管理している。いずれも下流にある川井浄水場(横浜市旭区)と西谷浄水場(同市保土ヶ谷区)でブレンドして横浜市内に給水している。
地形と景観生かす公園
境川の段丘の上は、グランベリーパークを構成する一角の鶴間公園だった。昭和54年(1979)に開園。その後、新しくなったグランベリーパークの一部に組み込まれた。ここには面積約7.1haに2つの芝生広場、グラウンドやテニスコートなどの運動広場、子どもたち専用の遊び場が3つもある。この公園のメインとなるのが300mもあろうかというけやき並木。横浜水道の水管が埋まっていることから「水道みち」と名付けられている。斜面を生かした公園の上部には「つるまの森」がある。雑木が生い茂っていた往時の鶴間の景観を保存している森で、ナナフシやショウリョウバッタ、オオカマキリ、エンマコオロギなど季節の昆虫たちが這い出てくるという。新街区と隣り合わせにある森で参加者一同の記念写真を撮った。
この日の多摩めぐりの全コースをめぐり終えた。コートに据えられたスヌーピーが待つグランベリーパークに吸い込まれるように参加者の一行は、思い思いにパークへと入っていった。
変わりように驚き 参加者の感想
南町田へはアウトドア用品を目当てに二十数年前、よく行きました。南大沢のモールと比較すると、驚きの変わりようでした。立川は施設が狭く感じます。最南端に立った認定証はグッドアイデアです。
私はアウトドアのお店を目指して大型商業施設へ行くことが多い。グランベリーパークのショップは多摩近辺では一番大きく品数も豊富なのがうれしいです。目的店しか行かない客ですが、十分楽しみな施設です。
グランベリーパークではハンバーグランチをいただき、パーク内でおやつ、パンなど買い、さらにカフェで一休みして帰途につきました。
グランベリーパークの印象は、商品が30代〜50代の世代向けだと感じました。建物がいくつもあって広く迷路のようで、70代にはやや疲れるショッピングモールです。しかしながら、たまにこういうおしゃれなモールに伺うと、最近のトレンドがわかったり、新しい商品を見つけたり、生活に刺激をいただけます。
驚きは横浜が東京より早く上水道を敷いたこと、境川が昔は蛇行していたこと、境川の源流は草戸山だということ(ハイキングに行く低山なのに、とビックリ!)。南町田では、かつて林業が盛んだったというような発見がありました。 私は俳句の会員ですが、きょうは境川にいた鵜、石垣にあった蛇の皮など句材がいろいろあって目下苦吟中です。
いつもとは一味違うウォークで、急速に発展した街の移り変わりがわかって面白かったです。私は田園都市線沿線に住んでいるので、あの殺人的なラッシュの原因が分かった思いです。電車のキャパシティ以上に住宅地を開発したのでは?
近代的で未来の街づくりに相応しい南町田グランベリーパーク駅、感動しました。多摩の最南端の地に足跡を残せたことは、いい思い出になりました。銀河歩道橋も夢がありますね。頭上に4本並ぶ境川水管橋は県民に大切な水を届ける橋…圧巻でした。鶴間公園から続くグランベリーパークは、土曜日とあって人出が多く、希望の店を探すのに苦労しました。もう一度、来たいと思える街ですね。
ランベリーパークへは度々出かけていますが、一歩外に出ると全く異なる地域が現れるとは思っていなかったので驚きました。グランベリーパークではお店を巡ったり、食事をしたり、映画を観たり、ゆっくり楽しめる楽しい所です。クリスマスのイルミネーションはとてもきれいですし、クライミングの疑似体験を小学校当時の孫たちはとても楽しんでいました。多摩の最南端を歩くことが出来てうれしかったです。
東京都の最南端である南町田・鶴間に初めて行きましたが、新しい街や施設で今後の都市開発の新しい形を見た気がします。また、グランベリーパーク(鶴間公園を含め)は、モダンな商業施設と住居施設(高層マンション)がマッチした地域空間であり、若い人たちが多いという印象で活気がありました。