ガイド:相山 誉夫さん・菊池 等さん
JR昭島駅(集合)→ 春奈塚バス停(自転車道起点)→ 導水管空気孔 → 残堀砕石場跡地 → 横田車庫跡(現・横田児童遊園) → 都立野山北・六道山公園(昼食)→ 武蔵村山市立野山北公園 → 同市歴史民俗資料館 → 第1隧道・横田トンネル ~ 第4隧道・赤坂トンネル → 自転車道終点 → 番太池 → 大多羅法師(だいだらぼっち)の井戸 → 日吉神社 → 武蔵村山市役所前バス停(解散)
武蔵村山市中原2・3丁目の境界地点を東南に延びる江戸街道から反れながら東方の同市本町2丁目まで、定規で線を引いたように野山北公園自転車道は、東へ真っすぐに延びていた。この区間に点在する畑や住宅街を二分している。自転車道から一瞬、人影がなくなり、黒影の桜並木は一層、直線の道を強調したように見えた――。3月30日、42回目の多摩めぐりで野山北公園自転車道を東へ東へと歩を進めた。この道は村山貯水池(多摩湖。東大和市多摩湖)と山口貯水池(狭山湖。埼玉県所沢市勝楽寺)を建造する際に資材を運んだトロッコ跡であり、いまも地中にある導水管で村山貯水池と山口貯水池へ送水している。芽生える狭山丘陵に抱かれたいという願いも叶った。ソメイヨシノより一足早く咲くマメザクラやコブシ、ハクモクレン、カタクリ、スミレの数々、天を仰げば多摩地域の樹木を代表するクヌギやコナラ、ケヤキが幼葉を広げようとしていた。この日は春の陽気を上回る高温(東京の最高気温24.6度)の中、相山誉夫さんと菊池 等さんが参加者19人を案内。それぞれがヒートアップした。
羽村で取水して貯水池へ
野山北公園自転車道は、武蔵村山市の西部域から東へ向かう延長約4㎞。途中の残堀川や新青梅街道、青梅街道などの主要路を横切り、山口貯水池を建設するために狭山丘陵に6本のトンネルを建造した跡だ。うち第5と第6隧道の2本のトンネルは一般には開放されていない。
自転車道の地中には、いまも多摩川の羽村で取水した水を村山貯水池と山口貯水池へ送水する導水管が埋め込まれている。
西の起点付近から途中の横田児童遊園(武蔵村山市本町)付近までの約2.3㎞区間に約300本のソメイヨシノの大木が樹皮を黒くして居並ぶ。同市の市制5周年を記念して昭和50年(1975)に自転車道を整備した折にソメイヨシノを植栽したものだ。この日は、開花の秒読みに入っていたが、つぼみは固かった。
羽村・村山軽便鉄道の跡地
自転車道の地中になぜ導水管が埋め込まれているのか? この道は、元をただせば、当時の人口増加にともなう首都東京の上水不足解消を目的として村山貯水池を建設するために大正5年(1916)から工事が始まり、10年には羽村から村山貯水池へ水を引き入れる導水管設置工事のための材料運搬用の軽便鉄道羽村・村山線が敷設された。約7.8㎞区間だ。多摩川で採掘した石や砂利、砂を羽村駅近くの東京市材料置場から第1隧道の横田トンネル手前まで運んだ。軌間(線路幅)は2フィート(61㎝。現在のJRの軌間は106.7㎝)、機関車は米国のプリマウス製ガソリン機関車で木製のトロッコを牽引した。横田トンネル手前から建設現場の貯水池付近まではトラックで運んだ。
三方から資材輸送して対応
大正9年から東村山軽便軌条も運用され、東村山駅-下貯水池堰堤付近を蒸気機関車が運行してセメントなどを輸送した。さらに国分寺駅を経由して資材を運んだ川越鉄道は軌間が異なることから東村山駅で資材を積み替えて工事現場へ輸送した。軽便軌条などは村山貯水池建設工事が終了した大正13年(1924)に軌道をいったん撤去した。
新たな山口貯水池建設にも鉄道敷く
その後も東京の人口増加は留まらず、新たに山口貯水池(昭和9=1934年完成)を建設することになり、羽村・山口軽便鉄道の軌道が12.6㎞区間に敷かれた。工事は昭和3年(1928)4月に始まり昭和4年6月に竣工した。運行したのはドイツ製のディーゼル機関車で三角柱を寝かせた形のナベトロと呼ばれたトロッコを牽引した。軌道は山口貯水池堰堤が完成した昭和8年に廃止された。なお、山口貯水池の原水確保については、羽村・村山線(導水管)を分岐させて引き込み水路を設け山口貯水池へ繋いだ。
被弾避ける工事にもナベトロ
だが、10年後の昭和18年に機関車やナベトロが再び運行することになる。戦時色が濃くなり、2つの貯水池に爆弾が投下される恐れがあることから堰堤に耐弾層を設けるための工事が行われた。工事は建設中の小河内貯水池から急遽資材をとり寄せたり、車庫や交換所に保管していた機関車やナベトロなどを再利用した。耐弾層の建設が終了して軌道は撤去され、機材は小河内貯水池建設現場(奥多摩町)へ運ばれた。
青く澄んだ快晴の空。開花を待つ桜。自転車道をのびやかに歩く家族連れや仲間とともに笑顔でペダルを踏んでいる若者や子供たち。その足元の自転車道が映す世相の紆余曲折を改めて知る。
空気圧下げるパイプから水音
橋の欄干が出現した。残堀川に架かる堀川橋(残堀・三ツ藤)だ。橋の詰めに直径30㎝もあろうかという煙管のような形をしたパイプが地上に突き出ていた。ガイドの菊池さんは「どんな音がするか、近づいて聞いて」と参加者を促した。「あ、ら!」「ん~? あ、ホントだ」とそれぞれが聞いた音に反応する。小川が小波を集めてチロチロと流れているような音だ。しかし、この導水管は太さが2900㎜もあり、水は1秒間に12.5㎥も流れているという。自然流下だから静かに流れているのだろうか、聞こえる音からは想像を超えた流量だ。
地上に突き出た管は、多摩川から村山・山口貯水池へ導水している管の中の空気圧を下げるための空気孔だ。橋の向かいの詰めにもある。
砕石場跡地にプラットホーム
空気孔のはす向かいは、山口貯水池建設当時の残堀砕石場(三ツ藤)で、羽村から機関車に牽引されて砂利を積んだトロッコが3階建ての高さに匹敵する土盛りのスロープを登り、桟橋から砂利を砕石機に投入して細かく砕いた。砕石機の下で待つトロッコは、その砂利を積んで運び出された。
いま、空き地になっている広場には当時、砕石された砂利を運び出すトロッコのプラットホームと推察されている3つのコンクリート製の台座が苔むして残っている。近づいてみたかったが、立ち入りできず、遠目で見るしかなかった。
カタクリの群生に夢中
自転車道は、新青梅街道を渡り、さらに青梅街道も突き抜けた。武蔵村山市の中心的住宅街の奥へ向かった。都立野山北・六道山公園(狭山丘陵にある都立中藤公園など6つの都立公園で構成。204.4ha)の一角だ。ハクモクレンの下で弁当を広げ、しばしの談笑タイムを楽しんだ。一時、自転車道から離れて、都立公園の中の山裾に広がる市立野山北公園(1.8ha。昭和52=1977年開園。本町)では万葉の名花に歌われるカタクリの群落に夢中になった。
野山北公園の下にあった同市歴史民俗資料館(昭和56年開館。本町)へも入った。参加者が取り囲んだ展示物は軽便鉄道のコーナー。レールなど貯水池建設にまつわる資料も覗き込んだ。
3ヵ月ぶりで今年初めての「多摩めぐり」でした。今回の目玉の一つ、自転車道の桜トンネルの中を歩く企画、桜の開花予定が当初3月中旬ということで大いに期待していましたが、異例の寒さの連続で開花が遅れ、当日は残念ながら所々に木に1輪、2輪咲いているのを見て参加者の皆さんが咲いている、咲いていると歓声をあげていました。
もう一つの目玉だったカタクリの群生。狭山丘陵内の武蔵村山市立野山北公園では見事に群生が咲き誇っていました。カタクリの群生を初めて見る参加者が多く「可愛いね!」の声が聞こえていました。花の後は、貯水池建設時に使われたトンネルに入り、都立中藤公園の中を歩き、今も残る雑木林の里山に満足して頂いたと思いました。
機関車、トロッコなどの基地
歴史民俗資料館の南へ下った。狭山丘陵を越えるために掘った隧道を歩こうという午後のもう一つの目玉だ。第1隧道といわれる横田トンネルの西側は、横田児童遊園。この日行われていた「さくら祭り」のメイン会場であり、人込みだった。ここは貯水池建設当時、横田車庫として機関車やトロッコの整備、燃料補給、材料置き場の基地だった。燃料庫は平成11年(1999)まで残っていたが、この日は人込みで埋まっていた。
4つのトンネルを抜ける
祭りのメイン会場の東側が第1隧道。入口に「横田トンネル」(本町)と大書きしてあった。トンネルの断面は馬蹄形。長さ163.7m、高さと幅2.73m。人海戦術で掘ったものか。コンクリート製の壁の厚さは30㎝。進むにしたがって冷気が頬をなでる。所々で水がしたたり落ちる。
横田トンネルを抜けると20mも満たないうちに第2隧道「赤堀トンネル」(96m。中央)が口を開けていた。続いて第3隧道「御岳トンネル」(123.6m。中央)、第4隧道「赤坂トンネル」(156.3m。中藤)が途切れ途切れにある。幅は、それぞれ同規模だ。第5隧道と第6隧道があるが、一般の立ち入りはできない。ガイドの相山さんは言った。「軌道を撤去した後の第4と第5隧道は、太平洋戦争の最中に日立航空機立川工場が避難し、防空壕として使った」と。
雑木林に忽然と出現した池
第4隧道を抜けた地点で自転車道は終了したが、一行は、さらに南下して狭山丘陵の雑木林風情が濃い山道を、弧を描くように歩いて中藤地域に出た。池の手前にあった谷戸の一部が冠水しており、これから訪ねる「番太池」(中藤)が近いことを表していた。番太池は金網に囲まれ、水を満々と張っていた。
番太池は上段と下段の2つの池からなる。これらの池は丘陵からの湧水を集めたもので地元の「入りたんぼ」や灌漑用に使ってきた。農作業の時期を見計らって貯水量を調整しているという。地元では、いまも「番太池」と呼んでいるが、江戸時代の古文書に記された名前では「御嶽の溜井」とか「溜井御嶽道」といい、地元の字名を冠していた。池の畔に陽春の日を浴びたフジザクラの別名を持つマメザクラが白く浮き立っていた。
村の水源だった巨人の足跡
一行は、狭山丘陵の木々が生い茂る林道的な色合いが濃い山道を、逆のS字を描くように中央地区にある「大多羅法師(だいだらぼっち)の井戸」へ向かった。巨人伝説の大多羅法師は、足のサイズが70m余りもある背が高い男で、関東から中部地方の各地に伝承がある。その名は「でいだらぼっち」とか「だんだらぼっち」など異名が多い。武蔵村山市では「でえだらぼっち」「だいだらぼっち」とも呼ばれている。下駄をはいて、フジヅルで浄土山を縛って背負って歩いていたところ、坂本でフジヅルが切れて山が背から落ちてしまった。その時「でえだらぼっち」は切れたフジヅルを向山に投げた。その後、浄土山にはフジヅルが生えたが、向山には生えなかったという。市内東方にある神明地区の向山公園付近にも「でえだらぼっち」伝説が伝わる。
「でえだらぼっち」が踏ん張った足跡は大きな穴となり、水が湧き出て井戸になった。武蔵村山市中央地区では「でびいしゃら井戸」といい、凹んだ湿地になっている。以前は、四季を通じて水の増減がないことから村の貴重な水源だった。水が豊富に湧いていたことから「でびいしゃら井戸」と呼ばれている。
平成18年に始まった「村山デエダラまつり」は毎年10月下旬の土・日曜に行われる。クライマックスには青森・ねぶた祭りのような張り子で巨人を描いた山車が繰り出す。
隧道上から眼下に別の隧道
丘陵を下ると、西側にぽっかり口を開けた赤堀隧道が下方に出現した。先ほど通った隧道だ。ということは、一行が今立っている場所は3本目の御岳隧道の上だ。思いがけない光景にどよめいた。
野山北公園自転車道は、山口貯水池(狭山湖、昭和9年完成)建設時に敷設された羽村・山口軽便鉄道の路線跡12.6㎞のうち、武蔵村山市が当市の区間約4㎞について市制施行5周年(昭和45年市制)を記念して整備した自転車道です。車道に沿って、約300本のサクラが植えられています。今回の多摩めぐりでは、開花したサクラを愛でることができませんでしたが、当時の首都東京の上水不足解消のため、狭山丘陵に6本もの隧道(トンネル)を掘削し、貯水池建設資材を運ぶ鉄道を通した先人たちの技術と意気込みに触れることができたのではないか、と思います。後日、サクラ開花の時期に訪れたら、どのような景色が観られ、思いを感じるのか楽しみにしたいと思います。
囃子の賑やかさ、復活72年
多摩めぐりの一団は、さらに南下して終着の日吉神社(中央)に着いた。積み上げた石垣。境内を囲む杜。古色感漂う中に荘厳さを際立たせる社。静かさに声を潜めてしまう。境内東側にあった防火用水が「デイダラボッチの井戸」と言われている。
日吉神社の創立年代は定かではない。大山咋神(おおやまくいのかみ)を祭る。元禄4年(1691)に三ケ島(埼玉県所沢市)の照明院から遷宮したそうだ。毎年8月(第1日曜日)に奉納される重松(じゅうまつ)囃子(武蔵村山市指定無形民俗文化財)は萩赤重松囃子保存会が口伝で伝承している。祭礼日には笛、大胴、締太鼓、鉦、拍子木といった鳴り物が軽快に鳴り響く。その曲は「宮昇殿(みやしょうでん)」「かまくら」「仁羽(にんば)」などだ。
多摩地域に広まる重松囃子
重松囃子は、古谷重松(所沢市出身)が江戸囃子から独自の曲を編み出し、地元をはじめ、多摩地域各地に広めた。武蔵村山市には明治17年(1884)ごろに伝わり、日吉神社では祭礼奉納と農民たちの娯楽として昭和初期まで行われた。その後、継承者がいなくなったことから昭和27年(1952)萩の尾・赤堀地区の有志が復活させた。
この日歩いた距離は約7㎞。自転車道の下に埋められた導水管に大勢の人々の東京暮らしが築かれていることに感慨深さを感じた。多摩地域の一角を占める自然豊かな狭山丘陵だからこそ成り立つことだ。丘陵とともに番太池や「大多羅法師の井戸」にも地元の人々が営んできた暮らしぶりが映っていた。自然と人、地形と暮らしが関わりあってきたことを再認識した。これからも先人の知恵を紐解いて学んでいきましょう。
【集合:3月30日(土)午前9時30分 JR青梅線昭島駅/解散:武蔵村山市役所前バス停 15時ごろ】