「第50回多摩めぐり 作家吉村昭の書斎を訪ね、あわせて多摩地域の東端エリアを散策する」を12月21日(日)に開催します

第37回多摩めぐり 御師が支える御嶽神社と山上生活を聞く、気品漂うレンゲショウマの御岳山

右から奥の院。中央の円い山が御岳山頂にある武蔵御嶽神社。山頂左下が御師集落

ガイド : 菊池 等さん

主なコース

JR青梅線・ 御嶽駅(集合) → <バス> → 滝本 → 滝本駅 → <ケーブルカー> → 御岳山駅 → レンゲショウマ群生地 → 産安(うぶやす)神社 → 御岳ビジターセンター → 御師(おし)集落(馬場家御師住宅) → 神代ケヤキ → 仲見世 → 大菩薩峠記念碑 → 随身門 → 武蔵御嶽神社 → 武蔵御嶽神社旧本殿 → 宿坊藤本荘(昼食)、禰宜(ねぎ)・片栁茂生さんの講話 → 御岳山駅 → <ケーブルカー> → 滝本駅 → 滝本 → <バス> → 御嶽駅(解散)

杉の木の間越しに射す柔らかい光に浮き立つ“森の妖精”レンゲショウマの花。魅惑的だった。8月18日に開催した37回目の多摩めぐりで御岳山(929m)を訪ねた。御岳登山鉄道御岳山駅に近いレンゲショウマの群生地で大勢の人々は、ハスに似た形をした淡い紫色の花に見入り、カメラのレンズを向けた。この日のテーマは「御師(おし)が支える御嶽神社と山上生活を聞く、気品漂うレンゲショウマの御岳山」。ガイドの菊池等さんが参加者33人を案内した。山上のあちらこちらにあったポスターで目についたように御岳山が信仰の山として開かれて1400年。武蔵御嶽神社を中心とした住民の暮らし、住民の結束で執り行われる冠婚葬祭にも山上のコミュニティーの姿を見て、私たちが日常求めてきた合理性と、そこに置き忘れてきた重いものを振り返る機会になり、単なる観光とは違う御岳山特有の風に吹かれた。

可憐で魅惑的な”森の妖精“

われらの「御岳山に登る」という高まる気持ちを表すように御岳登山鉄道滝本駅に近い「禊(みそぎ)橋」は、長さ7mと小ぶりだが、神々しい名だ。この橋より奥は武蔵御嶽神社の境域で、参道を北御坂(きたみさか)という。急坂の参道に深みを加える樹齢300~400年の杉、約790本が林立しており、並木に飲み込まれる気分もまた良しと滝本駅頭で見上げた。

乗ったケーブルカーは6分。距離にして1100m余り。高低差423.6m。山上の御岳山駅に降り立つと空気と気温の違いを肌で感じた。

レンゲショウマを取り囲む多摩めぐりの参加者

山上の駅前はレンゲショウマの群生地のお膝元だ。周囲の杉などの木々に囲まれた群生地は、直射日光を嫌う生態に合うのか、木の間越しに柔らかく射す光は、花それぞれに影を作らない分、レンゲショウマが浮き立って見えた。

日本固有の1属1種の多年草植物で、太平洋側の深山に生える。花は淡紫色。花形はハスに似ており、葉の小葉は卵形、縁に不ぞろいの鋸歯があり、サラシナショウマ(更級升麻)に似ていることからレンゲショウマ(蓮華升麻)と名づけられたという。

下向きに咲く淡紫色の花の大きさは3~4㎝。色が透けて見えるようで瑞々しさを感じる。まるで小粒の和菓子だ。「森の妖精」という別名をもらっているほど魅惑的な花だ。それだけに花の近くには人の群れができ、カメラの放列が長く続いた。

花数が少ないが、それぞれ可憐な花に見とれた

例年5万株が8月下旬までの1ヶ月ほどの間に咲くという。その規模は日本随一と地元で謳っている。だが、ここに通い詰めていた野草好きの人は「今年、花の数が少ないのは気温が高すぎて開花が遅いのか、例年の高地の気温ではないからかな」と首をかしげていた。

菊池さん
菊池さん

今回の多摩めぐりは、会発足5周年記念企画として青梅市の御岳山をめぐりました。JR御嶽駅に集合してバスでケーブルカーの滝本駅まで行き、関東屈指の急こう配で知られるケーブルカーに乗り、6分ほどで山上の御岳山駅に到着しました。

そこで、今回の目玉の一つであるレンゲショウマを見学しました。「レンゲショウマまつり」の最中でした。僕は10年以上ほぼ毎年、レンゲショウマを見に来ていますが、今夏は花の数が少なくてびっくりしました。猛暑のせいだけではなく環境の変化が影響しているように思いますが、日本一の群生で知られる御岳山の今後が心配になりました。

そんな中ではありますが、可憐な花が群生地のあちこちに咲いており、可愛いね!との声も聞こえて参加者の皆さんは夢中で写真に収めていらっしゃいました。

御岳ビジターセンターでは御岳山の四季の動植物をDVDで鑑賞。解説員の説明やムササビ、モモンガのはく製、牡鹿の角などに触れ、ムササビのはく製に皆さんが感動されていた。

その後、御師集落の中の参道を歩き、武蔵御嶽神社へと向かいました。急坂の参道が続き、途中でリタイヤされた方がいらっしゃいましたが、多くの人たちは御岳山頂(標高929m)に鎮座する武蔵御嶽神社へ。江戸時代に江戸の「西の護り」として東向きに建て直された武蔵御嶽神社社殿や本殿、旧本殿、大口真神(おおくちまがみ)社を見学、標高1.077mの奥の院(男具那<おぐな>社)も遠望していただきました。

お昼の食事は藤本荘で宿坊料理に舌つづみを打ち、禰宜の片栁茂生さんから御師(おし)と神社の関わりや御師の活動、山上集落の仕来り、社家、法継(ほうつぎ)、神楽などについて体験を語って頂き有意義でした。参加者の皆さんには新たな御岳山を知っていただくことができました。

高木の杉に願った安穏な日々

レンゲショウマの群生地の斜面上にある産安(うぶやす)神社の拝殿は、落ち着き払った趣が漂っていた。樹齢300年以上といわれる神木のヒノキに子授けを願うほか、天を衝く高木の安産杉、夫婦杉に長寿や家内・家族の安穏が宿るように祈る姿が、この日も見られた。

推定樹齢350年、高さ約28m、目通り4.6mの安産杉を取り囲む参加者

御岳学校の歩み刻む百年碑

武蔵御嶽神社の参道を歩くのと一味違う林間でハイキング気分を味わって
御岳ビジターセンターへ

産安神社から御岳ビジターセンターへのコースは、ハイキング気分を盛り立ててくれる森林コースで緑陰に包まれて汗知らずだ。ほどなくして着いたビジターセンターの庭に懐かしい気象観測用の百葉箱があった。

元御岳分校校庭にあった百葉箱

それもそのはず、ここは元小学校分校跡だ。創立は明治10年(1877)御岳学校として誕生した。地元の須崎家の空き家を改修して誕生したものだ。その後、尋常小学校となり、昭和16年(1941)、すでに近隣5ヶ村が合併して三田村が誕生しており、三田尋常高等小学校御岳分校として新たな出発をしていた。戦後の22年には三田村立三田小学校御岳分校に改称。その8年後には三田村が青梅市と合併したことから青梅市立第六小学校の御岳分校になった。だが、30年間続いたものの、昭和61年(1986)、本校に統合されて廃校になった。この経緯を語る碑が元の校庭に立つ。閉校から5年後の平成3年(1991)に建てたもので、長く語り伝えたいという地元の人たちの思いが伝わる。

今年1月1日現在、御岳山に住む人たちは39世帯、120人(男57人、女63人)。15~64歳が54%、次いで多いのが65歳以上の34.1%。14歳未満は11.7%。通学にはケーブルで山を下り、バスとJR青梅線(御嶽駅)に乗り換える。小学校は3駅先の二俣尾駅に近い青梅6小(二俣尾)だ。中学校は御嶽駅から4駅先の石神前駅に近い西中学校(梅郷)。

季節彩る花と動物たちの棲み家

分校生になった思いで、ビジターセンターで御岳山の自然について勉強した。解説員は御岳山で生まれ育った馬場晃一さん(42)。宿坊のご子息だ。1000m級の御岳山は、気候が厳しい分、動植物は多彩だ。春にはエイザンスミレ、カタクリ、ヒトリシズカ、20種もあるスミレも順次に咲く。夏は1年で一番賑やかでコオロギ、オオルリ、キビタキなど虫や野鳥の声が響き渡り、ヤマツツジなどが足下から楽しませてくれる。ロックガーデンでは涼気に包まれ、サワガニやサンショウウオなども見られる。赤い実をつける秋のヤマボウシは一見の価値ありという。紫色のリンドウを見て、カンタンの声も聞いてみたいものだ。この夏の時期とは違う顔を見せる、ひっそりと静まり返った冬の御岳山を歩いて山の独占気分も味わいたい。

御岳ビジターセンター解説員の馬場晃一さんが語る御岳山の自然の豊かさに聞き入る参加者

不思議さは魅力の証

大型の動物ではイノシシをはじめ、二ホンジカ、ツキノワグマの爪痕も。冬を越したチョウの羽はボロボロで生を感じると馬場さん。奥から持ち出してきた“空飛ぶジュウタン”といわれるムササビのはく製が1m余りもあり、ほっそりしたモモンガと比べると、なんと巨大か。モモンガの求愛行動は、オスがメスに尻尾を回すんだそうだ。長年つぶさに御岳山を見続けてきて、季節によって違う顔を知る馬場さんは「不思議さいっぱいの御岳山に思えますが、それだけ魅力的だということです」と力説した。

体長1mほどのムササビに寄り集まった参加者(御岳ビジターセンターで)

宿坊街の新旧で活性化

宿坊街の中心地では「うつぼや荘」が新築工事で棟上げが終わったばかりの様子だ。以前の母屋は建てて200年以上になり、増築を繰り返してきた。これまで御岳山で新築されるのは見たことも聞いたこともないと住民は言う。来春には2階建ての100坪(約3300㎡)にいまの時代に合わせて洋室やグループなどが使いやすいような部屋が完成するという。

御岳山には御師の家や宿坊が30軒ほどある。その一軒が東京都有形文化財の指定を受けた御師の馬場家住宅だ。慶応2年(1866)に建てられた。江戸期の御師住宅の建築様式が見られる茅葺屋根の住宅だ。式台の玄関や漆塗りの入口である舞良戸(まいらど)が格式の高さを物語っている。御師として祈祷をする部屋を「神前乃間」と呼び、かつては、ここでお祓いを受けてから武蔵御嶽神社へ詣でた。

馬場家ではいま、「神主さんのお茶処」として青梅ジュース(800円)などお土産を販売するほか、焼きおにぎり、ぷるさしこんなど6品付きの「神主さんのランチセット」(2000円)を用意している。

白壁の蔵を構えた、荘重な趣を称える馬場家
馬場家の玄関前も格式の高さが漂っていた

人が人形に見える千年ケヤキ

黒塀に囲まれた御師住宅街を繋ぐ坂の参道を登る

厳粛さが漂う宿坊街は、それぞれ建物に趣がある。家の造りを見上げ、塀にくぎ付けになりながら、延々と続く参道の坂を青息吐息で登る。その中腹あたりの斜面に太い幹を斜めに傾けて、さらに枝を下げた「神代ケヤキ」が頭上に表れた。樹高約23m、幹回り約8.2m。推定樹齢は、なんと1000年といわれる。昭和3年(1928)に国天然記念物に指定された。幹や枝には大小のコブがいくつもある。ツタウルシが巻く幹は、巨木の荘厳さと神秘性を高めている。ケヤキの下で仰ぎ見る一行の人々はミニチュアのドールのように見えた。

下から見上げる神代ケヤキは、樹形をさらに大きくする

空に広がる随身門の屋根

坂を登りきると仲見世だ。飲食店が軒を寄せ、土産も並ぶ。お客を呼び込む声が一段と弾む。武蔵御嶽神社が近いことを表す手水舎で清め、鳥居をくぐった。階段上の随身門までたどり着いた。ほとんどの参加者はゼ~ゼ~と息を乱していた。

随身門は朱塗りの八脚門。屋根に入母屋造りを載せた一層構造。幅約9.5m、奥行き約5.5m。仰ぐ空に随身門の屋根が大きく広がり、神々しさが際立つ。江戸時代末期までは二層の仁王門だったが、山上集落で神道化が進んでいまの様式なった。扁額の書は、徳川家最後の将軍・慶喜の相談役だった勝海舟、山岡鉄舟と並んで「幕末三舟」の一人、高橋泥舟(でいしゅう)。

随身門下の鳥居で参加者全員集合

天空に剣を振るった「大菩薩峠」

ガイドの菊池さんは、息を整えつつある参加者を促して随身門脇にある中里介山の長編小説「大菩薩峠」にまつわる記念碑の前へ一行を誘導した。介山は小説の中で関八州の武術者が5月5日に御岳山上で奉納試合を行ったことを記した。介山は、この神社にある慶応3年(1867)奉納の開平三知流(かいへいさんちりゅう)の武術額にヒントを得て「大菩薩峠」を構想。主人公の机龍之介と宇津木文之丞が対戦した場をここに設定した。

昭和31年(1956)に建立された「大菩薩峠記念碑」には「上求菩提下化衆生(じょうぐぼだいげけしゅうじょう)」と介山自筆の文字が刻んである。自ら悟りを求めて修行を積み、なおかつ他者を救いたいという介山の思いが伺える。

中里介山の「大菩薩峠記念碑」

碑の東方が開け、遠方に日の出山(902m)が広がる。その先の眼下の多摩川伝いに青梅の家並みが連なっていた。

仏法僧の声を惜しむ悟堂

武蔵御嶽神社に向かう長い階段は、さらに角度を上げた。両サイドに各地の講中の名前を刻んだ碑が続く。青銅鳥居の近くに「野鳥」や「探鳥」の造語を編み出した「野鳥の父」といわれる文化功労者で日本野鳥の会を創設した中西悟堂(本名富嗣、悟堂は法名)の歌碑の横で足を止めた。

平成19年(2007)に終幕した仏法僧の声を聴く会が20年を迎えたのを記念して講師を務め続けた悟堂の歌を披露している。『蝕之月 杉の木の間にかゝりゐて 仏法僧をなくこゑ遠し』。昭和41年(1967)9月の26号台風で大木がなぎ倒されてブッポウソウの声を聴くことが稀になったことを悟堂は惜しんだ。ブッポウソウは平成12年を最後に、姿を見せなくなった。

ブッポウソウは、ブッポウソウ目で日中に活動する瑠璃色の「森の宝石」と呼ばれる。鳴き声は「ゲゲッ、ゲゲッ」と濁り、絞り出すような声だ。一方のコノハズクはフクロウ目。夜行性だ。鳴き声は「ブッポウソウ」と聞こえそうな声だ。

2つの鳴き声は平安時代から1000年も取り違えて語り継がれてきたことが昭和初めに判明したという。こうしたことから「姿の仏法僧」「声の仏法僧」といわれている。コノハズクの声は「ゴキトウ」とも聞こえ、山岳信仰の御岳山では「御祈祷鳥」ともいわれている。

己に負けずと鬼を踏んで

急階段のためか、うつむき加減になりがちな参拝者の心理を読んで造った階段か。苦しい我が身を励ましてくれたのは、階段の前面に刻んだ餓鬼の彫り物だ。

鬼は全身を踏みつけられて情けない顔でへたり込んでいる。彫刻の右上には鬼の体に乗せたる足の指らしいものがある。生前の悪行の報いで餓鬼道に落ちた亡者が懲らしめられている姿だ

1つ目の餓鬼

そんな鬼の顔を踏みつけて参拝者は階段を昇る。苦しい登りだが、苦行の狭間にいる自分との戦いのようで、自らに甘んじてはならずと気を取り直す。邪気を払うと信じて。

ほどなくすると、2つ目の餓鬼が表れた。歪んだ鬼の顔が全面に刻まれている。鬼は右手首を折って掌を広げ、歯を食いしばって階段を支えている格好だ。

2つ目の餓鬼

さらに上段へ進むと、口をひしゃげた鬼の顔が枠からはみ出さんばかりだ。餓鬼の苦しい表情に叱咤されて神社へと足を運んだ。

3つ目の餓鬼
武蔵御嶽神社に近い参道階段に刻まれた
3体の餓鬼の彫刻に励まされた

青空に映える鮮やかな拝殿

御岳山頂が近い。標高929m。武蔵御嶽神社の拝殿を彩る朱色などを拝殿下から仰ぎ見ると、青空にひときわ映えてきらびやかだった。拝殿の色合いは、久能山東照宮(静岡県)、日光東照宮(栃木県)に似て、曰く因縁があると予感させる。

色鮮やかな武蔵御嶽神社拝殿前

武蔵御嶽神社の創建は原始・弥生時代まで遡る。第10代崇神天皇7年(BC91)武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が国を平定して大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)を祀ったのを起源にしている。奈良時代の聖武天皇の代だった天平8年(736)に僧行基が東国鎮護を祈願して蔵王権現を安置して以来、広く知られるようになった。

関東一円に山岳信仰広まる

平安時代に編まれた「延喜式神名帳」には地主神である大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみやしろ)が記載されており、関東の霊山として信仰が篤かったことを物語る。

さらに山岳信仰が高まったのは中世・鎌倉時代だ。武将畠山重忠が鎧、鞍、太刀などを奉納したという。その後の戦乱で荒廃の憂き目に遭うが、文暦元年(1234)四条天皇の勅使で大中臣兼国(おおなかとみのかねくに)の派遣を受け、祭祀の司職と定められて中興。延文4年(1359)に管領の足利基氏によって社殿を改築、さらに永正8年(1511)に多摩地域をはじめ埼玉などを支配していた三田氏宗によって再度の改築がなされた。

鎌倉から江戸へ向きを変える

天正18年(1590)徳川家康が入府して江戸が開かれると、武蔵御嶽神社は30石の朱印地の寄進を受けた。その16年後の慶長11年、家康の命を受けた大久保石見守長安が普請奉行として社殿を改築した。この時、それまで鎌倉方面を望む南向きだった社殿を東の江戸方面へと向きを変え、家康の「西の護り」固めの姿勢を表した。

現在の幣殿(へいでん)と拝殿は徳川5代将軍綱吉の命によって元禄13年(1700)に造営されたものだ。

変わらず合議制保つ神社運営

武蔵御嶽神社は、全国に8万社(神社庁加盟)あるといわれる神社と運営を異にしている。江戸初期の明暦4年(1658)以来、神主と社僧(御岳山では不在になった)、御師の3者(現在は2者)の合議制で一切を進める仕来りは、いまも変わらない。かつて関東では筑波、赤城、戸隠、三峯、富士、大山などなどに御師がいたが、いまは少なくなっているという。

御師は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社に参詣の世話をする神職も指すようになったといわれる。

武蔵御嶽神社では御師による布教で御岳講が組織されることで御嶽信仰は武蔵国、相模国を中心に関東一円に広がった。明治7年(1874)に社名を「御嶽蔵王権現」から「御嶽神社」に、さらに昭和27年(1957)にいまの「武蔵御嶽神社」に改めた。

旧本殿(右の社)などを構える本殿奥の境内

一行は拝殿の奥にある本殿側の旧本殿に回った。社は真新しい。昭和54年(1979)2月の春一番で大杉が倒れたことで当時の本殿を傷めた。修復し、漆を塗り変えて平成8年(1996)に「旧本殿」として移設した。

「おいぬ様」だから犬も参詣できる

近年、犬も参詣できると人気がある要因の「大口真神(おおくちまがみ)」が鎮座しているからだろう。大口真神の歴史は古く、魔除け、盗難除けの神として祀られたのが江戸時代の天保(1830~43)のころ。多くの人から「おいぬ様」と慕われた。当地でいう「おいぬ様」は二ホンオオカミ。

拝殿前に二ホンオオカミの狛犬を祀る

二ホンオオカミを祀ったいきさつに、ほっこりさせられる伝承がある。日本武尊が東征の折に御岳山から北西に進行する際に深山の邪神が白鹿に扮して道を塞いだ。日本武尊は、山蒜(やまひる=ギョウジャニンニクの別名)で大鹿を撃退したが、その時、山谷が鳴動して、雲霧で道に迷った。そこへ現れた白狼に導かれて日本武尊は難を逃れ、軍勢を前進させることができた。日本武尊は、白狼に「大口真神として、この御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよ」と告げたという。

本殿最奥の高台から西南の男倶那(おぐな)の峰(1077m)が霞んで見えた。神社から大岳山(1267m)方向へ歩いて小一時間かかる。峰に鎮座する男倶那社は、武蔵御嶽神社の摂社で通称「奥の院」といい、ゆかりが深い日本武尊を祀っている。

本殿横には本居宣長の曾孫である本居豊穎(とよかい)が詠んだ「神山霊土歌碑」がある。山岡鉄舟の書だ。境域の土の霊力を称えたもので、かつて、神社の土は虫除けに効くと信仰されたことを伺わせる。

山のもの、ふんだんに食卓へ

神社を後にした一行を待つのは御師住宅の藤本荘でいただく宿坊料理だ。メインの銀杏、玉ねぎ、エリンギ、ジャガイモのホイル焼き。ズイキとコゴミの煮物。キュウリとミョウガの酢の物。コンニャクの刺身は、柔らかくて舌に溶けるようだった。お代わり自由という五目炊き込み御飯の程よい香りと味にビールの量を控えた。

野菜のホイル焼き、刺身コンニャクなど地元で獲れたものを中心に料理した膳
山のものを堪能した藤本荘の食事を楽しむ参加者

宿坊40代目の禰宜が語る山上生活

屋号の藤本荘は玄関前の藤本稲荷に由来する。御岳三稲荷の一つで、古くから祀っている。ご主人の片栁茂生さんは、武蔵御嶽神社の禰宜で、神社の行事や祭り、山上集落の集まりなどで日々、立ち働く。その片栁さんに山上集落の日常や神社での役割などを話していただいた。

片栁さんは開口一番、「私で40代目。元をたどると藤原鎌足の時代だと聞いています」と。参加者の誰もが歴史の古さに驚嘆し「え、え~」と声を発した。

片栁さんは続けた。以下は、片栁さんの講和録。


この家自体は大正時代、ここに引っ越してきたようです。それまで神代ケヤキの下にある広場にいたけれど崩れてしまいました。元々この地は学校で、その跡地に移ったのです。日が当たらないけど、台風の風は当たりません。とにかく寒いし、日陰で住み辛い所ではあります。

日常生活など御岳山大好きぶりを語る
片栁茂生さん

家康時代と変わらない五人組

この集落は古いですから、徳川家康が入府した時には、いまの形態で集落ができていたといいます。江戸時代の名残で五人組という組織がいまもあります。いまでいう隣組です。冠婚葬祭は組合で全部仕切るというのがこの山の仕来りです。

例えば結婚式は、結納披露に組合員が呼ばれて、結婚式当日にお願いする神主さんの予定を聞き、雅楽を演奏する伶人(れいじん)を誰にするとか、日取りを決めることもします。式にはまず祭主さん、その補助として2〜3人がつきます。それから伶人といわれる雅楽を奏でる人。最終的には神主さんも含めて6〜7人が必要です。式は神社で、披露宴はそのお宅で行います。組合の女衆(おんなしゅ)さんは、そのお宅に行って料理を全部作ります。私の結婚式も披露宴を3回やって大変でした。

まず親類と知り合いが集まる第1回目。それが終わってひけると午後4時ぐらい。2回目に山の人に来てもらいます。付き合いがある人、これがとにかく長い。それが終わると、お手伝いしてくれた人を招くから、だいたい終わるのが夜10時。それから片付けをするんです。

付き合い具合で葬儀も分担

葬式も同じように組合が仕切ります。お付き合いがある家と、そうじゃないという方があって、家と家で手伝い事をする関係を「お付き合い」といっています。2人付き合いは夫婦、1人付き合いなら男の人だけ行けば良いわけです。葬式の場合、お付き合いのない方はお墓の穴掘りをします。いま、土葬はあまりないけれど、私は何回か掘ったことがあります。

冠婚葬祭は全部、この山で済んでしまいます。その昔は正覚寺という御師の菩提寺があって、お坊さんに頼んでいましたが、お坊さんが亡くなられてから御岳山の家々は神道化しました。

片栁さんの具体的な話に誘い込まれる参加者たち

改良された上下水道で生活変わる

山上と山の下の生活スタイルが違うところは、生活に欠かせない件でいえば、いま下水道の工事中です。あと3年で完成する予定です。それまでは青梅市からバキュームカーが登ってきて全部、下に運んでいるので問題ありません。その昔は便所からし尿を汲んで畑へ担いで運んで堆肥にしていました。

水道ができたのは戦前です。武蔵御嶽神社の随身門下にある手水舎の奥に「綾廣上水碑」があります。あの文字は日本画家の川合玉堂先生が書かれたものです。御岳山のロックガーデンの奥にある綾広の滝のさらに奥の、奥の院入り口から水を引いています。

それまでは井戸が6本くらいありました。江戸時代は大変だったでしょうね。その当時と家の大きさは、いまもそんなに変わらないと思います。講中の人が20〜30人泊まれますし、井戸水でお風呂など一切を使っていたでしょうから大変だったはずです。今は東京都の水道になっていて、奥の院の入り口の取水場に1000t(500tの受水槽2基)を貯めて、それを浄化して上水としています。

宿坊街に立つ馬頭観音の脇に手押しポンプが残っていた

神聖な三大御嶽の一角担う

「みたけ」というところの話をします。「たけ」の漢字が2つあって、J Rの駅名は山冠がついている「御嶽」。住所は簡単な方の「御岳」。どちらを使っても正しいけれど、字の意味合いが違います。画数が多い嶽は、高くそびえる険峻な山。簡単な方の岳は広大な山という意味です。呼び名は「みたけ」でも「おんたけ」でも構いません。神聖な場所です。

日本の三大御嶽は、信州木曽の御岳、甲州御岳(金峰山)、武州御岳です。美しいものに例える雪月花でいえば、雪の御嶽が木曽、花の御嶽が甲州、月の御嶽がここ武州といわれています。武州の中で一番神聖な場所ということで御嶽が上がっています。いずれも山岳信仰の地で神聖な山という意味です。

うちの武蔵御嶽神社もご祭神が櫛麻智命(くしまちのみこと)という神様です。同じようにお祀りしているのは神社と奈良県の天香山(あまのかぐやま)神社で、どちらも占いの神様です。櫛麻智命(くしまちのみこと)と書いてあるものは大麻止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)と延喜式神名帳に出ている神様です。

諸説あって、もう1つが稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんじゃ)です。それから青渭神社、御岳の惣岳山(そうがくさん。756m)の青渭神社。これも諸説あって、調布・深大寺にもあるといわれています。

奈良・吉野とそっくりな宿坊街

はっきりしているのは阿伎留(あきる)神社(あきる野市)とか、阿豆佐味天神(あずさみてんじん)社(立川市)。櫛麻智命を祀ったのが江戸の中期です。それまでは御嶽山金峯山蔵王権現です。一番代表的な金峯山寺の奈良・吉野をそっくり持ってきたのが御嶽です。空から撮った宿坊の街並みの写真がそっくりです。本当の修行の場を関東に持ってきたからこの山に集落ができたといえます。

潔斎してご神体のお世話する

ご祭神の櫛麻智命、大己貴命(おほなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこのみこと)、日本武尊(やまととけるのみこと)、廣國押武金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)の四神が入っています。

神社の建物についていえば、賽銭箱がある上階を拝殿、その奥が幣殿で神主さんが拝む場所であり、お供えをする場所です。さらにその奥が本殿です。本殿には扉が2つあって、内陣という扉を開けるとご神体がいらっしゃいます。年に数回、内陣を開けても私たちにはご神体が見えません。掃除をするために扉を開けることがありますが、その場合も潔斎をして前の晩から泊まって、四つ足動物の肉を食べてはいけない。お酒は飲んでもいい。翌朝、身を清めてから開けなきゃいけないなど、決まりがいろいろとあります。

1週間籠って修行する後継者

神主になるためには中学3年生あるいは高校生になる頃、法継(ほうつぎ)という後継ぎの修行をします。1週間、神社に籠って朝昼の滝行、昼間は講師の先生から作法などを教わります。食べる物は、おかゆと豆腐、納豆、野菜なら良い。初日に自分たちで炭を起こして火を焚き、それで煮炊きをするから1週間、火を消してはいけない。1週間、修行をすると、神官として認められ、神社の神主の台帳に名前が載って初めて資格を得たことになります。いま、御師の家が山の上に26軒、滝本に5軒あり、全部で31軒。うちのように息子が継いでいる家があります。昔は日の出町やJ R御岳駅付近にもいましたが、少なくなりました。

太鼓を叩いて参加者に音を聞かせる片栁さん

生活営むための役員、すべて合議制

この山上では何をやるにも合議制です。宮司を決めるのも選挙です。今年は3月に宮司が代わりました。任期は3年です。だいたい2〜3期、6〜9年で代わります。神社の実務、普段の神社の仕事をする10人も選挙で選びます。その他に総代5人も、観光協会の会長も、自治会長も選挙です。

この風土ができたのが江戸時代に神主さん、御師、社僧の3者で運営していた山ですから。まずお寺がなくなり、だんだん神主より御師の立場が強くなりました。なぜかというと、講中(信者の集まり)が各地でたくさん出来ました。信者さんから財が入ってきます。神主さんは講中を持っていないからお祭りや賽銭などからしか収入を得られません。御師は、独自に京都の吉田や白河へ行って自分で神主の資格を取るようになって、いまのように神道化が進んだわけです。

明治以降、神主家が山に1軒しかなくなりました。神主家は、寺社奉行の任命ですから。神主の金井さんという方は、江戸の真崎稲荷から来ておられます。

秋から新年まで祈祷に訪ねる

一方の御師は、私どもの講中で600軒。どこも少なくとも200〜300軒は持っています。多いと1000軒を超えます。いまから不安なのが、この10月からお札を持って各地を一軒一軒訪ねて歩いて、ご祈祷しなければいけないことです。これがなければお金はいただけません。これが秋から冬にかけての私たちの仕事です。春になると講中の人がいらっしゃいます。その間は広い部屋が空いてるので旅館としてお客を取るようにしたのが今の形態です。

――今年の秋も全部、回るんですか?

片栁さん まず東村山を回ったら小平へ出向きます。それから埼玉の狭山、坂戸が終わったら東松山、川越。そこまでが年内12月まで。年明けの1月に狛江、世田谷あたりが私の範囲です。うちで一番遠かったのは桐生で、行ったのは祖父の代まで。伊豆半島まで行っているお宅もあります。先ほど皆さんが行かれた神社から見えた北側の筑波山麓までの範囲を全部回ります。いまは少なくなっていますが。

雅楽を広め、祭りにも熱高く

――雅楽は、お家ごとに代々する人が決まっているんですか?

片栁さん 伶人は家ごとに代々持っている楽器で決まります。この山は琵琶とか糸物は元々やっていなくて太鼓です。これが鞨鼓(かっこ=雅楽の三鼓の一つ)で、これが小鼓。お琴は楽箏といい、こっちが俗筝(ぞくそう)、これが和琴(わごん)。

実は私、日本雅楽会理事であり雅楽協議会賛同人でもあります。雅楽界を盛り立てるお役にいます。うちは篳篥(しちりき)を代々やっています。武蔵御嶽神社では講習が3つあって、3月に神楽の講習、9月に雅楽講習、10月に祭式講習。神主さんは全て必修です。

やらないとお祭りができなくて役割配分が大変です。私は、その係なので、1年分、誰が何をやるとか、スケジュールを決めなければならないんです。お葬式でも結婚式でも、祭りでも。どれにも伶人がつきますから、まず伶人から決めます。私は20代からずっと伶人でした。

山谷に響く雅楽の音色

お祭りと葬式で楽曲が違います。お祭りで神輿が出るのは5月8日の年1回だけ。前日、御本殿から御霊堂を出して、歩いていまのビジターセンター横に移しておいて、翌日、ケーブルカーの広場から神社まで神輿をあげます。神輿台が重たくて30人いないと上がりません。でもいまは別の軽めにしたのがあり、動きやすくなりました。

1つは文化財なので、あまり出すわけにも行きませんが、6年に1回の戌年に出します。鎧や兜、金覆輪の太刀も鞘だけ出します。神輿は神社を3周します。

神社のお祭りには和琴を使います。ケーブルカーから神社まで、ずっと吹きっぱなしです。笙(しょう)という楽器は、吸っても吐いても、ずっと音を出していないといけませんので、吸っている部分が湿って音が出なくなるほどです。炙って乾かさないと壊れてしまうのです。1本、大体100万円くらい、安くても60万円くらいと、高価なものをダメにしたくないですから和琴を取り入れました。

特に本殿の扉を開けるときは厳かです。篳篥よりも笙が一番ぴったりした音色です。難しい曲になってくると大変ですけど、雅楽は楽しいですよ。

武蔵御嶽神社には文化財関係の品があるので数年に1回、ご開帳の時に御神像を出しますが、今年、直しただけで500〜600万円かかりました。ほかに展示ケースも傷みがひどくてクラウドファンディングで何とか1200万円を捻出できました。文化財なので国や東京都からも補助が出ました。


藤本荘の大広間で1時間ほど、片栁さんは全身で大好きな御岳山を語り続けてくださった。お話の各所で御岳山には、ひと風違う風が流れていることを実感した。山上に暮らすことは、住人がそれぞれに手を携えて日々を乗り切ってコミュニティーを形成している姿や神のお膝元だからこそ、すぐそこに神がいることが日常なのだ、と。多摩地域の顔は多面的であることを改めて感じた。

【集合:8月18日(金) 午前 9時 5分 JR青梅線御嶽駅/解散:御嶽駅午後4時ごろ】