「第30回多摩めぐり 三宿から成る拝島宿と昔も今も里を潤す水辺を歩く」を
10月22日(土)に開催します

第28回多摩めぐり 多摩を深める講演会
「縄文人が拓いた奥多摩の山々の登山道」
~日本地理学会 小岩清水さん語る

奥多摩町の小河内貯水池(奥多摩湖)南斜面を登った尾根に転がるようにあった石仏。
この尾根道は風張峠-三頭山-牛ノ寝通り-大菩薩嶺へ通じる、現役の登山道だ
(山のふるさと村で)

8月7日午後、JR中央線武蔵境駅前の武蔵野プレイスで28回目の多摩めぐりを開いた。例年、夏の強い日差しを避けるために講演会を行っているが、今回の講演会は、コロナ感染拡大の影響で実現までに3年がかりだった。

日本地理学会と日本山岳会の永年会員であり、日本雪氷学会会員の小岩清水さん(元専修大学付属高校地理教員・元同校副校長)をお招きして参加者44人に語ったのは「縄文人が拓いた奥多摩の山々の登山道」についてだった。気象や地形などに詳しい小岩さんが奥多摩に入って60年ほどになり、いまも地元の人らとかかわり続けている。山道や沢も熟知している小岩さんは、知恵を使い、体を張って暮らした縄文人に優しく思いを寄せて、かつ、今日の科学文明に疑問を投げかけた。そんな思いを小岩さんに興させた縄文人は奥多摩に登山道を拓き、どのように暮らしていたのか。そして奥多摩にあるはずがないヒスイや黒曜石がなぜ存在するのかを解き明かした。その講演録を――。

穏やかな山々の奥多摩

小岩さんが訪れた奥多摩町の地域

縄文人が開いた奥多摩の山々、そして登山道。なぜこういう感情を持ったのかと言うと、北アルプスや南アルプスでは命をかけて歩く人たちがいたんだと感じる。特に剱岳(富山県)や穂高岳(岐阜・長野県)にそういう印象を抱く。ところが奥多摩を歩いて、命がかかっていると思う人はいない。命をかけるほどの山でもないから。でも、奥多摩の全体を歩いてみると、山と山麓に点在する小さな集落を、ものすごい数を目にする。

真剣に講演を聞く参加者たち
縄文人に心を寄せて熱く語る小岩さん

青梅線が通っている今ある集落でさえ、全てのところで遺跡が見つかる。その石器の中で、多摩川の石を拾って作ったような石器も見つかるが、絶対に多摩川では見つからない石が全ての集落から出てくる。

こういう不思議が奥多摩にある。長野県諏訪の霧ヶ峰や数少ないところからしか出ない黒曜石は、非常に鋭い刃を研ぎ出すことができます。調理やヤジリ、ヤリに使う石です。

展示した黒曜石などを見る参加者

奥多摩にヒスイがあるナゾ

なぜ奥多摩でそれが発見されるのかが1つの疑問でした。もう1つ、奥多摩水と緑のふるさと館に展示してあるヒスイという宝が1個だけ見つかっている。ヒスイは日本列島の本州では新潟県の糸魚川でしか出てこない。白馬岳(長野・富山県)の東側の周域を侵食している姫川が運んでくるので、どうも白馬岳の東にヒスイの原石があるらしい。探してみると、鉄橋の橋脚に巨大な岩塊が使われていることも段々わかってきた。

日本で1ヶ所でしか産出しないものが奥多摩に1個ある。そして青森県にはいくつかある。さらに岩手県陸中海岸の山田町大浦という小さな村から15年前に発掘されました。見せてもらうとヒスイだった。その発見場所は、面白いことに私の郷里山田町の湾を囲んだところで、ほかに3個、全部で4個見つかった。

縄文人の猛烈な行動力

日本で1ヶ所、糸魚川にしかないものが、なぜ岩手県山田町から出てくるのか考えると、結果的には縄文人の猛烈な行動力、縄文人は文化果つるような暮らしをしていたが、いろんなものを作り出して今の文化を作った。

糸魚川から奥多摩、そして加曽利貝塚(千葉市)、大森貝塚(品川区)あたりまで悠々と歩いて、しかも山田町までは1200㎞以上。ヒスイの石を担いで、なぜ行ったのか。

ヒスイは全国から求められている王の印、支配者の権威の印でもあったと考えるしかない。山田町では2.5m掘ったところから見つかった。縄文ポシェットという柳の枝で作った袋を赤い漆で塗っているものも出てきた。そこを旅して歩き抜いて行く。糸魚川から三内丸山(青森市)まで大変な努力です。なぜ可能だったのか。

海流に乗った? 川を北上した?

単純に考えると海を使ったんだろう。ただそれだけでは説明ができない。黒潮の分流が九州北部を回って日本海を北上し、そこに対馬海流の暖流が存在している。速度は4〜5ノットあれば良い。

一方、太平洋側は逆風の北西風が吹き付けて陸側から沖に吹き危険。堀江謙一青年が太平洋を横断した時に、この付近の黒潮を乗り越えられなくて頑張った例があります。

艇長10mのカヌーを使ったか

青森山内丸山大村までカヌーで800㎞、そして三内丸山から山田町までが約400〜500㎞。歩き方はわかりません。海を使ったのではなさそうです。海を使った場合、青森県八戸よりも南は潮で流されて陸に辿り着けない。おそらく山谷の道を歩いて太平洋に出たのでしょう。日本海では縄文時代と同じタイプのカヌーが5年前まで佐渡にあり、後ろにヤマハの船外機をつけて水産業をやっていた。そういうカヌーを縄文期に作っていた。

大きな杉の木を切り倒し、直径1m、長さ10mの木を3本切り、1本を船底にして人が乗る。側面に2本を束にして組み込んで船体にすると、かなり広く大きなカヌーができる。競技用のカヌーとは違い、非常に頑丈で岩にぶつかっても壊れない、割れない、砕けない、大型のカヌーです。

このカヌーで北上して2ノットだと、人間が重いものを持って歩くより速く三内丸山(青森県)まで行ったんだろう。ここから秋田の大湯の環状列石を目指して、そこから岩手山、姫神山、北上山地の高地が出てくる。これらは縄文人のナビゲーションシステムに組み込まれている。これらの山の姿を確実に意識して生きていた縄文時代の貿易商の姿が見えてきます。ヒスイの価値が極めて高い時代でした。

奥多摩が安全だから運んだ

奥多摩からのほか、姫川から松本へ行く。今有名な塩の道は元々の貿易ルートだった。糸魚川のヒスイを背負って商売にきた。小さいもので価値があるものとしてヒスイが選ばれて、それを持ってきた縄文人がいる。

奥多摩町で発見されたヒスイ(硬玉製垂玉)=奥多摩水と緑のふるさと館で

奥多摩では昭和41年(1966)9月、青梅線古里駅のそばで小学生の吉村一夫少年がヒスイを拾い、奥多摩町の教育委員会へ届けた。教育委員会は昭和52年(1977)11月3日に町指定文化財とした。何年もかけて自分のところの記念物として奥多摩水と緑のふるさと館の代表的な展示物にしている。

小岩さんが考察した縄文の交易人の姿(図は、いずれも小岩さん制作)

奥多摩から糸魚川まで直線で300㎞、歩くと450㎞。関東平野の、姫川からの行商の活動場所と言って良い。なぜ奥多摩に来たのか、最大の疑問だった。安全だったからです。当時の貴金属を持った人たちが歩いてくる。おそらくこういう格好(小岩さん制作の図)であった。無いものは無いというくらい自分の部族印を入れて、自分が生きて帰らない覚悟で出かけて行く。身に着けたマークを誰かが見つけて、亡くなっていた人が誰であるか分かるように。

姫川では仲間内で通してもらえたが、諏訪に来ると、戦の神様の諏訪神社があり、平場で湖があって、農業を始めている頃で、勢力争いが起きていた。もし、価値ある立派な物を持っている商人がいたら逃がさない。もっと荒々しく土地争いした甲州・甲斐の国、部族同士の戦い、土地争い、その最大の武田一族が甲斐国を統一。戦国時代よりもっともっと古く領土争いが日本中で起きていたと思って間違いない。

危険地帯も越えて背負った

金目のもの、高価なものを背負って越えて行く人は、どうしたんだろう。縄文人たちは野馬を食べていた。崖に向かって、野に火を放ち、獲物を崖から落としていたことが八ヶ岳山麓の谷での狩りが野火を利用したことまでわかっている。一方では絶壁があちこちにあるようなところを人間は利用しませんから、信州峠や秩父にかけて2ヶ所、そういうところがあるが。ここをうまく通過すると甲斐に来る。荒々しい武士団や侍たちと会わなくて済む。温泉のお湯が沸いているところ、それから金山をうまく使って、目印になりやすい山を探す。ゴツゴツして極めて危険に見える瑞牆山(みずがきやま。山梨県)を目指し、そこから東へ向かい、その次が五丈石を見て金峰山(山梨・長野県)に向かって歩く。そこから先は、それぞれの高い尾根を歩く。甲武信ヶ岳(山梨・埼玉・長野県)、森林域では南アルプスの甲斐駒ヶ岳や北岳を眺めて位置を確認しながら。このころはまだ富士山から噴煙が上がっていたでしょう。

山上の斜面を切り拓く

穏やかな奥多摩や奥秩父の山は、ほぼ80㎞区間において大森林にすっぽり覆われて誰もこないところを縄文時代の貿易人が利用した。安全だろうと下りてきたのが奥多摩の、今の氷川の谷。縄文人は、谷の底では暮らせない。日照が少なく、焼畑農業?もできない。焼畑以前は、ドングリ、ナラ、トチ、クリと、それを求める鹿、猪、狼もいた。山水は、それぞれ露頭点で賄っていた。

今、奥多摩で高地として利用されている斜面を考えると、峰谷、日原、氷川の付近でいえば将門伝説のある城(700m)、三ノ木戸(さぬきど。750m)、衣笠(きんかさ。600m)、その辺りからアワやヒエといった作物を作る農地が始まった。

強靭な肉体と足に優しい地下足袋

山の稜線に近い方で集落を作っていった。こういうものとの結びつきが強いのが結果的には山を下りきったところの氷川に住んでいる人たち。あるいは多摩川を下っていった古里(こり)のあたりの僅かな斜面に住んでいる人たち。そこにヒスイが出てくると考えることにしました。

2000mを超える山々を縄文人たちがあの姿で越えてくるということは、非常に厳しい条件の中で、どんな風に越えたのだろうか。耐えられる覚悟を持っているし、生き延びることができる。一番結論が出なかった奥多摩は、斜面の上に行けば行くほど、尾根に達するほど穏やかだということです。人間の居住域が日照を求める標高600~700mであることも特色です。

そして道を壊さない。この山々の尾根をたくさん利用して登山を重ねた人たちが足を取られたとか、滑り落ちた事故がない。あったとすれば無理やり沢登りをして死んだ人はたくさんいる。山の斜面に対して人間が優しく歩けるということは、肉体的に強靭であり、そして、くるぶしを使う歩き方の重要性を知っていたということ。土を削ったり、えぐったりしない、しばらく人が通らないと草が再生して歩きやすい斜面に戻る。斜面に対して道が斜めだが、削って歩かない。地下足袋だとそれができる。登山靴だと削ってしまうが、地下足袋なら登りや下りを歩いても踏み跡が消えない。

ヒトツバカエデが守る道

ヒトツバカエデが草のない土の上に落ちると、そのまま張り付いて1本の道に見えるところに出会った。これはやっぱりくるぶしを使って歩くから。奥多摩から八ヶ岳までの山麓にずっとこのように道が続いていたのではないか。山の尾根で行き倒れることはあっても怪我をして倒れる人は、縄文人では絶無だったと考えた。100㎞くらいそういう森が続いていた。

彼らの交易ルートは自然によって守られたし、彼らがそれを壊すことなく、つい最近まで4000年続いてきている。今でも縄文の道が見られる。それが奥多摩です。この足跡は、ヒスイと黒曜石の発見によって得られたものとみて、まず間違いない。

文化の在り様を考える

我々、東京に住んでいる者は、その背景となっている奥多摩を優しく見ていかないといけない。東京で住んでいると、開発というのは全て破壊。高層ビルが巨大地震で崩れたら、その破壊をどうやって始末できますか。

奥多摩では人間がそっと踏んだ後は、森や雨や太陽や熱が次々に復活して毎年毎年、同じところを通れるし、保っていた。こういう文化的な違いを感じる。それを失っている現在の私たちが便利だ! 調布からここまでくるのに駅まで行ってバスに乗れば、ヒスイだろうが、黒曜石だろうが、蛇紋岩だろうが、重たい物を持っていたって運んでくれる。そういうことではなさそうですね。本当の文化の在り方は。

厄災持ち込ませない面

そういうものがジワジワジワと必要なくなってくると考えた時に、山旅をしていてお面に遭いました。白い髪した赤面の鬼です。私が訪ねた家は、今あるかわかりません。築400年少し前の家です。氷川の町の一番奥に住んでいた人の家です。真っ黒に煤けた壁の中にハッと気がついた。奥へ入っていくと、ある瞬間に目が合って、睨みつけてくる。厄災を持ち込むなという家訓の見張りの役割をしている面です。

昔の人は見ていたのではないか、人間には発展していくと、破壊に向かうと。それにハッと気づく重さがあります。いまはその意味を理解させない。それが文明と信じていないでしょうか?

トチを食糧に生きた村落

武田領から避難をしてきて、その土地に大きな家を建てて住んでいる。この人たちには仲間がいた、栃寄という。栃寄と三ノ木戸は目線で見ると、同じ高さの700mに位置している。多摩川を挟んで4〜5㎞先に落ち武者たちの5軒くらいの村がある。幼い4歳ほどの姫を守って武田復活を願ったということでしたが、その姫が亡くなり、目的を失ってここに土着した。それがこの集落の在り方です。

最初は皆が寄っていれば、敵が来ても戦いやすいと。ところが火事で全てを失い、その後、家をそれぞれ離して建てるようになった。栃寄は栃に寄ったところの場所で、食としての栃の木がたくさんあった。

【三ノ木戸のいま】南東の連なる奥多摩の名峰が一望できた

狼の頭骨煎じて病を直す

最近まで狼の頭骨が奥多摩にかなり残っていた。目玉がついて、顎がついて、顔と頬の筋肉もついている。非常に古い時代の医療に対する憧れがあった。具合が悪いと、この頭骨を借りにくる。お犬様の魔力で治すために。しばらくしておかげさまで良くなりましたと頭骨を返してくると、どこかが足りなくなっている。煎じて薬として飲むから。縄文時代を残しているような文化があった。

一番困らせてくれる狼だが、頼れるものがないときに便利だったのも狼。それを大事にした。便利さを生むということは、通れないところを通りやすくする。そこに人間の努力を傾けなくても暮らせるようにする。そして壊していってしまう。これをどう考えていくか。将来の我々は大自然から問われている、というような気持ちになる。

そんなことを奥多摩の山々が教えてくれた。北アルプスにも随分登ったが、全然感じなかった。危険なところを歩く緊張感の違いかな。道具ではなく、技に頼ると、本当の危ないものが見えなくなる。我々の特性としてあるのかなと感じたりしています。

中味が厚くて面白い関東の街道

関東平野は、あらゆる道によって縦横無尽に通れます。この中で便利でないのは最後に作られた大神御道。ぐるっと廻る周回山道で、狼がいなくなっても狼山道と言われ、それを実証的につなぐことができなくて。その他は立派な道としてはっきり残っている。

その後に西と東、北と南、それ以外に道ができたのは極めて最近になってから。甲州街道は最近(江戸時代)使われる道。細い道、甲州街道、これを通れないから裏街道、その最たるものが御前山に入って牛ノ寝通りを通って大菩薩嶺を抜けていく、とても歩きやすい道だと言われるのは江戸時代の話。

今も街道など自分が歩く道だと、なんの意識もない。意識があっても畠山重忠が秩父の豪族として鎌倉幕府を支えていた頃は、この辺は中央へ通っていく道で開かれていた。その道の途中で畠山重忠は幕府の力によって駆逐された。横浜付近で殺され、倒されている。そういう歴史も絡まって、この関東地域はとっても中味が厚く面白い。

1坪のわさび小屋で生計を立てる

残念ながら、今はもう見られなくなった日原のわさび小屋です。1坪程度の狭いところです。こういう環境の中でわさびが作られている。これらの道具を背負って山道を往復した。わさび田は持ち主を失って壊れていくとどうなるか。元の石の河原に戻るだけで荒れたりしない。江戸時代に止めてしまったわさび田を明治、大正を越えて、昭和に手をかけて、この程度の道具で一生を生きて、家族を養った。道具類も自ら作り出した。

これを考えたのは、戦争から帰ってきて、平和な日本を見た時に、この方はここで家族を育てる努力をされて一生を過ごして亡くなった。この方たちが伝えていたヒトツバカエデの道というような貴重なものも消えていった。この程度の道具です。ずっと長いことやって、江戸時代を経て、明治、大正、昭和に命を繋いだ人たちもいたということを言いたいのです。最小限の生活の中で家族全員の生涯を支える経済を、父の残したワサビ畑で支えた男の仕事場として私は、いまは深く考えさせられています。

死と向き合って生きた日々

岫沢(くきさわ)や日指(ひさし)の人たちが住んでいた奥多摩は、小河内ダムの上流にある2つの集落をそのまま残して公園(山のふるさと村)にしている。小河内ダムの上流側にあり、遠いからいまは、あまり人が訪れなくなっている。家や水車も全部そっくりそのまま正確に残してある。それぞれの家に名前と、どんな仕事をして暮らしていたかが見えるようになっている。飢饉で死ぬことが無いような村を目指した跡がたくさんある。これだけの人数で畑を耕して暮らして、つい最近まで生活ができていたんです。たくさんの立木があり、栃の木からトチの実が落ちてくる。ナラのドングリ(シダミ)、クリの実もそうです。それが生きる糧だった。餓死するということを頭に描いていた時代の村の姿です。

山間の農村集落だった岫沢=山のふるさと村ビジターセンターの展示品から
【岫沢・日指のいま】斜面に石を積んで家の基礎を築いた敷地はキャンプ場だった

こういうものを奥多摩町は、もっとアピールしていいと思うが、理論付けが段々なくなってきてしまって、何のために作られたのか。東京都の近代化に対して、こういう生き方があったと強烈なアピールが、今できなくなっているのではないか。むしろ、これは都会に住む人たちが逆に、奥多摩町の人たちに伝えていただければ、とてもありがたい。山のふるさと村では、家屋のいろんな作り方が全部見られます。そして、その作り方は個々に移り住んだ時の、その人の原点だった生活文化が投影されています。

【岫沢・日指のいま】国重要無形民俗文化財の「小河内の鹿島踊」発祥だった加茂神社は
静まり返っていた

ヨーデル歌って沢向かいに伝える

峰谷という谷があり、非常に不便なところで、車で行っても大丈夫かなと思います。最後の奥集落に河村さんの家がある。この家一面を使って蚕をやっていた。どこからでも出入りできる家の造りです。畑を耕し、木の実を育てて食糧を作る。余力で蚕を育て絹地のもとを作る。時期によっては山林活動や伐採をしていた。

【奥のいま】鷹ノ巣山(1736.6m)の中腹まで九十九折りの道の果てにある集落

昔、峰谷にはヨーデルらしき歌があったらしくてびっくりした。大きな声で叫ぶと、沢一つ離れた側からちゃんと意味を理解できる歌になっている。それを聞きとめた人が求めに応じて、応援に来たり、緊急事態が起きていることを知ったりする。もう誰も歌えなくなっていて、記録がとれなくて非常に残念。日本にもヨーデルがあったんだと頭に入れてもらいたい。

家なく木々に埋もれる神社と道祖神

越沢(こいさわ)の昔の人は、自分の村の道祖神に旅の無事を祈って出て行き、そして帰ってきたら報告をした。今でも森の中に道も家も集落も、何もないところに墓石が立っている。鳩ノ巣駅から1時間半くらい歩くと、越沢に辿り着く。

【越沢のいま】石囲いの平地に1斗缶やビン類が転がっていた

村の奥まった高いところには、太陽光線が入る森が残されている。神様の領域だからです。神様がいて、単純にいうと日枝神社という位の高い神社があった時代に人々が入り込んで、日枝神社を信仰していた。この神域を作って残した人たちは、江戸時代の天明や天保の頃に、太い木を切り倒して江戸へ送るために、強制的に入植させられたらしい。巨木の森があったという、私たちへの伝えだが、神様はいらなくなり、これだけを残して木を切り倒してしまった。この自然を激変させた人の心が日枝神社に示されていて、その後に杉の森を育てた。

【越沢のいま】住民たちの心の拠りどころだった道祖神が倒れたままだった

道祖神、道の神様は、杉林の中が真っ暗で踏み込む人がない中に残っている。ここで対比をすると、森を切り倒した人たちの心構えが見えるようで、利益神のお稲荷さんが小さく飾られている。切り倒した後は杉林にして、この越沢が多摩川に流入する地点から江戸の一般住民の大火事の度に大利益を手にした。

暮らし変えたいかだ流し

この真下に別の集落があって、そこから多摩川の筏流しが始まった。杉を30年に1回切って確実に収益を得る。こういう暮らしに酔ったような気がする。利益の神様お稲荷さんを大事にするようになって、日枝神社は本当の村の、初めの自然を今に伝えるもの。残した神域で新しい人たちは、手を出さなかった。この環境が現在でも見られる。森で真っ暗になってしまったところと、荒廃して残っている村の跡。記念碑も年号が入っていてわかる。江戸時代の栄える時代になると、そういうことが出てくる。奥多摩で非常に貴重なもので、本当は江戸時代の大繁栄した大都市に翻弄された山村の文化として位置付けなければいけないが、いま、誰も見ず、気づかず、時の流れに放置されている。

【倉沢のいま】東(左)の倉沢谷が本流の日原川に合流する地にあった集落の屋敷跡には
生活用品が転がり、草が生い茂っていた

石灰産出の労働者で賑わった宿

奥多摩で石灰石の需要が高まると、日原に近いところまでレールが敷かれてトロッコが走るようになった。工事に集まった人たちで集落が作られた倉沢という村がそれです。ここの坂和連(さかわむらじ)さんの宿屋で工事関係者が泊まり込んだ。ほとんどお金もとらないで泊めてくれた。近くの沢でマスが獲れた。鮭くらいの立派なものを釣り上げてみんなに振る舞った。なぜ、わかったかというと、大きなまな板があり、何に使うのか、尋ねたところ、大きなマスが獲れたと。

7軒が結束した上ッ坂集落

海沢の上ッ坂(あがっさか)には、古びているが、きちっと整備された状態で民家を見ることができる。江戸時代の森林の集落として生産に明け暮れた越沢の尾根を越えた反対側で、尾根を挟んだ西側の斜面を海沢上ッ坂という。この集落は7つの家以上は増やさないと守ってきて、それぞれが耕作地を分けて争わないように全ての蔵にの紋をつけている。清水不二郎さんの家は、惚れ惚れするくらい立派。人間が代々長く住んでいくには、こういう家が必要なんだなと思う。

【上ヶ坂のいま】清水不二郎さん宅は無住だったが、すぐにでも住めるようだ

急な斜面に建っているから、屋号を水屋敷という。雨が降ると、斜面に水があふれるが、上にある石垣でうまくコントロールして、床下から水が噴き出して川のようになる。石垣で滝が発生するが、1回も家が被害を受けたことはない。

藁葺き屋根だが、日原の少し手前の山の峰畑集落の人たちが定期的に点検して修理してくれる。最低限の修理代で済むように少しずつ修理していく。経済に変化が出ないような村対村の取り引きもしている。お金をかけずに保っていける仕組みが、奥多摩全体の村で行われていた時代をここから学ぶことができる。この家が失われたらダメかもしれない。地域全体を静かで温かく、やさしい経済ネットがいま、歴史から静かに消えていく……思いやりが消えていく……。

参加者の声

・山登りを趣味としていますが、歳と共に山麓の集落の在り方や、その文化にも興味が移ってきました。そうした中で、今後訪ねる視点、また具体的な場所を得ることが出来ました。

・関東山地周辺山域概略図は、なかなか面白かったです。二度と甦らない貴重な奥多摩山村「岫沢・日指」の調査スケッチ再現図を見て、地元(拝島)にも奥多摩から移り住んでいるご家族も何件かあります。「奥多摩最奥の地・天に突き出すテラスは『奥』」の集落の話の中で‟ヨーデル“があったというのは興味深く感じました。

・素晴らしい講演でした。強烈でした。生きている時間を前だけを見ない、生きてきた過去を振り返り、失ったものを悲しみ、古い文化を大切にしていた奥多摩の先人たちの叡智に触れる努力をすることである。

・非常に興味深いお話を聞けて楽しかったです。奥多摩の山間の暮らし、そして、登山道を作ってくれたこと等々、面白いテーマですね。こういう民俗学と言おうか、昔の豊饒な知恵と生活があったということは誇るべき我々のご先祖様だと思います。

・さすがに多摩を知り尽くされた先生のお話を伺えて本当に面白く感じました。縄文時代のことを想像されて、考えられたのでしょうが、その時代にいて見てこられたように思えました。縄文人が便利さを選ばなかったように話されましたが、人が便利さを選ぶようになったのは、何がきっかけだったのだろうかと考えさせられます。便利さを追い続けている我らの生き方を考えさせられています。

2022年8月7日(日)14時~16時 武蔵野プレイス 4階フォーラムにて