「第49回多摩めぐり 晩秋の奈良ばい谷戸を散策し、小野路宿の歴史を辿る」を11月24日(日)に開催します

第17回多摩めぐり~多摩を深める 新田義貞の蜂起で
鎌倉幕府が滅亡へと向かう武蔵野の古戦場を辿る

両軍、声を張り上げ、槍や刀で攻防したであろう小手指ヶ原は、秋の長雨に煙っていた

ガイド:菊池 等さん

 391年間続いた平安時代にピリオドを打ち、日本最初の武家政権を樹立した源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来、北条守時まで16代にわたる執権政治を行ったが、150年後の元弘3年(1333)5月22日、倒幕の旗頭だった新田義貞軍に打ち破られて鎌倉幕府は滅亡した。倒幕戦が本格化して15日後のことだった。11月23日、17回目の多摩めぐりで参加者23人が求めたのは「鎌倉幕府が滅亡へと向かう武蔵野の古戦場を辿る」だ。新田軍の侵攻ルートであり、幕府軍との緒戦ともいえる埼玉県所沢市の小手指ヶ原古戦場から鎌倉街道域を南下して久米川古戦場跡(東村山市)まで歩いた。険しい丘陵がない分、見通しが効いた肉弾戦だったのか。沼や川の効用も脳裏に浮かんだ。

主なコース
西武池袋線小手指駅 誓詞橋(せいしがはし) 白旗塚 小手指ヶ原古戦場跡 北野天神社 ―[ バス] → 小手指駅 ―[ 西武池袋線] → 所沢駅 東山道武蔵路発掘地 長久寺 勢揃橋 久米川古戦場跡 徳蔵寺 西武新宿線・国分寺線東村山駅

朝廷・幕府・領主の三つ巴

 鎌倉幕府が滅亡する要因は何だったのだろうか。
 鎌倉時代の政治機構や社会体制は、平安後期の院政をほぼそのまま登用した。天皇を形式的に置き、武家の棟梁が国家機構に組織され、武士が国家全体の軍事・警察権を担っていた。権力が多元的に分裂した時代であり、武士の地位が向上した鎌倉時代だが、国の支配は朝廷(院政)が担い、幕府は朝廷によって存在が保障されていた。
 だが、朝廷は貨幣経済の発達に対応しきれず、所領を失って困窮する御家人が増え、荘園領主と在地領主の二重支配を生み、幕府体制を揺るがした。幕府の救済策は功を見ず、血縁的結合が薄れ、地縁的結合を基盤とする守護の強大化は、幕府への反抗に向かわせた。
 一方で幕府は、「治天の君」といわれた天皇の選定権まで奪うほどに朝廷政治に干渉し始めた。鎌倉時代末期の元享元年(1321)、後醍醐天皇は、政治の実権を取り戻すための障害は幕府にあるとして正中の乱(正中元年=1324)と元弘の乱(元弘元年=1331)を起こして倒幕を試みたが、2度とも失敗して自身、隠岐(島根県)へ流罪となった。後に脱出。

3回目の倒幕戦に呼応する武将たち

 後醍醐天皇の意気は衰えず、3度目の倒幕を計画した。呼応したのが幕府方から寝返った新田義貞と足利尊氏だった。新田義貞は源氏の一族で、上州新田郡(群馬県太田市)の大豪族。日ごろから幕府に不満を募らせていた。一方の足利尊氏は、父・貞氏の死で喪中ながら北条守時の出兵命令を断れず、胸中穏やかではなかった。さらに武将の楠木正成も諸国の反幕勢力に挙兵を促した。こうした温床が「いざ、鎌倉へ」といううねりを招いた。

新田義貞、自軍兵に忠誠誓わせる

 多摩めぐりの一行は、小手指駅から南西の小手指ヶ原古戦場(埼玉県所沢市小手指町)へ向かった。途中の砂川堀調整池には時ならぬ秋の長雨によるものだろう、一面を茶色い水が覆い、これから行く古戦場が小高い丘であることを予想させた。一帯は往時の沼地であり、攻防戦の要害地でもあっただろう。いま、調整池付近には農地が広がり、穏やかな武蔵野風情が漂う。連なる畑の先には埼玉県内を起終点とする唯一の国道463号線を行き交う車が列をなして走っていた。
 そこにこじんまりした橋が架かっていた。誓詞橋だ。向かいには誓詞橋の碑がある。この地で、倒幕の急先鋒だった新田義貞が軍兵に忠誠を誓わせたと伝わる。碑の高さは60㎝ほどだろうか。雨に濡れて濃い茶色を帯びていた。ここから200mほど先が幕府軍と新田軍の激戦地となった小手指ヶ原だ。

新田勢の武将や軍兵に忠誠を誓わせたという誓詞橋の碑(右)を囲む参加者

小手指ヶ原に20万騎の大軍勢

 誓詞橋交差点から小手指ヶ原古戦場へは緩やかな坂を登った。右手に古戦場を示す碑が立つ。
 新田義貞は、新田荘を発つ直前に、ある事件を招いた。挙兵準備のさなか、徴税問題に絡んで幕府の使者と激論の挙句、殺害したことで所領を没収されることになった。間髪入れず、義貞は正慶2年(1333)5月8日、新田荘の生品(いくしな)神社で、わずか150騎で挙兵した。徒歩兵の数は分からない。東山道を南下し、その日の晩に利根川で新田一族ら越後国の先発隊2千騎と合流。その後、上野国八幡荘(群馬県高崎市)に到着し、各地からの援軍5千騎と合流するなど新田軍は、20万騎(諸説ある)の大軍勢に膨れ上がっていたという。八幡荘で態勢を整えて翌9日、武蔵国に向けて出撃した。2日後の11日朝、入間川(埼玉県狭山市)を渡り、小手指ヶ原に到着した。

新田軍勢の進撃と迎え撃つ幕府方の戦いぶりを
刻む小手指ヶ原古戦場の碑

身の丈以上に大きい「小手指原古戦場」の碑を
見つめる参加者たち

30回超える打ち合いの攻防戦

 一方、幕府軍は、新田勢が入間川を渡る前に迎撃する算段だったが、出遅れたことで、小手指ヶ原で遭遇戦のような格好で緒戦を交えることになった。両軍、一進一退を繰り返す打ち合いが30回以上にも及んだ激戦となった。兵数は、幕府軍が勝っていたが、新田軍勢の進軍途中で川越高重ら武蔵の御家人が加わり、次第に新田軍が優位になっていた。
 この日の日没までの死者は、新田軍が約300人、幕府軍が約500人。両軍が疲弊し、義貞は入間川まで後退することを指揮し、幕府軍も久米川(柳瀬川=東村山市)までいったん撤退して軍勢を立て直した。

山上に陣取って鼓舞する義貞

 「多摩めぐり」のこの日、軍場跡一帯には滑らかな起伏が幾重も重なる畑が広がり、穏やかさが漂っていた。点在する雑木林も雨が演出した靄に包まれ、日本画を見るようだった。

 その一角に円墳の形をした森がある。以前は周辺にいくつもの塚があったそうだが、いまはここに一つ、白旗塚があるだけだ。高さ5mあるかなし。山上には石祠の浅間神社があることから富士山信仰のシンボルとしたものか。古代の古墳なのか。定かではない。この頂に新田義貞が陣取り、一族の源氏の白旗を掲げて陣頭指揮したと伝わる。木々の落葉の時期には眼下の原っぱが見渡せそうだ。

交戦の激しさを物語り、源氏の白旗を
掲げたと伝わる白旗塚

武将ゆかりの北野天神社

 参加者一行は、源氏にゆかりがある北野天神社に立ち寄った。北野天神社は、延長5年(927)に成立した延喜式内社だ。後に源頼義、義家が奥州追討を願って総社を建立するなど、何度も戦乱で焼け、源頼朝、足利尊氏、前田利家、大久保長安らが社殿を修造したという。後醍醐天皇の王子で「戦う皇族集団」といわれたほど各地の合戦に出向いた宗良親王を合祀している。鎌倉幕府滅亡後の文和元年(1352)2月28日、小手指ヶ原で新田義興・義宗らと共に足利尊氏軍と戦った武蔵野合戦に出撃し、この神社に陣を置いた。

北野天神社で参加者勢ぞろい

早馬も駆けた直線高速道路

 一行は、小手指駅に戻り、所沢駅へ向かった。久米川の合戦場跡へ行く途中、東山道武蔵路が出土した所沢市立南陵中学校正門前で、その発掘当時の写真を見た。都と地方を結ぶ東山道の支道であり、大化の改新(645年)以後、国の支配体制を全国に行き渡らせるための幹線道路だった。上野国から南下して武蔵国の所沢-東村山-国分寺-府中の国府を直線で結んでいた。幅12mにも及ぶ、いまでいう南北の高速専用道だ。早馬も駆けただろう。だが、宝亀2年(771)、武蔵国と都の往来には東山道は不便だということから相模国(神奈川県)を経由する東海道諸国に配置換えになった。

発掘で現れた東山道武蔵路
(所沢市立南陵中学校正門前の標示板から)

戦死兵弔った僧の創建寺院

 柳瀬川(旧久米川)が作ったであろう崖線を下ると、創建745年以上になる長久寺山門の荘厳さに目が行った。一遍上人が開祖した時宗で、遊行寺(神奈川県藤沢市)をはじめ、鎌倉街道沿いに多くある宗派の寺だ。長久寺は玖阿弥陀仏(きゅうあみだぶつ)が創建した。鎌倉幕府の倒幕戦で亡くなった3人の軍兵を弔うために狭山丘陵の八国山に板碑を建てた僧だ。その板碑は、これから訪ねる徳蔵寺板碑保存館で見られるという。

元弘の板碑を建てた僧・玖阿弥陀仏が創建したと伝わる長久寺にも立ち寄った

 長久寺山門から数百メートル南に見える狭山丘陵の東端部は、降り続く小雨に煙っていて古戦場の重々しさを感じた。柳瀬川に架かる「勢揃橋」という耳慣れない橋の名も戦いの名残だった。新田義貞が数万の兵を勢ぞろいさせた場所だという。これから臨む戦に向けて自軍の兵を檄したのだろう。川に沿って細長く凹んでいる土地柄だが、ここに数万人をそろえたか? 周囲を見回すしかなかった。

両軍とも敵戦略の裏の裏をかく

 東京都と埼玉県の都県境である狭山丘陵北縁に着いた。北側が所沢市松が丘、南側が東村山市諏訪町。鎌倉へ攻め込むまでの二つ目の合戦場である久米川古戦場跡だ。
 小手指ヶ原で決着を持ち越していた幕府軍と新田軍の攻防戦は5月12日朝、再度、久米川で始まった。新田軍は、幕府軍を急襲した。その戦法を見越していた北条氏一門の桜田貞国は、先手を読んでツルが翼を広げたような態勢の「鶴翼(かくよく)の陣」を敷いて、新田軍を誘い込み、挟み撃ちにすることを想定していた。
 ところが、義貞は、その戦略を見越していた。幕府方は、陣を拡散させたことで全体が手薄になり、新田軍に本陣を狙い撃ちされた。幕府軍総大将の長崎高重、長崎孫四郎、加治二郎左衛門らは撃破され、桜田国貞は分倍河原(府中市)まで退却を余儀なくされた。

狭山丘陵の東端に位置する八国山麓の
東京・埼玉の都県境にたどり着く

幕府軍の策略に乗った戦法で新田軍が
勝利した久米川の戦い現場

 90mほどと低い狭山丘陵の八国山周辺では両軍の兵が入り乱れただろう。義貞が采配を振るい、白旗を上げた山上を「将軍塚」と名付けられ、石碑が立つ。われら一行は、降り続く雨でぬかるんだ山道を避けて麓の久米川古戦場跡の標示がある公園で丘陵を見上げた。

新田義貞が白旗を掲げた将軍塚

 山上は「元弘の板碑」(重要文化財)があった場所でもある。長久寺の僧・玖阿弥陀仏が寄付を募り、遍阿弥陀仏が銘文を書いて蔵立したもので、いまは徳蔵寺板碑保存館に移している。他の多くの板碑とともに所狭しと展示していた。元弘の板碑は、新田義貞の配下だった飽間斎藤一族3人を弔ったものだ。
 板碑の銘文によると、飽間斎藤盛貞、26歳。同孫七家行、23歳。ともに武州府中で5月15日に死す。飽間孫三郎宗長、35歳。相州村岡(神奈川県藤沢市)で5月18日死す、と刻まれていた。幕府滅亡数日前の死だった。
 新田軍の鎌倉総攻撃の裏付け資料がなかったことから、この板碑が証しとなり、南北朝時代の軍記物語「太平記」に記されている幕府滅亡までの足跡も史実とされた。

元弘の板碑(左奥)をはじめ新田義貞にまつわる史料も展示する徳蔵寺板碑保存館

霞ノ関から一挙に鎌倉七口へ

 久米川の戦いでは、新田軍の勝利かに見えたが、以後も激しい戦いが続いた。
 分倍河原まで退いた幕府軍を追撃した新田軍は、5月15日未明、敵の攻勢に耐えられず、逆に追走されて小手指の北方、堀兼(狭山市)まで退却した。この退却の時に武蔵国分寺(国分寺市)を焼き払った。16日未明、再び新田軍は、義勝を先方にして分倍河原へ押し寄せて大勝した。
 16日夕刻、ようやく多摩川を渡り、霞ノ関(多摩市関戸)で北条泰家の一隊を散らして勝利を重ねた。ここで一夜を明かし、一日、逗留して部隊を三隊に立て直した。
 18日、一気に鎌倉へ攻め込み、50ヶ所も放火したという。義貞の本隊は化粧坂(けわいざか)切通など、他の二隊とともに“鎌倉七口”といわれる切通に攻め込んだ。義貞の隊が稲村ヶ崎を突破したのが21日未明。切通が木戸の役割をして“木戸の中の都市”をこじ開けて事実上、鎌倉は陥落した。22日、北条高時らは東勝寺で自害。同日、征夷大将軍・守邦親王は辞職し、出家した。
 150年続いた鎌倉幕府に幕が下り、奈良・吉野の後醍醐天皇と京都の光明天皇が対立する南北朝時代に入る瞬間だった。

 一日雨降りの中、コースの途中(中氷川神社、山口城跡、勝光寺、八国山・将軍塚)をカットして北野天満宮からバスで小手指駅に戻り、電車で所沢駅へ出ることに変更しました。雨による欠席者はなく、参加者皆さんの意欲の凄さに感謝しています。
 武蔵野の地に約700年前、鎌倉幕府打倒の戦いがあった小手指ヶ原古戦場跡や白旗塚の上に新田義貞が源氏の白旗を立てたといわれている塚を訪ねました。高さ数メートルとはいえ、雨で滑りやすい階段坂を殆どの方が登って体験されたのです。参加者皆さんの知識欲を肌で感じました。
 久米川古戦場跡では八国山に登って将軍塚と、板碑があった場所までの山道の坂道は、ぬかるんで滑りやすかったため、ご案内出来なくて残念でした。
 徳蔵寺の板碑保存館では戦死した新田義貞軍の兵士飽間斎藤一族3人を供養した板碑を見た皆さんが驚かれ、当時の戦いに思いを馳せられたようでした。
 今回は新田義貞軍の侵攻ルートを歩いたので、テーマを新田義貞に絞ってご案内したのが良かったと思います。一日中の雨にも関わらず脱落者もなく、参加者の皆さんが熱心に説明を聞いて下さったことに感謝しています。

ガイド:菊池さん

【集合:西武池袋線小手指駅 午前9時30分/解散:西武新宿線線・西武国分寺線東村山駅 午後2時30分】