7月20日、府中で橋場万里子さんが講演
古くから清らかな水が流れる川を「玉川」と呼び、宮城県、滋賀県、京都府、大阪府、和歌山県にある玉川と並んで東京都の多摩川(玉川)も全国に知られ、合わせて「六玉川」と歌い上げられて万葉集に詠まれた。180年前(天保10年)の5月、関戸村(現多摩市関戸)の名主・相沢伴主が小河内郷の原村(現奥多摩町)で湯治中に多摩川の源流はどこだろうと疑問を持ったことで生まれたのが絵巻物「調布玉川惣画図」だ。多摩川の源流を設定し、河口までの村々の住人に聞き歩いて6年がかりで刊行した。
目次
華道、和歌、蹴鞠、庭造りにも
相沢伴主は、関戸村の名主であり、絵師でもある文化人の父・五流から家督を継いだのが27歳の時。すでに生け花の袁中郎流(現在の「宏道流」)に長けており、農村に合った華道の允中流(いんちゅうりゅう)を興すほどの才があった。当時の生け花の指導は、弟子の家を回って行っていたことから日野や町田など多摩一円に出向いていた。
杖つき、風景を写生して30里
「調布玉川惣画図」の序文「初めにいふ」という書き出しで制作に思い至った経緯を書いている。72歳の時だ。小河内温泉に逗留した時、多摩川の始まりを調べてみたいと思い立ち、源流から河口まで約30里(117.8㎞)を杖をつきながら上流から河口の羽田浦まで歩いたという。5年を経たころに再び水源に行き、その源を探り、川に沿って下った。歩きながら、補填する形で流域の風景を写生し、それを絵図にまとめたと綴る。
これらのスケッチを允中流の弟子で榎田新田(現国分寺市)名主の榎戸源蔵に見せたところ、出版して多くの人に見てもらうことを勧められた。榎戸源蔵は「伴主無尽」を主宰して允中流の門弟に呼び掛けて出版費用を集めた。浄書したのは絵師・長谷川雪堤だ。刊行まで6年かかり、伴主は78歳になっていた。
惣画図は、縦30㎝、長さ13.5mの大作。左岸から見た景観を鳥瞰図でまとめている。序文を仮名文で、名所や社寺の説明を漢字と片仮名文で書いていることから、伴主は知識人を意識して構成したのだろう。水源とした地点を「小菅村ノ地武蔵ノ方ハ多摩郡川堅村ノ地ナリ」として小菅村(山梨県)あたりに「玉川水源」と書き入れた。現在、多摩川の水源は、山梨県の笠取山(1935m)山頂直下の水干(みずひ)としているが、当時は諸説あったようだ。
由緒を考証して採用を可否
伴主は、惣画図に描く村や寺社、名所をどのような基準で選んだのか。惣画図の序文に続く文で伴主は、こう書いている。「川傍ニ近ク家居アルハ村名ヲシルシ」「無シハシルサズ」。流域の村であっても川岸に民家がないところは描かなかった、という。寺社については古く正しい由緒があると思うものを描き、名所旧跡についても「正シキハ記シ、有論ナルハ記サズ」とし、一つずつ考証し、由緒が正しければ採用した。
躍動感あふれる集落に迫る山と雲
惣画図に描かれた多摩川の源流小菅村は、集落に迫る山を覆うように描かれた沸き立つ雲と切り立つ山の情景に躍動感がある。江戸から奥深い甲斐と武蔵の国境であることを強調したのか。小河内温泉に二階建ての建物がある。旅人が温泉宿の方に向かって歩いている。江戸近郊の観光地であり、伴主が惣画図を制作しようと思い立ったところでもあり、思い入れもひとしおだろう。克明に描いた。氷川(奥多摩町)を下り、御岳山上にある御嶽神社の一の鳥居が目につく。長谷川雪堤が描いた「三十六歌仙絵額」を伴主と羽村の眼医者・坂本千春によって御嶽神社に奉納して間もないころで伴主の気持ちも熱かったのだろう。
風俗を取り込んで時代を切り取る
青梅街道の宿場として栄えた青梅宿では街道両側に家が立ち並び、土蔵がある二階建ての家も描き込んだ。天秤棒を担いだ商人も行き交う。
中流域に差し掛かる羽村あたりでは川幅が広がり、描かれた雲の線が優しい。玉川上水の管理のために置かれた陣屋では二本差しの水役人と役人が乗る籠も描き込んでいる。惣画図の刊行を勧めた榎戸源蔵は、上水の管理役を担っており、坂本千春が住んでいる地元であるから伴主の筆も走ったことだろう。伴主の門人の先祖が北条氏に仕えたゆかりがある滝山城跡も克明に描いた。対岸付近は拝島宿だ。青梅や八王子とともに市が立ち、周辺地域の中心地だっただけに町並みがきれいだ。伴主は、華道に精通し樹種にも詳しいことから木々を描き分けているように見える。
平地がなく、山が目につく高幡山金剛寺は、伴主には欠かせない個所だ。幕府が関東地域に組合村を編成する際に、関戸村は日野宿組合に属していたことから寄り合いで柴崎村の鈴木平九郎らとともに金剛寺によく集まっていた。
郷土意識の高さと誇り表す
上流からこまめに書かれた詞書だが、伴主が暮らす関戸あたりをどのように描いたのだろうか。関戸村は惣画図の中心域だ。人通りが多い宿場模様が描かれ、村から続く道は渡船場につながる。渡船場は、日野の渡船場よりも広く、舟もやや大きめ。村内には河岸場も見える。
惣画図に着手する前に相沢家では、関戸地域の歴史をまとめた書物「関戸旧記」を編纂している。関戸村は鎌倉幕府滅亡に至る歴史の舞台であったことを伴主は承知しており、関戸合戦で討ち死にした横溝八郎の墓も惣画図に描き込んでいる。名所のシンボルとして富士山を関戸村の背後に大きく描き込んでいるのも伴主の意識の表れだ。
生業も描いて地域特性打ち出す
橋場さんは「景観的情景だけでなく、水車や木材の積み下ろし、筏を流し、投網によるアユ漁や屋形船など地域の生業も著している。下流に進むにしたがって山並みや雲の形などが変化するあたりは、伴主が歩いて感じたから描いたものと思われる」と語る。だが、「下流に下るにしたがって渡し場だけが記されて、詞書が斑になることから伴主は、舟に乗って下ったのではないか」と橋場さんは推測している。
誰が流路に彩色したかナゾ
橋場さんが調べたところ、「惣画図」は10巻以上あり、装丁や紙質などに違いがある。改訂版が作られ、何度も刷られていたことが近年の調査で分かったという。その後も復刻されるなど、所蔵先もまちまちだが、多摩市教育委員会所蔵のものだけが多摩川の流路に青色で彩色してある。ただ、彩色したのは伴主か、雪堤か、誰なのか分からないという。
「惣画図」が刊行される9年前に江戸市中を中心にした「江戸名所図会」に著されているのは、西方では日野あたりまで。この「名所図会」に対して、伴主が住む関戸から上流の小河内も名所であることを強く訴えたかったのだろうか。いずれにしろ、伴主の地元愛と周辺地域への愛着が滲み、180年前の多摩川沿いの姿を知る貴重な史料だ。伴主の偉業を讃えたい。
企画:永江さん
【会場:ルミエール府中、開演:午後2時 解散:午後4時30分】