「第44回多摩めぐり 南町田にできた新しい街グランベリーパークを訪ね多摩最南端の地に足跡を残す」を5月18日(土)に開催します

第11回多摩めぐり~多摩を深める
緑陰の玉川上水緑道を歩く 上水分水と武蔵野の新田開発

色とりどりの緑が織りなす玉川上水の緑道を歩く参加者

ガイド:須永俊夫さん

 5月12日、木々の緑が深まりつつある玉川上水の清願院橋(立川市)-喜平橋(小平市)区間を歩いた。多摩めぐりの玉川上水シリーズの3回目で、初回の昨年暮れに羽村取水堰-巴河岸跡(立川市)間と、今春の桜橋(武蔵野市)-喜平橋間の間をつなぐ格好の区間だ。メインテーマは、この区間の分水と新田開発。24人が参加した。今回の区間は、下水を高度処理した「清流」復活域がほとんどだが、分水の新堀用水には多摩川の原水が流されているのをはじめ、歴史的には広範囲に新田開発された中心地で、それまでの荒涼とした武蔵野台地が大きく様変わりしたエリアだ。流域のいまは、住宅地に囲まれるようにして畑が点在する程度だが、上水の素掘りや橋、寺院などに往時を読み取った。
 

主なコース
玉川上水駅 小平監視所 一之宮神社 野火止用水 東大和市駅・青梅橋跡 東京都薬用植物園 胎内堀・新堀用水 小川橋・小川分水 妙法禅寺 水車橋 小平ふれあい下水道館 上鈴木稲荷神社・砂川用水 上鈴木不動尊 小川水衛所跡 名勝境界石 小平市平櫛田中彫刻美術館 上水南町稲荷神社 喜平橋 (バス) 国分寺駅

ガイド:須永さん

 
 多摩・武蔵野地域に大変革をもたらした玉川上水の流路を探り、見て、歩くことは大きなテーマであることを認識していた。羽村堰から始まった第1回と第2回の小金井サクラの中間水路を巡って、玉川上水めぐりを続けることにしたが、今冬の下見時には「緑陰の玉川上水緑道」と名付けたテーマが怪しいくらいに、水路の上部も緑陰になるべき水路沿いも空が透けて見え、これで「緑陰」が具現するのかと、寒々しい水路周辺の写真を撮ったものだ。さすがに自然の営みは例年通りに緑陰が蘇り、美しい黄緑・緑の舞台を広げてくれた。
 とはいえ、この中間水路では、遺跡や名所に乏しく、緑陰以外のテーマ探りに苦労した。玉川上水完成による江戸市民の飲み水供給とは別に、「逃げ水の里」の武蔵野台地から新田村への発展と、それに関わり貢献された諸方面の人々の苦労と感謝を知ることをサブテーマにしたのだが、ご理解いただけたかどうか、不安である。
 

100万都市実現化のインフラ整備

 玉川上水は、江戸市中の慢性的な飲料水不足を解消するために江戸幕府が承応元年(1652)に開削を計画した。工事の総奉行は老中であり、川越藩主だった松平伊豆守信綱。水奉行に伊奈忠治(没後、伊奈忠克)が就き、翌正月、工事請負人の庄右衛門・清右衛門(玉川兄弟)に開削の命が下って4月に着工、四谷大木戸までの約43㎞、高低差約92m、着工から8ヶ月後の11月15日に通水した。翌年には虎ノ門まで水を引き、パリやロンドンよりも早く100万都市を実現させるインフラ整備が実現した。
 さらなる市中の大きな転換は、5年後の明暦3年に起きた明暦の大火だ。江戸城を含む市街地の約6割を焼失した。幕府は、市中に繰り返す大火を防ぐ火除け地をつくるために江戸郊外に大名、旗本など武士が住み、下町に町人、その外郭へ寺社の配置換えをした。このことで町がさらに拡大。神田上水と玉川上水の上水では賄えなくなった。玉川上水が完成した6年後に本所用水が造られたのを皮切りに青山上水、三田用水、千川上水と、40年ほどの間、幕府は水の手当てに追われた。その間にも周辺地域の田用水向けに玉川上水から取り込んだ品川用水(寛文9年・1669)も開発した。玉川上水に通水されてから100年ほどの間に玉川上水の分水は右岸に20本、左岸に13本と増えた。

開発の新田村で生活用水を確保

 玉川上水から分水が引かれたことで大きく様変わりしたのは江戸市中だけではない。芦ヶ原、茅ヶ原といわれた武蔵野台地に開発の手が入ったのだ。その契機は徳川吉宗による享保の改革で新田開発を奨励(享保7年・1722)した。村々の有力者らは、こぞって開発願いを出した。一帯は、地下水脈が深いことから水田向きではなく、畑地向きで、玉川上水から取り入れる水は、主に新田村で居住するための飲料用であり、生活用水だった。 

立ちはだかる除塵プラント

 そんなメインテーマに沿って、この日の多摩めぐりがスターした。参加者24人がそろった玉川上水駅南側の駅前ロータリーは、清願院橋の橋上だ。堤の緑道を東へ歩くこと、数分。小平監視所の鉄柵スクリーンが水路をせき止めるように塞いでいた。長さ150mに渡る除塵プラントだ。上流で投げ込まれた缶やビン、木の葉一枚を逃さず取り除く。昭和38年(1963)にできた。羽村取水堰から約12㎞、この監視所に水が届くまで約2時間半。沈砂池に入った原水は、さらに細かいゴミや砂を除き、導水管で東村山浄水場へ送られて、山口・村山貯水池などから送水された水とともに各市区に配水される。

 監視所は、江戸時代でいえば水番人の役目であり、送水量の管理や水路の見回りなどをする。明治27年には熊川、砂川、小川、境、久我山、代田、代々木、四谷大木戸に水衛所が置かれ、水番人が配置されていた。昭和55年(1980)3月の最後まで水衛所があったのは和田堀(旧代田)と久我山、境。熊川と砂川は小平に統合され、監視所と改められた。

巨大な プールのような小平監視所の除塵施設

上水堀はチューブだった

 監視所の下流にあるのが上水小橋。水辺に降りた。チューブの底に立つようで、堀の深さを感じる分、幾重にも重なる緑のトンネルを実感する。流れている水は、監視所から出る多摩川の原水ではない。昭和40年(1965)新宿の淀橋浄水場が廃止され、この地点から下流の久我山・浅間橋までの約18㎞区間は空堀だった。61年の東京都の「清流復活事業」で昭島市宮沢町の多摩川上流水再生センターで高度処理された処理水を地下に埋められた導水管で監視所まで送り込まれているのだ。左岸に登ると「清流の復活碑」がある。

処理水の清流が流れ落ちる上水小橋

水面から見た玉川上水

伊豆殿堀も手焼いた水喰土

 一行は、いったん本流の玉川上水を離れて野火止用水を探ることにした。整備されたレンガ道を歩く。足下の地中に野火止用水が通っていたが、いまは埋められた。玉川上水が完成した2年後の承応4年(1655)に川越藩主・松平伊豆守信綱の領内である野火止へ分水した、玉川上水の分水第1号の水路だ。信綱は幕府老中であり、玉川上水の工事総奉行だった。その家臣であり、玉川兄弟が苦心惨憺していた玉川上水開削の設計変更に力を貸した安松金右衛門に分水工事の指揮に当たらせた。
 野火止用水は、いまの小平監視所から埼玉県新座市、志木市の新河岸川までの25㎞に及ぶ。武蔵野台地を北東に掘り進めることから、この区間は起伏が多く、浅い地点では水が地中に吸い込まれる水喰土(みずくらいど)対策に苦慮した。
 一行が立ち寄った小平市中島町の一之宮神社は、そんな苦労をしのばせるところだった。瑞穂町の阿豆佐味(あずさみ)天神社の神官・宮崎主馬が祠を建てて水分神(みくまりのかみ)と豊受神(とようけのかみ)を祀り、通水祈願をしたところ、雨が降り、一夜で野火止用水に水が流れ始めたという。以来、今日も農耕の神として祀られている。
 こうして神に祈りながらも野火止に水を送れるようになるまで3年も要したが、ひとまず40日で工事を終えたという。玉川上水に流される水量の3割を引いた。
 開削に前後して川越藩が推し進めていたのは大規模な新田開発だった。農民や家臣を計画流域に多数入植させ、流域の収穫に大きく役立ったことから野火止用水の別名を「伊豆殿堀」と呼ばれている。近隣の小学校校歌にも歌われている。48年(1973)に玉川上水からの送水を止めて59年から多摩川上流水再生センターで高度処理された処理水が送られている。

上水沿いに咲いていたキンラン

純白なマルバウツギも目に付いた

費用と労力を抑えたたぬき掘り

 西武拝島線東大和市駅前の青梅橋から炎天下を南下して再び玉川上水へ戻った。西中島橋は、林立する樹間を縫ってくる風が体を冷ます。近くに新堀用水の胎内堀があった。直径70㎝ほどだろうか、馬蹄形の「ほっこぬき」とか、「たぬき掘り」といわれるトンネル工法で、所々でたて坑のように穴が開き、暗さの中にわずかに水流が見える。開渠で深く掘るよりも費用が安く、労力も倹約したのだろう。

草に覆われる前の新堀用水の胎内堀

 新堀用水は、小平監視所で分水され、玉川上水の左岸を細い水路でつないでいる。右手の玉川上水本流には「清流水」といわれる処理水が流れているが、新堀用水の水は多摩川の原水だ。地上を流れる小川橋付近で水のきれいさを確認したくなった。見た目にはわからないものの。

行く手右側の玉川上水は深いが
新堀用水は水が近い

人里ない青梅街道の荒野に着眼

 この地点は、小川用水の分水口でもあった。玉川上水から2番目に引かれた分水の砂川用水(明暦3年・1657)が五日市街道に沿って砂川新田を開発したのに対して、小川用水は青梅街道沿いの小川新田の開発に役立てられた。小川村は、岸村(現武蔵村山市)の郷士・小川九郎兵衛(元和8年・1622~寛文9年・1670)が小平市で最初に開発した地域だ。九郎兵衛は「逃げ水の里」といわれる、川がなく、水が乏しい荒漠の原野を開発しようと手を着けた。当時すでに砂川新田が開発されており、街道は、江戸市中へ青梅の石灰などを運ぶ人馬が往来していたが、田無(現西東京市)と箱根ヶ崎(現瑞穂町)の約20㎞区間は人も住まず、馬継ぎの宿もない荒野だったことに目をつけていた。その中間点にあたるここでは鎌倉街道が交わる利点もあって幕府に新田開発を願い出た。そのためには玉川上水から分水を引くことが必須だった。玉川上水の通水から3年後の明暦2年(1656)に許諾された。
 九郎兵衛の願い通り、伝馬継ぎを務め、石灰を運んだが、新田開発は思うように運ばなかった。入植した農民や他の名主と争いもあった。多少の目途がついたのは開発に着手して10年後だった。ようやく年貢が納められるようになり、開発が終了するまでに32年間かかった。
 玉川上水に架かる寺橋の北方にある小川寺(しょうせんじ)に九郎兵衛が眠っている。九郎兵衛自身が小川村を開発した時に建立した小川家の菩提寺だ。

村人の思い表す2人の謝恩塔

 

 九郎兵衛が開基となって明暦2年に建てたのが国分寺市北町の妙法寺だ。この寺は元々、小川村にあり、村の半数の家と国分寺村の榎戸新田の一部を檀徒としていたが、小川村の檀家が離れて小川寺に移った。妙法寺は明治42年(1909)に現在地に移った。本堂前には武蔵野新田82村の農民が寛政11年(1799)に建立した川崎平右衛門、伊奈半左衛門忠宥(ただおき)の2人の代官に対する謝恩塔がある。2段から成る塔身の正面に2人の戒名が刻まれており、新田村の人々の思いを表している。

高さ3mもあろうかという謝恩塔を囲む参加者達

江戸への上水よりも農作物

 流域一帯の新田開発が大規模だったのは享保の改革による命だ。幕府は、関東周辺の農政を遂行する関東地方(じかた)御用掛に南町奉行の大岡忠相(ただすけ)と北町奉行の中山時春を登用して農業に不向きな土地、手が着いていない所の開発に当たらせた。江戸の水道経営は、道奉行から町奉行に移され、町奉行は「武蔵野新田の水が減じて農業が不作となるのは江戸表への上水が不足するよりももっと大事な問題だ」という姿勢をとっていた。いわば肝いりの武蔵野新田開発だった。多摩郡40村をはじめ、武蔵国全体で82村あり、元文4年(1739)には新田出百姓の総戸数は約1300。新田の多くは農民が資金と労力を出し合って開発する村請新田で、陸田が大半だった。水田は少なかった。その総石高は1万2600石余りだったという。
 この時、大岡忠相に抜擢されたのが川崎平右衛門だ。府中押立村の名主で、農民を保護し、飢饉のときも農民を救済し、成果を上げた。関東3万石の支配勧請格の代官になった。玉川上水の名勝となった小金井桜を植えたのも平右衛門で、後に美濃や石見銀山で執った仁政も評価された。
 平右衛門の後任で関東郡代10代目だったのが伊奈半左衛門忠宥(ただおき)。伊奈家は徳川氏の関東領国支配の中心的役割を担っていた。忠宥は土木技術者集団を率いて関八州の治水工事、新田開発に采配を振るった。

土地柄映すさまざまな架橋

 玉川上水に架かる橋は、人や屋号などに由来するものが多く、今日に伝える建設当時の時代と土地柄を映す格好のシンボルだ。水車橋もそうだ。新堀用水から北側の水車小屋に水を引いていた。明治39年(1906)に名主の小川家から小島家が譲り受けた水車を指す。昭和25年(1950)ごろまで製粉精米用に使っていた。小島水車とも呼ばれ、各地の分水の水車は30基を超え、時代を経るとともに利用範囲が広まり、撚糸や火薬づくり、大砲の砲身削り、発電の動力、伸銅、カレー粉・唐辛子の粉砕など多様に生かした。
 鷹の橋は、櫓組式の木製の橋だったが、昭和34年(1959)に今のコンクリート製になった。江戸時代にあった尾張徳川家の鷹場が基だという。
 府中街道と交差しているのは久右衛門橋。享保年間に徳川吉宗が奨励した新田開発に名乗りを上げた名主の名前に由来する。
 西武多摩湖線が渡った先の八左衛門橋は、小平市喜平町の旧家に仕えて小川新田開発の組頭を務めた滝島八左衛門が橋を架けたことから名づけられたという。滝島家は、明治5年(1872)までの2年ほど玉川上水に通船されたとき、小平の持ち船5軒のうちの1軒で物資の輸送と八左衛門橋のたもとで茶店を開いていた。茶店は船乗りの休憩所だった。

商人請新田に現れた今日的事情

 小平市には小川村をはじめ、新田開発されたところがいくつもある。小川新田、大沼田新田、鈴木新田、回田新田、上鈴木新田、野中新田与右衛門組、4ヶ所の野中新田善左衛門組だ。野中新田には逸話がある。上谷保村(現国立市)の農民6人と江戸の商人4人が田無境から立川境までの513町歩(約5.1㎢)の開発許可を受けたが、権利金冥加金が納められず、やむなく江戸の穀物商・野中屋善左衛門に援助を願い出て開発にこぎ着けたという。商人の野中屋の名を冠して「野中新田」と名付けたという。
 その商人請新田の飛び地にあったのが、この日の終盤に訪ねた上水南町稲荷神社だ。堀端野中(現小平市上水南町)の鎮守として元文元年(1736)に祀られた。開発当初は一村だったが、その後、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組、野中新田六左衛門組の三組に分かれた。堀端野中は野中新田善左衛門組に属した。組頭の六左衛門らが話し合い、堀端稲荷の産土神として稲荷神社を勧請したのだという。
 この稲荷神社で長年受け継がれてきた祭りが10年以上前から行えなくなっている。氏子には農家が減り、いまの生活から五穀豊穣の意味合いが薄れて祭りを継承できなくなったのだという。玉川上水の下流域で上水本来の機能を変えたように流域住民の生活も日々新たなスタイルを生み出していることを改めて痛感した。

乱舞する怪しいケシの花

 野火止用水と玉川上水の沿線には見どころがいくつもある。東大和市駅に近い東京都薬用植物園では各国の薬草と薬木を収集・栽培・研究し、それぞれを展示している。強心薬の原料であるジギタリス、なじみがあるオミナエシの根には利尿、排膿効果がある。医療に欠かせない反面、人体に影響を及ぼす麻薬でもあるケシの花が見ごろだった。

一般に栽培が禁じられているケシ。
東京都薬用植物園では花盛りだった

地下25mの暗闇に延びる下水道管

 上水と表裏一体の関係にある下水。その専門館もある。久右衛門橋そばの小平市公共下水道管理センターのふれあい下水道館だ。20年がかりで平成2年(1990)度末、同市内の下水道普及100%を達成したのを契機に平成7年に完成した。清流に棲む魚を展示し、地下に隠された下水道の実態を示す資料もある。圧巻は、地下25mに埋設され、実際に使われている内径4.5mの下水道管の中に入れることだ。2万世帯4万5千人の排水を賄っている。

1秒間の流量能力は47㎥。この日の下水は管の底を流れる程度だったが、平成27年7月30日午後2時ごろ、小平市を襲ったゲリラ豪雨は下水管いっぱいで、地下5階の展示フロアの扉を完全閉鎖したという。その様子を映像で見せている。

地下25mも潜って見た下水の本管に目を見張った

100歳超えてなおも彫刻熱高く

 玉川上水とその周辺環境にほれ込んでいたのは彫刻家の故平櫛田中さんだった。岡山県井原市出身。昭和37年(1962)に文化勲章を受章した8年後、99歳の時に上水堤に転居した。約10年住んで107歳で亡くなった。代表作は国立劇場ロビーの空気感を引き締めている木彫彩色の作品「鏡獅子」(高さ2m)が知られる。歌舞伎俳優の6代目尾上菊五郎をモデルにして22年がかりで仕上げた。歌舞伎座通いも続いたという。玉川上水商大橋下流の小平市平櫛田中彫刻美術館で公開されている大小数々の作品は、どれも質感があり、硬軟の取り合わせで具象感を強めている。美術館は、田中さんの邸宅だった。

 庭にモニュメント風に置かれたクスノキがある。推定樹齢500年、直径1.9m、重さ5t。100歳になったころ、30年間制作できる原木を集めた。その一つだ。日本画家の横山大観と地唄舞の竹原はんの像を彫りたがっていた。特にはん像には意欲が強く、「鏡獅子」に匹敵する女人の舞姿を彫るのを楽しみにしていたそうだ。
 木に思いを託す熱いエネルギー源は、玉川上水のそばで木を見つめ、木と向き合っていたからだろうか。

 玉川上水シリーズは、まだまだ続く。
 

鏡獅子(木彫彩色、昭和40年作)
小平市平櫛田中彫刻美術館ポストカードから

小平市平櫛田中彫刻美術館の庭で全員集合。右端の木はクスノキ

【集合:多摩モノレール・西武拝島線玉川上水駅 午前9時30分/解散:JR・西武線国分寺駅 午後4時】