青梅市二俣尾の急斜面で目に飛び込んできたのは、眼下でS字にくねる多摩川と、対岸の河岸段丘に箱庭のように広がる柚木と梅郷地域。背後にも前面にも山が迫り、まさに木材など自然資源の宝庫だった杣保(そまほ)を象徴する立地だ。秩父から発した鎌倉街道山ノ道は、幕府が置かれた鎌倉まで縦断し、青梅はその中間域。この一帯を拠点にした戦国の豪族三田氏の勢いを彷彿させた。現代に入って、作家の吉川英治、洋画家の小島善太郎もこの地を愛した。3月16日、9回目の多摩めぐりは「青梅・鎌倉街道沿いの文化、歴史を歩く」と題した探索だった。参加した31人は、皇室や武家、公家の衣裳を展示する青梅きもの博物館にも立ち寄り、普段触れることのない世界にも浸った。
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三田氏を象徴する杣保と鎧塚
この日のコースの玄関口は、JR青梅線軍畑駅。ここそのものが三田氏の領地であり、裏山には辛垣(からかい)城を構えていた。永禄6年(1563)北条氏照の軍勢に攻められた三田氏は、辛垣城で最期を遂げた。この戦いで死した武者の刀や兜などの兵具を埋めて供養した「鎧(よろい)塚」は、軍畑駅からすぐだった。
三田氏は、平将門の後裔と称し、代々、鎌倉将軍家に属し、青梅市勝沼の勝沼城に居城を置いて多摩西部や埼玉南域で勢力を誇示していた。鎌倉幕府から拝領した領地の石高は、1万3千石(約3万2千俵以上)あったという。山域の杣保では木材や漆、薪炭なども大きな収益だった。歌を愛し、風流な暮らしの一方、青梅市内の天寧寺、海禅寺、虎柏(とらかしわ)神社などの社寺を開基・修復し保護に努めたと伝わる。鎧塚は周囲約27m、高さ3mあまりの天頂に「鎧塚大明神」を祀る小さい祠が据えてある。
V字谷塞ぐ連山に魅かれた洋画家
鎧塚の上を通るのが青梅線だ。高さ41.5mの奥沢橋梁を見上げると、天空に架けた鉄橋のようだ。折よく下りの電車がやってきた。太陽の光を反射した車両は、神々しくもあった。
坂道を登り切った所は、鉄橋の東詰だった。線路は住民の生活路と並行して延び、道路の南側直下は青梅街道、さらに数十メートル以上の真下に多摩川が大河のように大きく蛇行していた。目を西に転じると、軍畑大橋、その奥に壁が立ちはだかるように大岳山などの奥多摩の峻険な山容がV字谷を塞いでいた。
この風景の大きさと奥深さを愛したのが洋画家・小島善太郎だった。小島画伯は、幼少期から苦難の生活をしながら絵の道を志し、パリに留学して、帰国後に独立美術協会を創立した一人で、日本の洋画壇の重鎮だった。
昭和58年(1983)、亡くなる1年前に3カ月間、ここに逗留して「奥多摩秋景」を描き上げた。それまで多摩地域では八王子や自宅の日野市などを多数作品にしていたが、青梅を舞台にしたものがなかった。幸い青梅市内の洋画愛好者に指導していた縁で、この地に招かれたことからすっかりほれ込み、絵筆を走らせた。
画伯は、セザンヌを敬愛し、自然との親和性を重んじて精神性の高い姿勢を生涯貫いた。「奥多摩秋景」でも自然情景を明るく、かつ温かく、柔らかなタッチで描いた。作品は、青梅市立小島善太郎美術館に所蔵されているほか、長年、元東京都多摩社会教育会館大ホール(立川市。平成28年末閉館)の緞帳を彩っていた。
珍しい関東山間地でクスノキの大樹
ガイド:関根さん
歌人や小説家が息をのんだ桃の里
二俣尾界わいは、室町時代から広く知られた「桃の里」だった。
「花を見てかへるといはぬ人はなし たもとを桃のにしきたちきて」と公家で歌人だった三条西実隆が花見客を見て詠んだのだろうか。二俣尾駅に近い海禅寺前の碑は、古の情景を伝える。
小説家だった田山花袋も、こう嘆いている。
「あゝまことに、何故に人はこの多摩川の山水を説かざるか。何故に徒に木曾熊野の遠きを求めて玉輦(ぎょくれん)のもと二十里外に、この絶大絶奇の山水あるを知らざるか。(略)われは凝立していとうつくしく横たわる奇景をみたり。全村皆桃花なり。全村皆紅なり。村舎離落の間皆桃ならざるなく…」
「武蔵風土記稿」によると、8千本の桃の木があり、112t余りを出荷したとある。二俣尾の桃の中でも「鎧通し」という品種は、実の周りが29㎝もあったといい、江戸城に献上されていた。
加えて、江戸時代から継いできた「梅の里」梅郷も近年のプラムポックスウィルスが蔓延して、4万本ほども伐採された。このところ5千本ほど植樹したが、往時の梅郷の姿はない。宅地化が進んでいるのだ。
ガイド:菊池さん
自然と人に癒された吉川英治
秩父から南下する鎌倉街道山ノ道は、山間部と平野部を結び、川や谷、尾根がある起伏に富んだ街道だが、この日は、ほぼ河岸段丘上を歩くコースで身が軽い。奥多摩橋を渡れば、作家・吉川英治がこよなく愛した柚木や梅郷の里だ。
吉川英治が赤坂から柚木に移り住んだのは、昭和19年(1944)3月。明治初期に建てられた元養蚕農家の母屋や江戸末期建造の蔵などがある敷地は約6千㎡。庶民に寄り添った“大衆文学”を編んだ吉川英治にとって、敗戦が大きな影を落とした。社会変革の対応に苦慮したのだろう、2年ほどペンを持たず、畑に出、晴耕雨読の日々を送った。その間、住民と交流を深め、俳句を指導するなどした。自身、青梅の自然と住民の素朴な人情に癒される日々だった。座右の銘とした「我以外皆我師」に滲むものがある。そうした経緯から地域の公民館建設の資金を提供したという。戦後になって執筆を再開したのは「新・平家物語」で、7年がかりの完結だった。
柚木で9年5カ月過ごし、70年の生涯で約30回引っ越した中で最長の暮らしの舞台だった。品川に転居した後、村の税収などを心配した吉川英治は住民票を移さなかったという。
吉川英治が亡くなった後、昭和52年(1977)に開館した吉川英治記念館の母屋や書斎などにはゆかりの蔵書や書など約2万点が展示されていた。推敲を重ねた直筆の原稿などの文字に細やかな精神性が伺われた。家族と談笑する写真にも優しさがあふれていた。記念館は今年3月20日を最後に閉館した。
気品ある皇室・皇族の衣裳
今上天皇の生前退位で皇室の話題が高まっている中、青梅きもの博物館を見学した。200年前の土蔵に増築した木造構えの民家風の趣を讃えた展示室は、皇室衣裳に彩られていた。大正天皇即位式に皇族が着た衣冠や履物、十二単衣など、平安時代以降に用いられた高位の上着である小袿(こうちぎ)、大礼に参列した事務官や女官が着用した数々の品が展示され、どれも重々しさを感じた。
現在の皇太子殿下と雅子妃殿下のご成婚の装束だった十二単衣(復元品)にも目を凝らした。皇族に嫁ぐときは、皇女、民間人いずれの場合も第一礼装の十二単を着用するという。あでやかな中に気品と威厳を感じた。絹や縮緬など、さらに一重、二重の生地に無地や吉祥柄などの刺繍を施したものなど様々な袱紗(ふくさ)にも技術の高さを見た。
街道筋に当たり前に息づいてきた文化と歴史、時代とともに変遷した産業にも気付かせてくれた山ノ道だった。
ガイド:井上さん
しばらく歩いて洋画家・小島善太郎の作品「奥多摩秋景」ゆかりの場所に着いて説明が始まるや否や、小島善太郎が3カ月間逗留して「奥多摩秋景」を仕上げたS氏宅から「どうぞ、どうぞお庭にお入りください」との予期せぬサプライズ。往時を彷彿とさせる貴重なお話しを伺うことが出来ました。
ミツマタが咲き誇るオープンガーデンでもご当主様の実にフレンドリーなお話しを聞かせて頂きました。「いつでもオープンだから」とのお庭だけでなくこころもオープンな雰囲気が漂う楽しいひと時を過ごさせて頂きました。閉館直前の吉川英治記念館の学芸員でもある事務局長のお話し、青梅きもの博物館では館長自らによる情熱溢れるご説明が印象的でした。
訪ねた場所が好きになるかどうか?は美しい景色、美味しい食事、旨い酒・・・だけではなくて、そこでどのような人々と出会ったのか?で決まると言われます。花粉症の皆様にはスギ花粉がオウメな産地訪問となりましたが、スギ花粉の季節がスギた頃に「また青梅に行ってみようかネ」、そして「多摩めぐりのイベントにまた参加してみようかネ」と感じて頂けたら幸せです。
【集合:JR青梅線軍畑駅 午前9時30分/解散:青梅きもの博物館 午後3時30分】